第7話「黒衣の男」
犬耳の女の子が目覚めた。
彼女の容態は安定していた。
立って歩くことが出来たし、水も自分で飲むことが出来た。
だが……彼女が口を開くことはなかった。
奴隷市場にいたときからそうだったが……まだ一度も彼女の言葉を聞いていない。奴隷として売られている間、よほどひどい目に遭ったのかもしれない。
世界は思った以上に残酷だった。
念願の奴隷を手に入れた俺だが……俺は彼女を奴隷として扱うことはしないと決めた。
もはやお金を稼ぐ意味を見失ったが……この子が生きていくにもお金がいる。今はこの子のためにお金を稼ごうと思う。
「ところで……この子、なんて呼んだらいいと思う?」
魔法使いに訊いてみた。
「……亜人の奴隷は名前を持っていないのが普通だ。お前がつけてやればいい」
とのことだった。
しかし、いざ名前を付けるとなると、何も浮かんでこなかった。
……だって、人の名前なんだぞ? そんな簡単に付けられるか? 子供が生まれる時だって、普通はずっと前から考えるもんだろ……それを急になんて。
俺がオロオロしていると、魔法使いはため息をついて辞書を持ってきてくれた。
彼女の名前を一緒に考えてくれることになった。
俺と魔法使いは辞書と一晩格闘し……やがて一つの名前が決まった。
”マナ”。
この世界で「元気」とか「力」とかいった意味だ。
彼女が健やかに生きてくれるように、と願いを込めたつもりだ。それに、日本でも語呂がいいしな。愛菜、真名……
「さて、今日も稼ぎますか」
荷物をリュックに詰め、市場へと向かう。
もちろん、マナも一緒だ。
一緒に行こうと言ったら、不思議な顔をしながらもついてきてくれた。やっぱり言葉はわかるんだな。
レジャーシートを敷き、品物を並べる。
マナは端っこにちょこんと座り、ぼーっとそれを眺めていた。
「いらっしゃいませー」
こうやるのも久しぶりだな。しばらくマナの看病でつきっきりだったからな……
うん、やっぱり、ここに座っているとしっくりくる。割とこの商売が好きになって来たのかもしれない。
「お、久しぶりだな!? 黒の魔技師!」
「どうもー……ってなんすか、その呼び名は」
最初に訪れたのは、殺虫剤を買ったいつかの戦士だ。
「なんだ知らないのか? お前の事、みんなそう呼んでるぞ。”黒の魔技師”!」
なんだそりゃ……もしかして、髪と瞳の色からそんな異名がついたのか。
や、やめてよ、はずかしい。そんな、中二みたいな名前を付けられたって、嬉しくないんだからね!
「じゃあ、またな! 黒の魔技師!」
「まいどー」
戦士はホーチョー・ソードを買って去っていった。
今日の商いも順調だ。
久しぶりだというのに、客足は衰えない。次々と包丁や殺虫剤、懐中電灯が売れていく。
「……けど、相変わらず食料は売れないんだな、コレが」
売れ残る日本で仕入れた食料品の数々。
カップラーメン、羊羹、サラダチキン。旅に使えるよう、日持ちする食品を選んだつもりだ。でも、相変わらず気味悪がって手に取ってもらえない。
いいさ。売れなきゃ、これは俺の昼飯になる。
「おっと。今日は、俺達の昼飯だったな」
マナを見る。首を傾げる彼女。
……しまったな。彼女のことを考えて、もうちょっと食べやすいものを持ってくるべきだったか……
いや、でも、案外美味しく食べてくれるかも。
「お湯をそそいでーっと、はい、完成」
一足お先に味見させてもらいますよ。
ずるずる。うん、美味いんじゃないの。やっぱりチ〇ンラーメンは間違いないな。
「ほら、マナ。昼飯だぞー」
と言って、口に近づけてみる。
おっ……普段は無表情なマナが反応を……
露骨に嫌な表情をされている気がする。
あ、やっぱり、ダメ……? マナからしても、触手に見える……?
