第一話 禁じられた区域
イリスと鬼ごっこをするうち、立ち入ってはいけない場所に入り込んでしまったフォルト。彼が選んだのは使命か禁忌か。
「待って、止まって下さいってば」
「えへへ、こっちだよぉ」
小さな子どもが走るぱたぱたという足音と、それを追いかける大人の大きな足音が塔に木霊する。
煉瓦造りの塔群は幾重にもそびえ、今日も城は不思議な力で空に浮かんでいる。作り物の光に照らされた円柱形の塔はどれも階段や通路で入り組み、慣れぬ者を迷わせる。
イリスは、慌てて駆けてくるこちらの様子を楽しみながら軽やかに逃げた。かたや俺は息を切らし、主人たる幼女に追いつこうと肩を上下させつつ足を前へ出す。
「こっち、こっち」
こんな光景はいつものことだ。彼女は鬼ごっこをして遊びたいだけで、他意はない。そう思っていた。あの違う角を曲がるまでは。
「あっ」
金髪を顔の横でまとめて長く長く垂らし、黒い従者服を纏う俺・フォルトは、ふいに違和感に襲われた。それまでとは明らかに違う、ぴりりとした緊張が背中を伝い、その感覚の正体に思い当たって声を張り上げる。
「イリス様、駄目ですよ!」
しかし、銀髪に鮮やかな紅い瞳を持った幼女・イリスは深い色のマントを翻しながら尚も奥へと駆けていく。止まる気配はない。
「大丈夫だよ。フォルトもおいでよ~」
口元には小さくも鋭い牙がちらりと覗き、彼女が闇の生き物であると教えている。そう、イリスは吸血鬼の子どもだった。
「ほらほら」
「いけませんって!」
延々と続いていた扉同士の間隔が広がり、徐々に部屋が大きく、そして数が少なくなっていく。そこはイリスの家族である当主一家が住まう、特に気を付けなければならない区域だった。
「そっちは旦那様や奥様のお部屋ですっ、許可がなくては入れませんよ!」
付け加えるならば、イリスの兄・ルーシュの部屋もあるのだが、俺の勘定には入らない。昔からの因縁で彼への敬意は一切失せており、実際部屋に侵入した程度で怒らないことも知っていた。
もっとも、どんな罠があるか分かったものではないため、誰も入ろうとはしないのだが。
螺旋のように円を描く回廊は互いの姿をいとも簡単に隠してしまう。響いてくる声も、こころなしかエコーがかかっているように聞こえた。
「フォルト―、こっちだよー」
「だ、駄目ですよ……!」
俺はすでに世話係如きでは入ることを許されない場所へ踏み込んでおり、足を止めて辺りを窺った。
ここへ来るとしたらイリスの父母である当主と奥方、そして双方の側近達くらいしか思いつかないけれど、見付かれば絶対に咎められる。一刻も早く立ち去らなければ。
「イリス様、戻ってきて下さいよ。旦那様や奥様に叱られますよー!」
声を潜めながら叫ぶという無意味に等しい行為に及んだものの、それ以上の勇気も返事もない。行くべきか戻るべきか逡巡し、俺は元来た道を引き返し始めた。
放って置かれればイリスもやがて戻ってくるだろう。世話係としては間違った判断かもしれないが、従者としては正解の行動だと思う。
その彼女が消えた向こうで、がちゃっという扉が開く音が聞こえ、中に入っていく気配を感じても、自分にはどうすることも出来なかった。
ひとまずイリスの部屋で待つことにし、ウロウロしながらじりじりとした時間を過ごしていると、主人よりも先にルフィニアがやってきた。
「それで貴方、イリス様を放って帰ってきたっていうの?」
事情を説明すれば、予想通り呆れた様子でルフィニアが言い、仁王立ちする。紫の髪をリボンで結い、その先を長く垂らしている。眼鏡の奥にある切れ長の瞳は明確に同僚を睨み付けた。
彼女は俺と同じくイリスに仕える従者だ。教育係として毎日決まった時間に勉強を教え、他にもマナーや振る舞いなどを教える役目も担う。良く言えば真面目、悪く言えば容赦のない性格である。
「仕方ないだろ? 見付かったらどんなお叱りを受けるか……」
身震いする仕草で相手の同情を誘ってみた。しかし、責任感が強く、経験面においても俺の上を行くこの女性が、そんなものになびいた試しはない。
「理由にならないわ」
ぴしりと言い放つ。今回も同じか。
「その場合は、叱責を覚悟で主を守るのが筋ってものでしょ」
「無茶言うなよ」
ルフィニアの仕事への紳士な態度は目を見張るものがあり、後続の指針にもなっているほどの模範ぶりだ。
「叱責を受けたことがないからそんなことが言えるんだ」
「何か言った?」
「イイエ」
彼女に見付かってしまったのが運の尽きだ。ぴくぴくとこめかみが痙攣しているところを見ると、どうやらかなりおかんむりらしい。
「それで、どうするつもり?」
「……さぁ」
そう答えるしかなく、渋々首を捻ると、今度こそ彼女の逆鱗に触れたようだった。
「その口を閉じて、早く探して来なさいっ! 今すぐに!!」
城全体を揺るがしそうな大声に俺は腰を抜かしかけながら、慌てて扉へと走りこんだ。
「イリス様~、どこですかぁ」
十数分が経っていたから、イリスが俺と別れた場所に留まっているとは考えにくい。それでもまずはここ、俺にとっては進入禁止区域のただ中、を起点に探すことにした。
