鍛えよう(上)
「なあ」
ときわ荘の代わり映えのしない室内。浜西成平は目の前で胡坐を組みじっと目を閉じる少女に声をかけた。
「なに?」
小さなその少女は目を閉じたまま応えた。
「今何やってんの」
「瞑想」
「瞑想ねぇ……意味あんの?」
「さあ?」
「さあってなあ」
浜西の声に含まれる呆れ成分を感じ取ったのか、少女は片目を開けてじろと睨んだ。
「浜西さ、もしかしてRPGの一周目でも攻略サイト見ちゃう系?」
「何の話よ」
実際浜西はそういうこともある。
「答えだけ欲しいか、答えを知らないとやらないか、そういうこと。どうすれば魔法を鍛えられるかわからないんだから、思いつくことは全部やらなきゃ」
「うーん……」
「いいから浜西もやりな」
「瞑想を?」
「瞑想を」
少女は問答は終わりとばかりに再び目を閉じた。浜西はしばし立ち竦み、一つため息を吐き、少女の隣に腰かけて目を閉じた。
■□■
無人のアーケード街で宙に浮かぶ魔法使いに出会った。
その年下の魔法使いから「魔法使いにならないか」と誘いを受けて、浜西はそりゃもう興奮したものだった。
新潟に生まれ田畑の間を馬鹿みたいに走り回って暢気に育った浜西も、高校生にもなると何となく将来のことが見えてきた。
高校受験のとき、あんまり勉強する気がないことに気づいてしまった。かといってほかに熱中するものもない。スポーツを始めるなんていっても、高校から始めようとするとよっぽどの才能でもなければ実を結ばないだろうし、中学の体育の成績を省みるに浜西にそうのような才能はないようだ。ゲームは好きだがe-sportsに参加するほどの熱意はない(非常に残念ながら、認めたくない現実というものはあるもので、腕もない)。芸術系もあんまり良し悪しがわからない。奇麗なものは奇麗だと思う。でもそれで終わりだ。お、いいな、なんて思った作品が世間的には「他愛もない」みたいに見られていたりする。よくわからん。
こんな感じで将来なにかの職業に就いても熱意を持てず、感情が大きく揺さぶられることなく生きていくんじゃないか。
自分の位置というものがまざまざと見えてくるのは飽きと諦めの前兆で、これがゲームであれば「レベル30……なんか飽きてきたな」と感じてきたら止めても良いのだが、生憎現実というものは簡単に辞められるものではない。つい先日まで感じていた稚気と全能感溢れる新鮮味のある世界はどこへ行ってしまったのか。最早あの頃に戻る術はない。
魔法という魅惑の単語は、もしやこの停滞感を吹き飛ばしてくれるのではないかと期待するには十分だった。
――まあ、期待とは往々にして裏切られるものなんだけれど。
ふうと浜西はため息を吐いた。
人間はどこへ行っても魔法が使えるようになってもあまり変わらないらしく、目の前に広がる光景は友達の家に何人かで集まった時とあまり違いはない。畳の上、だらしないほどにリラックスして、各々くだらない話に華を咲かせている。場所こそ地球のどこでもない場所というスペシャルさはあっても、この光景に特別感を感じろなんていうのは無理な話だ。
浜西は傍若無人に人の足を跨いで、部屋の隅へと向かう。稀に蹴ってしまうのはご愛敬だ。すまん、と謝るとひらひらと手を振られた。
「山田」
「お、浜西じゃん」
目的地に居るのは少女だ。山田は一見小学生に見えかねないほど小さく、そのショートヘアはくるくると見事に渦を巻いていた。天パ強いんだよね、と渦を指でつまんで愚痴を吐くのを、へえへえ生返事しながら聞いたことがある。
彼女とはこのときわ荘に来てから知り合った。つまり、自分も彼女も魔法使いだということだ。あんまり意識したことないけど。
山田の隣に腰を下ろし、いつもどおり広げられている菓子に手を伸ばす。今日は飴玉。小袋を破って口の中へ。ソーダの粉が表面にまぶしてあって、さわさわと舌を刺激する。
「勝手に取ってくなって。せめて一言断るのが礼儀じゃない」
「そうだな」
「――ソーダ味だけに?」
「くだらなっ」
互いに顔を見合わせて、一拍、げらげら笑う。
