第六話 境界を砕く音
前回までとは打って変わってシリアス回。結構重めなのでご注意ください。
「おかわり、お持ちしますね」
長閑な流れが変わったのは、レイテがテーブル上の空のカップに気付き、取りかえようと席を外した時だった。
華奢な背中が扉の奧へと消え、部屋を満たしていた香りが薄れたのを誰もが鼻先で感じ取ったかと思うと、ルーシュはぐっと身を乗り出して囁いた。
「あんた、自殺でもしたいわけ?」
カシャと鳴ったのは俺の指先に触れた菓子皿。カップとお揃いの、薔薇の模様の入ったそれが、手を滑らせた衝撃でびくりと震える。
「お、おい。何を言い出すんだよ」
のんびりとしたティータイムを台無しにするには十分な内容だ。大慌てで非礼を詫びようとしたが、ルデリアは軽く首を振って遮った。
「当たらずも遠からず、と言ったところでしょうか」
「前より血のニオイがしない。生気が薄い。据え膳を前に涼しい顔で、我慢大会でもしてんの?」
あけすけに暴くルーシュに背筋が冷える。と同時に、指摘が事実なら、かなりまずい状態なのではとも思った。ルデリアが「闇に属する生き物」なら、命を長らえるには血が必要なはずだ。それも定期的に。
「我慢大会ですか」
たとえが面白かったのか、彼は愉快そうに口元を歪める。しばらく黙考してから、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「そうですね。別に無理をしているわけではありませんよ。これが私の望みなのです」
「『のぞみ』ってなあに?」
「こうしたい、こうなったらいいなと思うことですね」
イリスに優しく教える。子どもへの接し方も慣れているようで、もしかしたら教師でもしていたのだろうかと想像した。ニコニコと笑みを絶やさず生徒を見守る優しい先生なんてぴったりだ。
「長い間、あちこちを旅してきました」
遠いどこかを眺めるような瞳は、ここではなく、辿ってきた道筋を見つめているのだろうか。儚げな印象に加えて諦観も滲ませた。
「若かった頃は、居心地の良さを与えてくれるひとの傍に居ようとしたこともありました。でも、すぐに時が私と相手を引き裂いていきました」
俺はふいにイリスを見遣り、祈りを込めるようにその頭を撫でる。ウェーブがかかった銀糸はさらさらと手に心地よい。
今は幼いこの主人とて、いずれは一人前の吸血鬼として生きていく。その時に自分が傍らに居られるか。普段は意識の外に追いやっている不安がよぎる。それだけ人と彼らの「生きる時間」はかけ離れているのだ。
「どんなに年を取っても、『別れ』は慣れることがありませんね。あの身を引き裂かれるような悲しみは……。何度か経験して、やめましたよ」
一体、何十年前なのか、もっと前の話なのか。気が遠くなるような過去なのは確かで、それからずっと彼は一人きりで彷徨ってきたことになる。
「でも、だったらどうしてここに?」
構えからして、数日の宿ではない。一つのところに留まれば、遅かれ早かれ彼の厭う『別れ』をまた経験することになるのに、何故住むことに決めたのか。
そう問うと、ルデリアはそれまでで一番深い皺を刻む苦笑い顔で、「疲れましてね」と短く呟いた。
「旅にか?」
「生きることにです」
ガチャン! と大きな衝撃音が部屋に響き渡り、硬質な何かがはねる音が続いた。
全員が驚いて音がした方に顔を向けると、傾いた盆を持ちながら真っ青な顔をしたレイテが、扉のところに立っていた。足元には散乱した陶器の破片が紅茶の海に沈んでいる。
「うわ、大変」
俺はさっと立ち上がって駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけながらレイテの手や足を確認する。怪我はないようだ。それから散乱した大きな欠片を拾い始めた。
鋭い割れ目を見極めて摘み上げる作業は、勿体なくて寂しい。けれど、割ってしまった本人は立ち尽くしたままだった。
「レイテ、怪我はありませんか?」