幸い誰の気配もないが、探すべき幼女の姿もないのは困りものだ。
「イリス様ってばー」
足音に気を付けながら吸血鬼塔を歩き回る。まるで怪奇小説の主人公になったような気分だ。当主一家は皆温厚ではあるが、彼らは従者である人間の生殺与奪を握っているのだ。罰を想像するだけで足がすくむ。
「返事して下さいよ。そろそろお昼ご飯の時間ですよ~」
息を殺し、長い廊下や深い階段を巡るも、まだイリスは見つからない。もしや、どこかですれ違って部屋に戻ったのでは? ふとそう思って、再度イリスの部屋へと足を向けた時だった。
「よぉ、相変わらずマジメに仕事してるみたいだな。関心関心」
俺はその声に振り返りそうになる自分と戦い、勝利した。反応すると相手を付け上がらせるだけだ。ここは何も聞かなかったことにしてスタスタと去るのが正解である。
「おいおい、無視は酷いな? っていうか俺を無視してもいいのかなぁ?」
「今は忙しいんだ。絡むなよ」
肩に手をかけられて、仕方なく踵を返した。後ろに立ってニヤニヤ笑っていたのは、俺の主人と同じ銀の髪に紅い瞳をした色白の少年だった。
いや、正確にはもっともっと上の年齢になるはずだ。本当の年を口にすることはないけれど、俺が子どもの頃に初めて会った時から彼、ルーシュの姿は変わっていないのだから。
とは言え、普段この城には滅多に帰ってこない。部屋の管理を側近に任せて、自身は世界中を飛び回っているらしい。今もたまたま用事があったか、気が向いたかして帰ってきたのだろう。
「元気だったか?」
「まぁ、それなりにはな」
ルーシュはイリスの兄で、一族の次期当主候補でもある。本来なら俺も敬意を払うべき相手なのだが、過去の幾つもの因縁から、会話をするといつもこんな調子だ。
「そうかそうか。じゃ、俺の可愛い妹は元気にしてるか?」
「あ、あぁ」
それ故に、互いのことはちょっとした変化でも悟られてしまう。この時も歯切れの悪さにすぐに気が付かれた。
「……あのな、隠したいのか知って欲しいのか、どっちかにしろよ」
「じゃあ、隠したい」
「なんだそりゃ。相変わらず面白いヤツだな」
肩とポンポン叩き、ルーシュはくつくつと笑う。いずれにしろ、隠し通せないことは明らかだ。
俺を子どもの頃から見てきたこの男に、隠し事などするだけ無駄な抵抗である。血を思わせるその目は小手先のわざで誤魔化せるものではない。
ただ、さっさと話してしまうのも自尊心が許さなかった。まるっきりガキの心理だと自分でも思う。
「まぁ、いいや。どうせ暇だし。ほれほれ、おにーさんに話してみー?」
「要らん。それに、お兄さんじゃなくておじいさんだろ」
この人を食った態度が、いつも俺の神経を逆撫でするのだ。本人も分かっていて改めるつもりがない。タチが悪すぎる。
すると、彼は息がかかる距離まで一気に詰め寄り、囁いた。
「言わないと……貰うぜ?」
「っ!」
一瞬、背筋を寒気が走った。零れそうになった声を無理矢理飲み込み、慌てて飛び退いた。「貰う」というのは考えるまでも無く血のことだ。
今日はまだイリスに飲ませていなかった。見付けたら差し出さなければならないのに、彼にまでくれてやったらぶっ倒れること間違いなしだろう。
「だーっ、もう分かったよ! 話せばいいんだろ、話せば!」
全く、今日という日は本当に厄日らしい。
「そりゃ、職務怠慢と無断侵入の二重罪だな」
ルーシュは話を聞くやいなや、大げさに腕を組んだ。予想はしていたが、改めて言葉にされるとぐさりを胸を抉ってくる。
「……矛盾してないか?」
絞り出すようにそれだけ反論すると、飄々としたルーシュを見下ろした。背だけは俺の方が少しばかり高いのだ。彼はまだ伸びるのだろうか? 何年接していても、吸血鬼の生体は謎に包まれている。
それにしても、放っておけば怠慢で、探しに行けば侵入と見做される。じゃあどうしろというのだろう。行けども帰れども地獄ではないか。そう思って膨れても、生憎ルーシュにその類の優しさはなかった。
「そもそも、そんなところに入らないように躾けるのがお前の仕事だろ? 自分の落ち度を棚に上げて逆ギレされてもなぁ」
「うっ」
ルフィニアといいルーシュといい、周囲は手厳しい者ばかりだ。頑張っているのだから少しは労ってくれてもいいじゃないか。俺は心の中でこっそり自分勝手な愚痴を零す。所詮、この職場に味方などいやしないのだ。
「じゃ、俺も一緒に行ってやるよ」
「へ? お前が?」
呆気に取られて聞き返した、その反応が不満だったのか、ルーシュは眉間に皺を寄せる。
「なんだよ。イリスは俺の大~事な妹なんだ。兄貴が面倒を見るのは当たり前だろ?」
いつもその世話を人に押し付けている癖に。反論しそうになり、口元を懸命に引き絞る。癪に障るが、今こいつの機嫌まで損ねている余裕はこちらにはない。助けてくれるなら尚更だ。
「諸々、黙っておいてやるから来いよ」
声をかけるうちにも踵を返して歩き出したルーシュを、慌てて追いかけた。
ルフィニアに同調する方が多いかもしれませんが、それだけフォルトが禁止区域に恐れを抱いていたわけです。ルーシュの言い分が正解ですね。