研究しよう(4)
鹿野崎誠はひょろっとした男だ。髪型を整えたことなんて生まれて一回もないのではないかと疑ってしまう無造作な黒髪に、野暮ったい黒ぶち眼鏡をかけて、ダボ付いたパーカーをよく着ている。格好に無頓着なのが一瞬で見て取れる。――詩織の数少ない仲間の一人だ。
仲間だった、かもしれない。
仲良かったとは言えない。雑談を交わした記憶は詩織にはなかった。研究についての意見交換や議論は幾度となく交わしてきた。けれど、例えば彼がどんな場所に住んでいて、どんなものを好んでいるのか、全くわからない。
それで「よし」としてきた。
それが間違いだったのか。
念話で鹿野崎誠を研究会に誘った時、彼はいつもの通り「参加するよ」と返してきた。全く悪びれた様子がなくて、詩織には理解できない。
詩織は時間に余裕を持って動くように心がけている。だから、多くの場合待つことになる。今回のように。指定の時間まで、大体三十分くらい。
ときわ荘の様子は、篠田邦彦の発表があったのにも関わらず、全く変わったように見えない。小さいグループを作って下らない話を繰り返す。まだ『魔石』の利用は一般化していないのだから、それは仕方ないのかもしれない。「こういう技術が実現するんだって」という話題はその筋のオタクの中では盛り上がるが、一般の人にとっては「あっそう」で済んでしまうのだろう。理解できるからといって、納得できるかといえば、それは別問題だ。
詩織は『魔石』の価値を確信している。
篠田邦彦は嫌いだし、鹿野崎誠には裏切られたような気持ちを抱いてしまう。それはそれとして『魔石』は素晴らしい。可能性を――自分の研究に使えるかもという点を含んで――感じる。「話題沸騰状態になるのが普通じゃない?」とも言いたくなる。なのに現状はといえばまるで無視されているようで、怒りさえ湧いてきそうだ。
発表会後の『魔石』試用会でわちゃわちゃ盛り上がっていたのは、何だったんだ。新しいおもちゃに夢中になるも、二日後には飽きてしまう子供のようだ。
「やー、詩織さん、遅れたかな」
鹿野崎誠はゆるく手を振りながらやってきた。
「ううん、時間までは少し早いけど、始めようか」
「あれ、香苗さんは?」
「今日は欠席だって」
ふぅん、と気にした様子もなく頷いて鹿野崎誠は胡坐をかいた。
勿論、詩織は香苗を誘いすらしていない。鹿野崎誠の弾劾なんてどうしても穏やかにならない場に彼女を呼ぶ選択肢はない。
「魔石の発表見たよ」
詩織が鹿野崎誠に告げる。
「あー、やっぱり僕の名前出したんだ。いらないって言ったんだけどなあ」
「篠田のところにも参加しているんだ?」
「うん、そう」
詩織はちょっと呆けてしまう。
「……よくそんな悪気もないね」
少しはバツの悪そうな表情を浮かべると、勝手に思っていた。
「え、掛け持ちって駄目なの? いや、詩織さんが邦彦さん嫌っているのはわかっているけど」
「わかってて、そういうこと、どうしてできるの?」
鹿野崎誠は首をすくめた。
「だってそれ、僕関係ないじゃん。僕には僕の目的があって、それを制限されちゃうのはたまんないよね」
「目的……?」
「詩織さんのとこにも邦彦さんのとこにも参加するのはね、収集したデータ見せてもらえるじゃん。第一にはそこだよね。僕は自分のこと発明家とも研究者とも思っていないよ。ただの知りたがり。自分で発明するとか発見するとかどうでもいいよ、結果が見えればそれで十分」
「それって――」詩織は思考を廻らして、言葉を探す。「目標を共に目指すんじゃなくて――」すぅっと息を吸う。「結果だけ持っていくって、その、自分勝手だとは思わない?」
鹿野崎誠は一つため息を吐いた。ちゃぶ台に片腕を置いて、人差し指で台上をコンコン叩く。