心配するルデリアの声も届かないらしく、お盆を掴む両手が小刻みに震えている。
「る、ルデリア様……いま、何て」
ようやく絞り出すように言葉が出てきたと思ったら、堰を切ったように捲し立てた。
「『生きることに疲れた』ってどういう意味なんですか! まさか、まさかここで死ぬおつもりなんじゃ……。だめ、だめだめ絶対だめですっ! そんなの私がさせませんから!」
気色ばんだ顔で一息に言ってしまってから、唇をぎゅっと噛みしめる。小さな女の子が、泣くのを必死に堪えている時の仕草に似ていた。
「レイテ……」
名前を呟いたルデリアは、少なからず驚いたようだったが、すぐに平常心を取り戻して彼女の細い肩に触れた。
「心配しなくても、働いた分のお給金を踏み倒したりはしませんよ。それに、退職金代わりにこの屋敷を差し上げます。細々と集めた美術品を換金すれば、ご家族の当分の生活費くらいにはなるでしょう」
「そっ……」
「資産の幾らかで、新しいお医者様を雇えば、これからは病気で苦しむ人ももっと減るでしょうし」
「そんな話をしているんじゃありません!!」
金切り声と言って良い叫びに、今度こそルデリアは目を見開き、涙目で訴えるレイテの、幼い頃から知っているはずの人間の変化を、まっすぐに見つめていた。
「アンタさ、そりゃニブいを通り越して害悪だろ。トシ食い過ぎてモーロクしたかー?」
呆れた風のルーシュは、突然の騒ぎに目を丸くするイリスを引き寄せ、頭を優しく撫でてやっていた。彼にとっては生死をかけた諍いより、妹の機嫌の方が余程重要らしい。
「どうしてそんなことを仰るのですか。村の人達もあなたが大好きです。私も……ただの恩返しのためだけにお仕えしているのではないと、わかっておいでのはずなのに……」
語尾は消え入りそうに細くなり、俯いた顔からポロポロと滴が零れ落ちる。すでに濡れた床に次々と染み込んでいく。
「だからですよ、レイテ。だからこそ、これ以上傷つかなくて済む前にと、思ったんですが」
どうやら遅かったようですねと、彼は静かに呟いた。後悔しているようにも、仕方がないと諦めているようにも聞こえる声音だった。
「気付かれないうちに、そっと消えるつもりでした。手紙でも残して、また元の旅人に戻ったと思って貰えるように」
「どうして、そんな真似を」
顔を上げたレイテがルデリアの服を掴む。こうして捕まえておかなければ、二度と会うことが出来なくなるとでもいうように。
「どうか、いつまでもここに居て下さい。何でもしますから!」
それがどれだけ残酷なセリフか知らないで、少女は紡いだ。
きめ細かで美しい肌を晒し、甘い香りが匂い立つほどの近さで、年若い娘は涙を流す。目の前の男が、どんなに苦しめられているかにも気付かずに。
俺はしゃがみ込んだまま、間に入りたい気持ちをぐっと堪えて事態を見守っていた。自分が立ち入って良い話ではない。先ほどまで茶化していたはずなのに、黙り込んでしまったルーシュの姿が、それを裏付ける。
しばらく口を閉ざしていたルデリアが、ふいに苦笑して、どこか泣きそうな表情で囁いた。
「じゃあ、あなたの血を、くれますか?」
「……え?」
きっと、理解するより前に本能が働いたのだろう。レイテの体が一瞬離れたのを見て、彼はさらに両腕で遠ざける。
「やめておきなさい。私は、あなたとは棲む世界の違う生き物なのです。レイテのように太陽の下が似合う人を、こちら側に引き込みたくはありません」
「ちがう、いきもの……?」
目の前の慕っている相手が、突然異質な何かに変わってしまった。自分は何と言葉を交わしているのか……彼女の全身からは戸惑いが滲み出ていた。
「おねーさん。この兄さんな、放っておいてももうすぐ死ぬぜ」
「!」
数分の間沈黙を保っていたルーシュが口を挟む。予想していなかった方向からの声と、何よりその内容に、レイテは涙が止まった顔を余計に困惑でいっぱいにする。
「人間よりず~っと長生きする生き物だけど、その命を長らえるのに血が必要なのさ。でも、この兄さんはその『食事』を止めちまった。……どうなるか、解るだろ?」
