第二話 悪魔の笑みと雪だるま
イリスの髪のハネをなんとかごまかしたフォルトとサスファ。ほっと安堵したのも束の間、次の問題が近づいていた。
とにかく、今日の第一関門はこれでクリアとばかりに胸をなで下ろした瞬間、化粧室の扉がバーンと勢いよく開かれた。全員がとび跳ねるほど驚き、そちらへと目を奪われる。
ぎょっとしたのは、大きな音のためだけではなかった。女性用の化粧室になんの躊躇もなく男が入ってきたからである。いや、自分も同じではあるのだが。
「お前ら、何やってんだ?」
男が部屋を覗き込むと、開いた扉の隙間からすかさず寒い外気が吹き込んできた。寝癖を直すのに必死で忘れていた低温が背筋を振るわせる。
紫のマントに包んだその身は俺よりやや低く、外見だけならまだ少年といっても良い。しかし、イリスと同じ銀糸の髪と紅い瞳が子どもと侮るのを許さない。
「お兄ちゃん!」
「おう」
イリスが嬉しそうな声を上げて、男にぱっと飛びついた。兄と呼ばれた方も応じて妹の頭を優しく撫でてやる。
「る、ルーシュ様。あの、その」
「イリス様の髪の毛を整えてたんだよ」
オドオドした様子のサスファを横目に、「こっちはそれが仕事でね」とぞんざいに言い放つ。確かに彼――ルーシュは我が主の兄には違いないのだが、いちいち馬鹿正直に構っていては体が保たない相手なのだ。
「ふ~ん。まぁ、いいや」
ルーシュも慣れたもので、一従者に過ぎない者の不敬な態度にも動じることはない。あくまでマイペースに、何やら面白いことを思い出したような笑みを浮かべた。
「そういや、そろそろ食事の時間なんだけど?」
ふいの言葉にサスファがぎくりと体を強張らせる。自然とルーシュの口元からのぞく鋭い牙に目が吸い寄せられる。「食事」とは、要するに血を寄越せと言っているのだ。
「なら、俺のところなんかに来ても意味無いだろ」
俺は冷たい声音で即答した。現当主の嫡男であるルーシュには、無論彼の世話係がいる。ことらとて伊達に長年付き合わされてはいない。こういう場合、下手に取り合えば疲れるだけだ。
「……なんだよ」
しかし、どうにも嫌な予感がして睨み返すと、ルーシュがニヤリと笑い返してきた。不気味だ。吸血鬼だという事実を差し引いても、これは完全に悪い笑顔だと本能が告げている。
「フォルト、お腹空いたよ~」
数秒の対峙のあと、今度は下からイリスが俺の髪を強く引いてきた。そう、無駄に長い髪はこのために伸ばしてあるのだ。正直、引っ張られると痛いし、歩くとあちこちに当たるし、汚れるし、手入れは面倒だ。
嫌気がさして、少し前に一度思い切って短くしたら、イリスは大号泣だった。仕方なくルーシュの用意した怪しげな薬で伸ばし直したのである。
「あぁ、はいはい」
膝によじのぼってくる幼子を抱え上げて、俺はもう片方の手で自分の首の後ろの髪を払い……はっとする。
ゆっくりと顔を上げると、ルーシュがぺろり、と舌で唇を舐める仕草が目に入り、背筋に怖気が走った。決して部屋が寒いからだけではない。
「たまにはご相伴に預かろうかと思ってさ」
「殺す気か! お、俺の血なんか飲んでも不味いだけだぞ」
からかうのが楽しくて仕方がないらしく、ルーシュは更に笑みを濃くして一歩、また一歩と近付いてくる。
「そんなの、試してみないと分からないって。なぁ、イリス?」
「おいしいよ~」
会話の途中でもお構いなしに、イリスは俺の首へ牙を立ててきた。その幼い姿からは想像も付かない鋭い痛みが訪れ、ざらざらとした感触が続く。
こちらが動きさえしなければ長い時間でもなく、まして服を汚すことなどない。あとはこうしてじっと待つだけなのだけれど、目の前の銀髪の男は確実に距離を詰めてくる。「食事」が終わるのを待っているのだ。
「ふぅ。ごちそ~さま」
だんっ! イリスが首から口を離した瞬間、俺は床を蹴った。そのままルーシュの横を無理矢理すり抜け、脇目もふらず一気に走る。
「あ」
声を漏らしたのは誰だったのか。寒さと貧血も相まって、目眩を覚えた体を支えて走りきる。イリスを抱えた体勢のまま本塔へ辿り着き、なんとか逃げ延びることに成功したのだった。
「びゅーんってすごかったねぇ」
「あ、サスファ忘れた」
まぁ大丈夫だろう。ルーシュもそこまで悪魔じゃあるまい。多分。
白い息を吐きながら、長い廊下を肩からおろした幼女の手を繋いで歩く。二人の歩みはイリスに合わせたのんびりペースだ。革の靴底を通して、床の冷たさが足に伝わってくる。
遠くの方で従者達が忙しく行き交う控えめな足音がする以外は、しんとしたものですれ違う者もなかった。
「寒いですか?」
「手をつないでいるからぬくぬくだよ~」
主人はにこりと笑った。
俺の仕事はイリスの身の回りの世話だ。まだ幼い彼女の一日は勉強の時間を除けばかなり余裕があり、今みたいに二人で城の中を散歩するのも、立派な仕事のうちである。
いくつもの塔の群と表現すべきこの城は、とにかく広くて大きい建造物だから、幼い頃から連れ歩き、道を覚えさせる意味でも散歩は必要なことなのだ。
「今日はどこに行くの?」