「自分勝手と言えば自分勝手かもしれないけどさ、それは誰でも一緒じゃないかな。なんだろうなあ、上手く理解できないんだけど、詩織さんが僕の姿勢が納得いかないって、それは詩織さんの勝手じゃないの。僕はちゃんと研究にも参加して、迷惑はかけていないでしょ。これでも真面目にやっている自負はあるからね。詩織さんは僕の行動を制限しようとしていて、僕は迷惑に感じている。どっちが認められないかって言えば、詩織さんの方じゃない? 掛け持ちは認めませんよーって最初に言っていたなら僕はルール破りになるけど、なかったよね。聞いていないし。勝手な後付けルールで非難するのは卑怯じゃないかな」
言葉に窮す詩織に、鹿野崎誠は「今日ってこれだけ?」と問い、答えが返ってこないのを見て「じゃあ、今日は帰るよ。また呼んでね。変な空気になったけど、研究内容にも興味あるし、ちゃんと手伝うからさ」と玄関へ消えて行った。
□■□
「はーい、もう一回」
香苗の音頭に従って、少年が魔石を発動させる。魔石の魔法は微風を生じさせるもので、プラ板で作った密室の中を緩く空気をかき混ぜ、ウィンドチャイム――金属の筒をぶら下げたもの――の涼し気な音を鳴らす。
「もう一回!」
「うっす」と少年は香苗の声に応える。頬に赤みが差して照れた様子が見える。あまり女子に慣れていないタイプなのだろう。
――やっぱり香苗に任せたのは適役だ。
彼女の警戒心を抱かせない雰囲気は稀有な才能と言っても良い。態度が柔らかく、感情豊かなところは香苗の魅力だ。応援されたらやる気にもなる。間違いない、詩織だってそうなる。
詩織は発動回数をノートに記録する。もう三十回は超えている。ストップウォッチはちょうど一分といったところ。
ノートには少年の分だけで五回目だ。他の人も、もう何人分もデータが揃ってきている。データ収集の速度は今までとは段違いだ。
現在も隣でもう一人、魔力の測定を行っている。測定を行っているのは鹿野崎誠と篠田邦彦のところから派遣されてきた大学生の男だ。鹿野崎が被測定者に指示を出し、男は記録に従事している。男の声はほとんど聞こえない。これで派遣されるのは四度目になるが、詩織でさえ「よろしく……」と尻すぼみな声しか聞いたことがない。
篠田邦彦との魔石についての交渉は、思った以上にスムーズに進んだ。むしろ向こうのほうが乗り気だった。
「魔力の測定に魔石を使いたい、か。いいね、その発想はなかった。どんどんやってほしい。渡せる分は限られてしまうけど、なるべく優先的に渡せるようにしよう。基礎的な部分がしっかりしないと、応用も上手くいくはずないんだよね。聞いていたとは思うんだけど、俺たちは今魔石を利用した機械を作成しようとしているんだ。だけど、エネルギーを渡すところで詰まってしまっていてね。魔力タンクはある。魔法を発生する部分もある。ただ単純に接触させただけでは何も起こらない。今はそういう状態なんだ。適切な配線は存在して欲しいところなんだけど皆目見当もつかない。『魔力とは何ぞや』って部分が見えないと仮説も出せないんだよね。色々な素材を試しているんだけど指標もないから数打ちゃ当たるって状態なんだ。――ああ、人員足りなかったらうちの仲間から派遣しよう。いや、いっそのこと本格的に提携しないか? 実験データや成果を共有したほうが互いの目標達成の助けになると思うんだが――」
提携は保留にしたが――勢いに圧されて受諾するのはダメ、という理性は何とか利いた――魔石はあっさりと詩織の手に渡った。
こっちが嫌いだから向こうも嫌っているだろうと思っていたのは何だったんだ、と疑うほど協力的だった。実際、嫌われてはいなかったのだろう。彼らは人材も着々と増やしていて、目的に向かって邁進していて、方針を違えたとはいえ詩織を嫌う理由はない。避けていたのは詩織だ。
