エピローグ
フォルトは悪戯小僧に腹を立てて報復に出ようと画策。このままでは火事間違いなし?
どすん。音は鈍かった。それは、日常においてはまず耳にすることのない音。重たいものが起こす衣擦れのような響きだった。
音とほぼ同時に重みが地面に崩れ落ちる。糸の切れたサンドバッグよろしく、力なく地面に叩き付けられていくそれを、シリアがしっかりと受け止め、力強く親指を立てた。
「よしっ」
「『よしっ』じゃな~~~い!!」
落ちかけた油と蝋燭とを寸でのところで掴み、満面の笑みを湛える先輩。その腕の中で、ぐったりと横たわる俺を目にしたルフィニアが絶叫する。
「なななななな、何するんですか!」
息の抜けた声で名を呼びながら駆け寄ってくる。
先程ルフィニアが喰らったものの何倍もの威力の「気合い」だったのだろう。呼吸は浅くしか出来ず、顔から血の気が引いていくのを感じる。肢体が垂れ、小型犬の如く震え、全身が痛みを訴えてくる。
「大丈夫、フォルトは頑丈だから。それにさっき昼ご飯食べたばっかりだし」
「拳を腹に入れて、何を言いますかっ!」
シリアが笑顔で言い放つも一蹴される。噛み付く後輩が気に入らないらしく、俺を見下ろしながら膨れ面で「止めなきゃ火事になってただろうが」と口を尖らせながらぼやいた。
「だいたい、我慢が足りないっつの。まぁ、それは置いといて」
「置いとかないでください」
反論を完全に無視し、シリアは気を取り直して先輩らしい面もちを作った。
「で、どうしようか?」
限界だ。その辺りで断続的だった俺の意識は切れて、深い闇の底へと落ちていった。
「……んあ?」
冷たく柔らかい感触を頬に覚えて目を開けると、そこは絨毯の上だった。淡いグリーンの色合いの落ち着いた世界が、視界の奥へと延びている。
「……とぉ、ねぇ、フォルトってばぁ」
今度は反対側の頬をつんつんとつつかれる感触があり、妙に重い体を動かして向きを変えると、そこにはイリスの顔があった。しかも、極端に近くに。
「うわっ、イリス様!?」
しゃがみ込んで覗き込んでくる彼女の、紅く大きな瞳と出会って、慌てて飛び起きる。見回してみると、そこはイリスの部屋であった。
「お、俺っ」
記憶が戻ってくるのに伴い、腹部に受けた鈍い痛みが蘇る。危うく火災を起こしそうになったところを、シリアによって止められたのだった。
いささか乱暴な手段ではあったが、そうでなければ大火災が起きるところだったのだ。感謝すべきなのだろうな、という思いが頭を過ぎる。
「フォルト、だいじょうぶー?」
余り心配顔に見えないのは、幼さからか、俺の頑丈さを信じてか。それでも意識を失って倒れていたのを、放って置かずにいてくれたのは嬉しい。……床に転がされていた現実は悲哀に満ちているけれど。
「あ、はい。ありがとうございます」
座り込み、銀色に輝く頭を優しく撫でてやれば、イリスもようやく笑顔を零す。
「そういえば、あの雪だるまは……?」
部屋は昼前の時の状態に戻っていた。つまり、この部屋にあったはずのあの馬鹿げた雪の塊が消えていたのだ。まさか、夢だったわけはあるまい。
「んーとぉ、フォルトが倒れちゃった後に、クシルの家の人が来てね~。ばーんてしちゃったの」
「成程。分かりました」
イリスのたどたどしい説明を、途中まで聞いて全てを理解する。要するにクシルの世話係がここへ来たのだ。あの獰猛、もとい勇猛な世話係なら、主人のどんな悪戯にも屈するはずがない。事件に片が付いているのも頷ける話だ。
「他の皆はどうしたんですか?」
「クシルたちは帰ったよー。ルフィニアとシリアもご用事だって」
大きな窓にかけられたカーテンの隙間からは、もう夕日の色が漏れ出している。どうしても血を連想してしまうので、俺はこの時間帯が好きではなかった。
「さてと」
痛みをだましだまし、服の埃を軽く払って、これからのことを考える。かなりの時間気絶していたらしく、これ以上主人の部屋に留まっているわけにはいかない。
「イリス様、お腹空いていませんか?」
「うん。すいた~」
幼女はローブに隠れたお腹をさすってから、こちらを見上げて言った。吸血鬼である彼女の食事は基本的に一日二回。食事と言っても、血ばかり飲んでいるのではなく、食物も口にする。夕食は何だろうか?