言ってみれば、人が長期間飲まず食わずでいるのと同じだ。人よりもずっと生命力が高いおかげで今まではなんとか生きてこられたが、限界はとうに過ぎてしまっているのかもしれない。
「まぁ、オススメはしない。別に血を吸われたっておとぎ話みたいに吸血鬼になったりはしないが、痛いし、貧血でクラクラするだろうしな」
それに何より、「そちら側」に足を踏み出した分だけ、日の光から遠ざかることになる。
「なぁ?」
「うるさいな、俺に同意を求めるな」
俺は生まれた時から、彼ら闇の生き物にかしずいて生きることが決められた身だ。疑問を覚える段階も過ぎてしまって、今更その運命から逃れるつもりもない。目の前の少女の気持ちを推し量ることなど出来ようか。
そっと、ルデリアが一歩退いた。
「さぁ、もうお行きなさい。3日のうちには、先ほど言った通り計らっておきますから。ここで聞いたことなんて忘れて、光のもとで幸せになりなさい」
旅に出たように見せかける手紙を書き、屋敷をお手伝いの少女に残す文面を書き添え、まるで初めから何もなかったみたいに消えてしまう。そういう算段だろう。
「一時の気の迷いの結果がこれとは。貴方を招き入れるべきではなかった。私は愚か者ですね」
毎日、カラカラに乾いたのどを、なんとか騙し騙しやり過ごしているのに。手を伸ばせば届く距離に、美味しそうな人間のいる状況が、どれほど辛くて苦しいか。彼の瞳はそう語っていた。
呆然とするレイテに追い打ちをかけるように、彼は両手で顔を覆い、声を絞り出す。
「気が、狂いそうだ……!」
飢えに自分の全てが侵されてしまう前に、離れてくれるのを祈ったのだろう。多分に演技を含んでいると感付いていた。恐らくルーシュもだろう。
広い世界を知らない村娘には、そんな判別はつかない。理性を失いかけた化け物を前に、悲鳴を上げて逃げ出す――と思っていた。
なのに、現実は。全身を押し付けるようにして吸血鬼を抱く、人間の女性の姿があった。
「レイテ……?」
ぶちぶちっ! 彼女は一度体を離すと、ボタンを引きちぎる勢いで服の喉元を開いてみせた。白い肌が露わになる。ルーシュがピュウと口笛を吹いた。
「今すぐ好きなだけ召し上がって下さい」
「な、何を言っているんですか」
気圧され、顔を背けて止めさせようとするルデリアを、逃がさないとばかりに、その頬に手を触れる。
「こういう時って、首筋じゃないんですか? だったら」
と反対の手を服にかけた。「やめてください!」という上擦った声が部屋に響き渡る。
「自分が何を言っているか、わかっているのですか?」
「分かってます。何でもするって言ったじゃないですか!」
間髪入れず発せられた涙声に、ルデリアは息をのんで、背けていた目をレイテに向けた。
男の子に間違われるほど活発だった肌は、使用人服を纏って暗い屋敷で過ごすうちに、滑らかな陶器のように白く染まっていた。潤んだ瞳と上気した頬とのコントラストが、彼女の美しさをくっきりと浮かび上がらせる。
それは、若さから滲み出る「生あるもの」の力だ。長い間命の源を絶ち続け、今にも朽ち果てようとしているルデリアには、眩しすぎる輝きだった。
「気が付かなくてごめんなさい。こんなに苦しめているなんて、知らなくて」
もう、我慢しなくて良いのです。レイテは優しく静かに言う。
「あなたはこれまでに村の人をたくさん助けて下さいました。私の親戚も、友達も……もしかしたら死んでしまっていたかもしれない、大切な人たちを。その救った命を放って、あなただけ死のうなんて許しません」
茶目っ気たっぷりに断じて、笑った。
「良かった。やっと一つ、お役に立てそうで」
初稿はもっと重々しく大人向けな感じだったのですが、無駄にくどくてバッサリカットしました。
シリアスの加減て難しい……。
書いてみると、なんだか舞台みたいな雰囲気になりました。多分主人公も観劇の気分だと思います。