「こら、食べないと大きくなれないぞー」
そうは言っても、食べてもらわねば困る。
そうか、これが親心というヤツか……かーちゃん、ニンジン嫌がってごめんな。
嫌嫌をするマナ。うーむ……
「ちょっと、あなた! いい加減にしたらどうなの!?」
「え?」
振り返る。
ものすごい剣幕で俺を睨むおばさんがいた。
あっ、この人……向かいで装飾品を売ってた人だな。ずっとジロジロ見られていた気がするから、覚えている。
「さっきから見ていたら、そんな恐ろしいものを与えるのは人としてどうかと思いますよ! いくら奴隷だからって!」
「いや、これは安全な食品……あと、マナは奴隷じゃない……」
「ずっと無理やり食べさせてきたんでしょう!? 可哀そうに、ガリガリじゃない!」
「ま、まあ食べ物は無理やり与えてたかもしれないけど……痩せているのは市場で碌なものを与えられていなかったからで」
「ほら見なさい! 無理やり変な物食べさせてきたんじゃない!! こんなこと、いくら奴隷だからって許されないわ!!」
「ええ――……」
ダメだ。話が通じそうない。
っていうか、こういう人、俺は苦手だ……
マナ自身に否定してもらいたいところだが……喋れないもんなぁ……
「兄ちゃん、いっつもそんな変なもん与えてんのかい? そりゃ、ダメだよ」
「ああ、俺だったらあんな触手もどき食わされるくらいなら、竜の餌の方がマシだね」
うわ、両隣からも文句が……
これ、どんどん騒ぎが大きくなってるぞ……ヤバいかも。
「みなさん、どうされました?」
人混みを割って、割り込んでくる人物がいた。
目が合う。
恐ろしく冷たい目をした男だと思った。
全身を黒いローブで覆っている。ローブのあちこちには、怪しい呪文のような文様が刻まれている。
その異様な雰囲気に、その場の喧騒が静まった。
「おや? これはこれは……」
男は薄く笑みを浮かべた。
背筋が寒くなる感覚を覚える。
「亜人の奴隷ですか。ふーむ……随分とひどい扱われ方をしているようですね」
「そ、そうなんですよ! この人、怪しい食べ物を無理やり口にさせようとして!」
「それに、随分痩せている」
「そうそう! しかも、体中に変な模様があるし……!」
「そ、それは!」
俺がやったんじゃねえ、と言いかけてやめた。
気圧された。なんだ、コイツの目……まるで、人の意思を強制するような……
「店主。私に提案があります。この奴隷、私に売っていただけませんか? 金貨二千……いえ、三千枚で」
「……なにっ!?」
いきなりのことに、呆気にとられた。
……売る? この子を? マナを、売ってくれと言ったのか……?
「私でしたら、その子に満足な食事を与えることが出来ます。その、体に広がる文様も……消すための伝手があります。確か、この街の奴隷の相場は金貨千枚でしたね。悪い話じゃないでしょう?」
「なっ……!!」
「お、そりゃいい! 兄ちゃん、売っちまいなよ! 奴隷はお腹が膨れるし、兄ちゃんは儲かる。いいことづくめじゃねえか!」
こいつ、何を無責任なことを……!!
「あなたのみすぼらしい格好、とても奴隷を持つにふさわしい人物には見えませんわ。この方に譲るべきよ」
俺がマナを持つに、相応しくないだと……どの口で言いやがる!! 俺がいなきゃ、マナは今頃……奴隷市場で殺されてたんだぞ!!
「そういうことです。店主、いかがです?」
「ダメだ!! この子は、マナは……売らねえ!! いくら積まれても、絶対に売らねえぞ!!」
吠えた。
市場がシン、と静まり返る。
俺の熱意が伝わったか。そうだ。俺は決してこの子をないがしろにはしない。誰にも、この子の保護者として相応しくないなどと言わせるものか――
「いいでしょう」
黒衣の男はにこっと笑った。
「では、こうしませんか……? どちらが主人として相応しいかは、彼女が決める。私と勝負しませんか?」
「あっ?」