ひとしきり笑うと山田は肩をすくめて、膝元にある漫画に視線を落とした。いつも何かしら漫画を持ち歩いている彼女だが、今日は少年漫画の模様。浜西は読んだことないが、最近話題の漫画らしいとは聞き及んでいた。黙々読み始めている。漫画を読むときの彼女はまるで哲学者みたいに顰め面しい。
浜西も別に話したいことがあるわけでもない。浜西も誰にも届かぬ返答として肩をすくめ返し、ぼんやり室内の風景を視界に収め魔法を使うことにした。
スラックスの右ポケットの中にあるスマホのイヤホンジャックに一つ、そして自分の耳元に二つ。空間座標に点を打つ要領でその地点を意識をする。それらを体にそってツイーっと不可視の線で結び付けて、ポケットに入れた手でスイッチを入れる。すると耳元に音楽があった。「……」数年前に突如解散したガールズバンドのしっかり響くベースと伸びやかな歌声に耳を傾ける。「ンー……うぅ」鼻歌を歌いそうになって、周囲の人に気づき慌てて止める。
浜西の使える魔法は「繋げる」ことに特化している。いまのようにイヤホンもなくジャックと耳の辺りを「繋げ」ば音が聞こえてくる。周辺機器を「繋げ」ば電線も電波もなくきちんと使える。繋げられるのは体表から50センチくらい。それ以上離れるとぷつんと切れる。
……うん。
いや、わかるよ、うん。
大したことないなんて、浜西も思っていることだ。有線が主流だった時代――いつのことだかわからない、世紀末頃?――ならまだしも、現代ではいろんな周辺機器にブルートゥースが採用されていて、USBとかの端子を使用せずに簡単にスマホやPCに繋ぐことができる。
ブルートゥース非採用品でもブルートゥース同様に使用できることや接続強度が魔法圏内だと安定していること、通信速度が多分速いことが見方によっては大きいのかもしれないが、正直期待外れ。魔法というワードの持つ期待感と比べてみれば圧倒的に。
そして、それは浜西だけではない。
目の前でだらけている人たちだって、大体同じようなものだ。できることはそれぞれ差があるけれど、程度としては似たようなもん。特別な、それこそ魔法使いと呼べる人間は一人だけだ、と浜西は思っている。視線だけ、部屋の一角で彼の兄と一緒にいる耕生に目を向けた――瞬間。
ぱんっ!
破裂音が音楽を吹き飛ばした。びくりと浜西の肩が跳ね、「ぐっ……ゲホ」息苦しくて咳をする。驚いた拍子に飴を飲み込んでしまった。
「修行だ!」
発生源の山田が断言する。漫画を畳に叩きつけた前傾の体勢のまま、首を回し浜西を見て、もう一度。
「浜西、修行だ」
「どゆこと……?」
「魔法を鍛える修行だよ」
■□■
山田がこんな嵐のような一面を持っていることを浜西は知らなかった。ずんずんと足元に寝転ぶ男たちを意にも介せず突き進む。周囲の訝し気な視線なぞ物ともせず。
視線が気になるのは山田の後ろを肩を縮めてついていく浜西だ。山田のこの勢いに俺は関係していませんよ、現に今もよくわかっていないんです、と困惑の表情をつくろう。
目的地に着いたらしい山田は仁王立ちし、
「修行したい」
そう主張した相手は耕生と団長の兄弟だ。
「ふーん」耕生は山田とついでに浜西を興味津々に眺めている。「そうだね、それで、僕にどうして欲しいの。正直、どうすれば魔法の力を伸ばせるのかわかんないよ。僕、もともとこうだったし」
浜西が認める唯一の魔法使いはさらっと傲慢だ。自身の魔法が抜きんでていることを当然のように語る。事実なのでムッとすることしかできない。
「魔法を鍛えられる場所が欲しい」
「ほほう」
「ここの方針として、あんまり外で魔法がバレるようなのはダメっぽい。でも、こんな人が居る場所で魔法の練習もままならない。できる?」
「そうだねー、そういう場所欲しいかもね。兄貴、いい?」
耕生が振り向いて、ここの長で耕生の兄である壮一に問うた。
「ああ、いいとは思うんだが……新しい場所ってそんな簡単に作れるものなのか?」
「ラクショー」
「マジか……そもそもここが異常ではあるんだが、お手軽なのか、そうか」壮一の愕然とした声が漏れる。「宇宙の、法則が、乱れる……」
「兄貴ももうちょっと柔軟にならないと」
「俺はもう少し物理という学問を信頼したい……」
