谷の朝
「本当にその姿で崖をおりるつもりなんですか?」
蜘蛛のカオリはゴローの後頭部で不満げにいいました。
「え?なんかダメ?」
ゴローはカオリの言葉の意味がわからずに戸惑いました。
若いツキノワグマのゴローは、のんびり者と言っても手足が丈夫で、これくらいの崖は平気で降りられます。
「ダメですよ!主さん、よく見てくださいな、夏至も近いと言うのに、雨が少なく滝もチョロチョロ、草だって枯れているじゃありませんか。こんな所に主さんみたいな大きな熊が崖を登り降りなんてしたら、表面が崩れてユリが土ごと落ちてしまいますよ。」
カオリはそう言いながら、ユリの谷の異変を再確認しました。
ゴロー達の住む逆さ虹の森と違い、人の世界ともつながる山ユリの谷は、人の世界の天候にも影響されます。
いつもは、雪女のサエが冬のあいだ降らせた雪が、ゆっくりと溶け出して、ゴンゴンと豊かな水が滝を流れ虹を作ると言うのに、川は小さな蛇のように弱々しく流れるのみです。
「じゃあ、どうすればいいの?カオリさんが取ってきてくれるの?」
ゴローは甘えたこと言い出しました。
「主さん、ビーズに私の気持ちを入れてどうするんですか。主さんは、ルミちゃんにお嫁さんになって欲しいのでしょ?その為に指輪を作るのだから、主さんが露を集めてビーズを作らなきゃいけません。」
カオリは、困った子供を諭すように言いました。
「そうだった。すっかり忘れていたよ。でも、それならどうしたらいいのかな?」
ゴローは考え込んでしまいました。
ルミちゃんを忘れているなんて、どうしたもんだろう?
カオリも考え込んでしまいました。
いつの間にか、空から彼らを見守っていたベテルギウスの赤星は朝の光に沈みこみ、強引な夏の朝日がユリの谷をあっという間に華やかな光の世界に変えてゆきました。
夜に羽化したセミが、朝日に励まされて初飛行に挑戦し、止まり木を見つけると騒々しい恋の歌をかき鳴らします。
さあ、朝です。
考え込んで出遅れたゴローは、とりあえず、草の茂みで休むことにしました。
夜行性のツキノワグマは、これからが眠る時間なのです。
カオリは近くの木に登り、巣作りをはじめました。