その日の詩織のノートにはこんな文章が綴られている。
「頭の中で組み立てた世界と実際の世界には大きな隔たりがあって、自分が正しいと思ってしまうととんでもないしっぺ返しを食らってしまうらしい。少なくとも思っていることに根拠があるのか、思い込んでいるだけなのか、そこらへんの区別はしていきたい。」
実際にできているのかは判断が難しいところだ。心がけていてもふとした拍子に見失ってしまう。人は思考を大体五分くらいしか保てないらしい。こんなところで実感しなくても良いのに。
篠田邦彦のことだけではない。
溝口香苗や鹿野崎誠――仲間たちのことだって同じだ。詩織の認識と違う在り方をしているなんて、ちっとも思っていなかった。
過去に戻れるのなら自分の頭にチョップしたいが、残念ながら過去に戻れる魔法はまだ見つかっていない。
魔石を手にした詩織は仲間を集めて、「魔力の測定実験を始めようと思う」と宣言した。「どういう仕組みなんですか?」と香苗が問い、「測定『実験』ってことは課題があるってことだよね」と誠が突っ込む。
「測定に魔石を使用するつもりなんだけど、魔石の仕組みがいまいちわかっていないから、測定に耐えるものかどうか調べないといけないんだよね。発明者に訊いたけど」誠に視線を向けると、素知らぬ表情をしている。「知りたい点については不明らしいから。測定の仕組み自体は簡単なんだけどね、魔石に適切な魔法消費量だろう魔法を込めて、一発分を魔力1として数えようと思うの」
うーん、と香苗が首を傾げる。「それって、それぞれの魔法じゃダメなんですか?」
その質問は的外れなものではなくて、詩織は嬉しくなる。香苗はどんどん成長している。
「もし、みんなが一律に使えて、魔力消費量が常に等しい魔法があれば、ダメじゃないんだけど。共通の尺度という意味では、ちょっと魔法は野放図すぎるとしか言えないね」
「あー……なるほど……」
「じゃあ問題は、それらの問題点を魔石が解決できているかどうかってところだよね」
誠はしたり顔で指摘するが、大体似たようなことは個別に『魔石開発者』として聞いているのだ。この態度は香苗に流れを見せるための行動なんだろうか? 案外、この男、行動に卒がない。
「みんなが一律に同じ魔法を使えるかっていうのは、魔石はそういうものだから当然クリアだよね。問題は消費魔力が常に同じかってところで、それは実際に試してみないことにはわからない」詩織はノートを全員に見えるように真ん中に広げる。「私一人のデータじゃ、まだまだ足りないんだけど、試してみたんだよね。それがこれ」
ここ数日の夜、自室で延々魔法を使った記録だ。ちょっと涼しい空気を作る魔法を自力と魔石で二種、傾向をみるために魔力回復の時間を置きながら複数回計測した。適切な消費量がわかっていないから思いのほか回数使えてしまって、最近は寝不足で昼間が大変だった。
「見ての通り、自力でのほうは回数にばらつきがあって、八十九回から百二十二回。魔石のほうはぴったりとはいかなかったけど、百三十五回から百三十八回」
「ほぼほぼ理想通りなんじゃない、これ」
誠は興味深そうにノートをのぞき込んでいる。
「まあ、ね。使用できる回数は増えているのに、明らかに散布範囲が狭まっているのは、精度が上がっていると見て間違いないと思う。それでも同じにならなかったのは――計測時に魔力が回復しきっていなかったのか、そもそも魔力の最大値は変動するものなのか、あるいは魔石の魔力であっても揺らぎのようなものが存在するのか……こればっかりは現時点では推測するしかできないかな」
「いや、これは興味深いなあ。不確定要素はあるとはいえ、こういうデータ集めたら見えてくるものは色々あるだろうね。測定実験を始めるっていうのは、ある程度信頼しても良いと詩織さんも思っているんだろう?」