「いいけどね。さ、作ろうか」
山田の要望はすんなり承諾されたようだった。
耕生がしばし宙を見上げ、やがて「こうかな?」と呟いた。うんうん頷いて満足気な笑みを浮かべる。「これでいいはず」
修行場の創造はたったそれだけで終わったらしい。山田が彼に話しかけてから時間にして五分も経っていない。常識を破壊されて頭を抱える壮一を横目に「じゃあ、見てもらおうか」と耕生は歩き出した。
山田がそれについて行き、浜西がさらについて行こうとして集団に呑まれた。周囲を見渡すと、ときわ荘に居たほとんどが耕生について行っているようだ。野次馬かよ。山田が思い立って実現したものをただ乗りされた感覚に、浜西は他人事ながら釈然としない。首を横に振って、足を進めた。
耕生が手を掛けたのは玄関のドアノブだった。そのドアは誰も開いたことのないドアだ。開けようとした瞬間にここに来る前に居た場所に飛ばされてしまう。だから、目の前で開かれて行く光景は初めてのことだった。
「おお」声を漏らしたのは誰だったか。「おお?」とすぐに疑問符がついたのは、その先に見える景色が外だと思ったからだろう。
室内から玄関を開けたら外。目玉焼きにはウスターソース。実に常識的な話だ。だから、その扉の先が体育館になっているとは浜西も予想できなかった。
公立の小学校や中学校の体育館にそっくりだった。板張りのアリーナが広がり、対面の中央には舞台。二階に相当する高さにはギャラリー。ギャラリーの外側には窓があるのだろうが、今は赤色の暗幕カーテンが閉められ、カーテンとカーテンのすき間から光がちらちら輝く。紛うことなき体育館の姿を照明が影なく映し出していた。
「公園とか校庭とかも考えてみたんだ。でも、僕のいないところでも使うとなると、結構危ないんだよね。作っていない外側に出ると、地面がないから無限に落ち続けるよ。ゲームの壁抜けバグ動画とか見てたらあるようなアレ。だから室内。だったら体育館かなあって。こんな感じで要望には応えられた?」
「素晴らしい」
簡潔に応えた山田は堪えきれないとばかりに新しい体育館に駆け込んでいった。シューズの準備なんてしていないから、靴下で。ぽっぽっぽっぽと柔らかい足音が鳴る。てかてかの床を靴下で走るのは難しい。こけそうになって態勢を崩しながらも走るのはやめない。アリーナのど真ん中に到達し、足を止めた。天井を見上げている。体育館の広い面積を彼女は占有していた。
それからおもむろに山田は浮いた。
それが彼女の魔法だ。床から30センチくらいに自身の体を浮かばせる。ただそれだけの魔法。もっと高く飛ぶこともできないし、横に移動することもできない。もし移動することができたら、彼女はこけそうになりながら走ることもなかっただろう。
「修行だ」と言った彼女の気持ちが浜西はなんとなくわかるような気もする。魔法を使っても、小さい彼女の体躯では浜西より少し上くらいの目線にしかならない。何か役立つのか。比較すれば浜西の繋げる魔法のほうがまだ実用的だ。
野次馬が思い思いに体育館に入っていく。走る者、ギャラリーに登ろうとする者、山田のように魔法を使う者、何か調べているのか体育館の壁を叩く者、それぞれだ。浜西は入ろうとはせず、入口の手前で遠くの山田を見ていた。
「浜西くん」声を掛けられ、振り向くと耕生が居た。「浜西くんも、修行、するの」
「や、うーん、どうなんすかね」
煮え切らない返事になった。山田の勢いに呑まれて一連の流れを近くで見ていたが、自分がどうするかなんて考えていなかった。
耕生は興味津々な瞳を向けてくる。
「僕は、浜西くんも修行して欲しいな。きっと面白いことになるよ」
「いやー……」耕生の相手をするのも、修行するのも――一体どんな修行なのかわからない――なんか面倒くさい。言葉を飲み込んで、浜西は曖昧な答えだけを返し続けた。「どうなんすかね、わかんないっす」
人がまばらになったときわ荘の一角に一冊の漫画本が開かれたまま残されている。山田が読んでいた漫画だ。
開かれたそのページは、強敵の存在が明らかになり、主人公たちは力をつけるために修行を始めようとするところだった。