イリスが紅い瞳を向けてくる。好奇心に満ちたそれを見返すと、足を止めて考え込んだ。
さて、どこへ向かったものか。生活に必須の部屋はもとより、もう少し大きくなったら行くであろう場所へも、すでに何度か案内してきた。
他に見て置いた方が良いのはどこだろう。幼い彼女や従者である自分が入ることを許されていない所へは連れていけないしな、と思考が巡っていく。
「……イリス様はどこへ行きたいですか?」
そういえば、まだ本人に選ばせたことは無かった。たまには希望を聞くのも、子どもの自主性を育てるのには有効だろう。そう思って訊ねると、彼女の顔に喜びが浮かんだ。
「イリスが決めていいの?」
「いいですよ」
「やったぁ! う~んとねぇ」
幼女はしばらく、俺と同じようにあちらこちらへと思いを巡らせていた。ああでもない、こうもないと、思い付いては打ち消すのか、くるくる表情が変わって面白い。
そうして悩みに悩んで、やっと結論が出たらしく、俯いていた顔を上げると強く宣言した。
「よぉし、しゅぱーつ!」
楽しそうな笑い声が、雪の舞う中から漏れ聞こえてくる。中庭へ行きたいというイリスの願いに応えて、俺は雪の積もった庭へと連れていくことにした。事前に一度部屋へ戻って、手袋やマフラーを身につけさせることも忘れない。
「う、冷えるな」
一歩外へ出るだけで途端に気温が下がる。中庭は積もった雪で白一色だ。秋に降り積もった木の葉も、今は水が止められている噴水も、どこもかしこも真っ白に染め上げられている。
二人は降って間もないまっさらな雪を踏みしめた。大小二つの足跡を刻めば、さくさくと小気味よい音を立てた。
「面白いね~!」
赤い手袋とマフラーは雪の中でも目立って、イリスの居場所を見失わずに済む目印になる。
「フォルトー、きてー」
くるくる回ったかと思えば、雪を手で集めてみたりしていて一人でも十分楽しそうに見えたのだが、どうやらお相手をご所望らしい。
「いや、俺はいいで、ぶっ」
断ろうとした瞬間、軽い衝撃と共に視界が白で埋め尽くされた。雪玉を投げつけられたらしい。ただでさえ寒さで顔が痛いのに、鼻から耳の先まで霜焼けになりそうだ。
「な、何するんですか」
「あはははは! 顔まっしろー!」
子どもは本当に元気だ。空を見上げれば、雲の合間から陽の光が柔らかく降り注いでいることに気付く。
「全部、作り物だなんてな」
ぽつりと呟いた言葉も、白い息になって消えていく。
こうして住んでいても信じられない話だけれど、太陽に嫌われた闇の生き物である吸血鬼達は、大昔に地上を捨てて不思議な力で空に城を造ってしまったのだそうだ。
城の周囲をすっぽりと結界で覆い、その小さな世界の中に偽りの太陽と雲とを生み出すことで、彼らは光を手に入れたと聞いている。
あえて地下には潜らず、こんな壮大な仕掛けを作ってしまうほどに、明るい世界に憧れ、焦がれたのだろうか。そして何故、俺達人間はここで生まれ、生きているのだろうか――。
「それじゃあ、雪だるまでも作りましょうか」
「うん! つくろうつくろう!」
考えても詮の無いことだ。気持ちを切り替え、声の調子を上げて提案すると、彼女は元気に走り寄ってきた。途中、転びそうになりながら駆けてくる姿を見ていると、不思議と乗り気になってくる。
「さ、イリス様は上を作って下さいね」
「はーい!」
手を上げて返事をするのが可愛い。イリスは先程俺に投げつけた雪玉の残骸に飛びつき、丸め直して転がし始めた。
「よいしょ、よいしょ」
「転ばないように気を付けてくださいよ」
「だいじょーぶ!」
俺は俺で白い地面を一心に見つめてイリスと同じ動作をしながら、雪の音を聞くとも無しに聞いていた。
「どれくらいの大きさにしましょうか」
「えっとね、おうちくらい!」
せいぜい幼い主の背丈程度だろうと思っていたら、返ってきた答えは想像を遥かに超えていた。いくらなんでも大きすぎる。作れたとしても置き場所もないだろう。
「それはさすがに無理ですよ……」
「えー、そうかなぁ?」
そんな会話を交わす間にも、少しずつ塊は大きさを増していく。最後には、イリスの身長に追い付きそうな程の雪玉が完成した。彼女が渾身の力を込めて作った顔の部分もちょうどいいサイズだ。
「はやくはやく」
「はいはい。よっ、と!」
せがまれて雪玉を持ち上げると、予想以上にずしりとした重みが腰にかかった。子育ては体力勝負というが、こういう時にまざまざと実感する。
「ふぅ」
「わ~、出来た~!」
積み上げてみれば、二人の力作はかなりのものだった。俺の胸あたりを超える高さの雪だるまだ。
イリスは跳び跳ねて喜び、雪だるまの顔や手を落ち葉などで作り、身につけていた赤い手袋とマフラーを着せてあげて、ようやく満足した。
「さ、ほら、冷えちゃいますから。中に入りましょうね」
「はーい」
よほど楽しかったのだろう。その軽い身をひょいと抱えて城へ引き返す時にも、彼女はずっと白と赤のシルエットを見つめていた。
前半はスリリング?でしたが、後半はほのぼの回でした。次回はイリスのお勉強のお話。最初にちらっと出たルフィニアが再登場します。