「そりゃね」
苦笑いを浮かべるよりほかない。落ち度探しが癖になっているようだ。見誤って錯誤を起こすよりはマシだろう。
「魔法の選定からね。ちょうど良さそうな回数になるようなものを見つけないと」「音出しませんか? 数えやすくなったり、計測中の人もテンポ良くできると思うんですよ」「ライン一本にするより、サポートお願いして複数のラインにしたほうが良いよ」実験手順のまとめと精査、役割の割り振り、計測希望者の募集、篠田邦彦のところにサポート願い等忙しい時期を乗り越えて、計測は開始された。応募者は思いのほか多くて、乗り越えたと思った忙しい時間は継続することになったけれど。
彼らはおおよそ「自分の実力が知りたい」という動機で応募してきているようだ。それはそれで構わない。彼らが彼らで知りたいことを知り、こちらは十分データが集まる。双方利益があるのだから、理想的と言っても良さそう。
■□■
詩織は自室で机に向かい、ノートに文章を綴る。ノートを魔術書と呼ぼうか、魔導書と呼ぼうか。最近は魔法に関してばかり内容が増えていく。
それなりにデータの集積が進んでいるので、そこから何か見出すことはできないか、とデータのまとめ直しや特定の条件でのデータ抽出などを進めているのだ。
このところ、魔石を用いても起こる回数の差異について、有力そうな仮説が出てきた。
問題は時間のようだ。
同一人物の実験結果を比較してみると、実験にかかった時間が長ければ長いほど魔法の使用回数も増える傾向にある。
窓の外は茜色に染まり始めている。
机の上には数学の参考書が開かれているが、それはダミーにすぎなくて、詩織のノートに書きこまれた数式とは関係のないものだ。得られたデータに漸近する式を立てられないかと詩織は悪戦苦闘していた。
魔力は回復する。では、どのように回復しているのか、いままでは十分に認識されてこなかった。例えば持久走のあと休んでいれば体力は回復する。激しく動くことがなければ身体に残るだるさも時間の経過とともに抜けていく。魔力も似たようなものだと安易に納得されてきた。
ところが、どうやらそうでもないらしい。
魔力は常に回復し続けているようだ。魔法を使っている間は(魔力の消費量)>(魔力の回復量)のため一方的に減り続けているように見えるが、収支としてのマイナスである。例えば二分で魔法一回分回復するのならば、計測時間が二十分かかればもともとの魔力量よりも十回多く魔法を使えていることになる。二十二分かかればさらに一回増える。誤差はここから発生しているのではないか。
勿論、事はそう単純なものではなくて、上手く式を立てることはまだできていない。
オッカムの剃刀を意識する。あらゆる物事が関係してきそうで、そうなると煩雑さばかり指数関数的に増大していって、到底太刀打ちできない化け物が眼前に立ちふさがる。大事なものを切り落としては土台から瓦解してしまう。説明に必要な最小限を選ばなければならない。精度の問題で言えば十分な精度を得られればそれ以上は望むべきではない。
ところで、十分な精度って何だろう?
ドアの外からスリッパの音が聞こえてくる。ノートを閉じて、詩織は顔をあげる。ノブが回って、開いた隙間から母が顔を出す。
「ご飯だから、降りてらっしゃい」
「はーい」
ノートのつるっとした表面を一撫でして、詩織は立ち上がる。いつの間にか放り投げていて机の下に散らばるスリッパを足だけで探る。
また今日も父の不毛な言葉を聞く時間だ。
いや、一度聞き流すのはやめてみようか。
意味がないと思い込んでいたけれど、思い込みは危ないと学んだのだ。
――もしかしたら、万が一の可能性で、父の話にも聞くべきことがあるかもしれない。