「フォルトはみんなでご飯食べてるんだよね?」
「いつもじゃないですけど、そういうこともありますね」
俺は仕事内容の特殊性ゆえに他の従者とは行動時間がずれやすい。今日はたまたまシリアやウィスクと同席したが、一人きりのことも少なくない。そんな煩雑な光景を思い浮かべながら答えた。
「今日はフォルトと一緒にご飯食べたい」
「一緒に、ですか?」
「フォルトがご飯食べてるところにつれてって~」
「うーん」
無邪気な顔で服の裾を引っ張りながらせがむ彼女を見下ろし、しばし唸って悩んだ。従者塔に吸血鬼が来ることは珍しく、反応は昼間の一件の通りだ。あの空気を幼いイリスに感じさせるのは気が引ける。
それに、気兼ねない付き合いをしている俺達にも、底辺には厳然たる主従の関係がある。主人と一緒に食事を取るのは、それなりの意味を持つ行為なのだが、イリスにはまだ理解できないことかもしれなかった。
「じゃあ、連れていくのは無理ですけど、ここでなら一緒に食べますよ」
なんとか捻り出した妥協案に、イリスも感じるところがあったのだろう。それ以上はねだらず、こっくりと頷いた。
俺は主人を待たせて、急いで食事の用意をしに走っていった。どうせ大した時間はかからない。食事を作る係が常に控えているからだ。
彼らは常に待機していて、その腕を振るってくれる。イリスの担当料理人は笑顔の絶えない穏やかな若い女性で、作ってくれる料理も優しい味と香りがする。
料理部屋を訊ねると、今日も白い服に白い帽子といった、コックの装いにきりりと身を包んでいた。
俺は事情を説明して二人分の料理を拵えてもらう。そうして、テーブルまで一緒に運んだ。テーブルには白地にピンクの小さな花の刺繍があしらわれたクロスをかけて、料理とスプーンを乗せれば準備万端である。
「待ちきれないよー、はやくはやく!」
にこにこしながら周りを回って、テーブルに置かれた料理に「美味しそう」と騒ぐ姿が微笑ましい。椅子をひいてやればちょこんと腰掛け、スプーンを持って急かしてくる。
「はい、本日の夕食はオムライスですよ~」
明るい髪色の料理係が礼をして下がり、扉がしまるパタンという音がする。
オムライスの黄色に赤という鮮やかなコントラストが美しい。鼻をくすぐるのはトマトの酸っぱい香りだ。とろけそうなふわっとした卵の上に、特製の酸味控えめソースがかかっていて食欲をそそる。
俺が向かい側の席に座れば、ささやかな夕食会のはじまりだ。
「いっただっきま~す!」
言い終わる前からスプーンは卵に突っ込まれている。余程空腹だったのだろうなと思いながら、その勢いに習った。
「んん!」
「おいし~!」
一口食べて、想像以上の旨さに思わず声が出てしまう。卵は柔らかくほんのりと甘く、中のライスの味付けも絶妙だ。材料からして違うのだろうが、やはり料理の腕も素人とは段違いだ。
「あとでデザートを持ってきてくれるって言ってましたよ」
「ホント? わぁい、楽しみ~!」
楽しい時間はあっとういう間で、そうこうしているうちにも約束通りデザートのプリンが運ばれてきた。今度も二人はまたしてもその美味さに舌鼓。笑ってばかりの夕食となった。
食器を下げたあとは、風呂や着替えなどの寝支度を済ませ、イリスをベッドに寝付かせてから部屋を出る。幼いイリスの夜は早い。吸血鬼一家にそれぞれ付いている世話係の中で、自分は最も早く自室に戻れる人間だろう。
「……」
廊下でふいに立ち止まり、つい今しがたまで繋いでいた手を見詰めた。イリスが生まれた時に就いたこの役目も、そろそろ離れる時期だろうなと考えてしまう。
「ふぅ」
夜は特にしんしんと冷える。他の従者と何度かすれ違いながら、今度はおもむろに空を見上げた。完全な円に近い月が、夜空に煌々と光りながら浮かんでいた。
終
最後までお付き合いありがとうございました。
フォルトのドタバタな一日でしたが、少しでもお楽しみ頂けたでしょうか?
ちらっとしか出なかったり、名前しか出てこなかったキャラがいたと思いますが、またどこかで活躍すると思います(多分)。
次回以降は閑話をいくつかお送りします。