研究しよう(2)
詩織はノートが好きだ。
撫でるとざらざらともさらさらとも言えない微かな音を立てる。濡れてちょっとふにゃりとするのも愛らしい。でも、そんなことは後付けで、好きになってから「ああ、こんな愛らしい一面があったんだなあ」と気づいて、余計に好きになっただけだ。
本質とは、物事の本来の性質や姿のことだ。ノートの本質とは書かれるものに違いない。
勿論、詩織がノートが好きになったのは書くものとしてだ。
最初から「ノート、好きっ!」という人は、居るかもしれないが、詩織はそうではなかった。おおよその人がそうであるように、必要だからと手に取った。
小学生四年になって、「お受験」がその姿をのっそり現した時だってそうだ。勉強勉強。塾でも勉強、帰ってきてからも勉強。なんでこんなことしないといけないんだ、と思っても、「お受験、どうする? やってみる?」と尋ねる母に「うーん、やってみる」と何も考えずに返事をした自分が悪いのだ。そんな詩織は、ノートと向かい合う時間が長かった。だからといって、ノートが好きになるわけがない。ノートと向かい合う時間はそのまま苦痛の時間だったのだから。
その「お受験」も終えて、第一志望には落っこちて、でも納得できるところには間に合って、なんとなく使っていた参考書とノートとを捨てようと思った。開放感を形にしたかったのかもしれない。
部屋から二、三冊ずつのんびりとしたペースで本を玄関に置いていく。小学六年の手足なら、もっと一気に終わらせることもできたはずだ。そうしなかったのは、何故だろう。当時は疑問にも思わなかったはず。勤勉に詩織は部屋と玄関を往復した。
積み重なっていく本本本ノートノート。全部でそう大した量にはならなかった。そんなに大きくない段ボール箱でも一つで十分収まるくらいだ。塾のテキストは大判で薄い。
ただ、重なったノートの厚さには驚いた。一冊七ミリメートルほどの薄いイメージしかなかったノートはまとめてみると辞書と同じくらいの厚みがあった。
――これだけの量、文字を書きつけたんだ。
それは詩織の三年間の道程であり、知の結晶だった。同じ本を持つ人はいくらでもいる。だが、同じノートを持っている人はいない。数式に試行錯誤した跡や集中力が切れたときのミミズのような文字は唯一無二だ。
本は捨てた。ノートは捨てていない。見返すことはほとんどないけれど、部屋の本棚に奇麗に収まっている。そして、日々着々と増えている。
ノート、魔導書、魔法研究用覚書。このノートはテーマを魔法に縛った雑記だ。まったく整理しないで、思いついたことを兎に角書き付けていく。
「魔力の定義とは何か。魔法を発動させるエネルギーソース? 魔法が先に確かなものとしてあるのは面倒だ。魔法によってしかその存在を規定できない。私たちが普段他の魔法使いから感じる「圧」は本当に魔力か? 便宜的につけられた名前は実は仕組み的には全く別のものかもしれない。魔法自体、何故使えるのか厳密にはわからないまま使用している。ボタンを押せば動く電子レンジのように。疑いは止まらない。止めよう。確からしいものを足掛かりにしなければ、前進は望めない。先々に否定される可能性は常に残る。完璧に近づくために動くが、拘り過ぎては身動きが取れない。距離感を意識すべき。
魔力の測定法。日常的に大雑把には他者からの「圧」の強さで把握している。魔法を使用して魔力を減らしていけば圧は小さくなる。だからこれは魔法を使うためのソースで、つまり魔力だと合点している。これが現状唯一の魔力観測だ。ここから始めるしかない。
普段私たちは他者の魔力を
自分よりずっと大きい
自分より大きい
自分と同じくらい?
自分より小さい
自分よりずっと小さい
程度の雑な認識をしている。これをより精度を上げて、わかりやすい指標で明示したい。」
そう書きつけて、詩織は視線を上げる。
小学校入学の頃から使っている学習机の煌々としたスタンドの明かりと、窓の外の月が見える。ふっと胸に去来する感情に名前を付けずに、詩織はまた視線を下げる。息継ぎのようなものだ。人の思考は大体五分くらいしか保てないらしい。だから書くのだ。先へ行くためには目に見えるマイルストーンが必要になる。暗算だけで数学の複雑な計算ができる人間はほとんどいない。書いているから、そこから先へ進める。
「単位には1が欲しい。0は比較的明瞭だ。ないのが0だ。長さの単位はメートルやヤード、尺など、さまざまあるが、0はどれも変わらず0だ。1が違う。1が定まれば、0と1から実数のあらゆる数値が発生する。1はどこにある? 1メートルは、「地球の赤道と北極点の間の海抜ゼロにおける子午線弧長を 1/10000000 倍した長さ」がもともとで、今は「1秒の 1/299792458 の時間に光が真空中を伝わる距離」らしい。現在の定義が中途半端な数値になっているのは、もともとの定義の近似値を優先したためだろうか。より誤差のないように定義するのは頷ける話ではあるし、科学的には有理数が出やすくて便利か。光速は299792458メートル毎秒だ。計算する必要すらない。
大事なのは厳密な1メートルが違っていても、きちんと成り立っていること。だから、1さえ定まって、測ることができれば良い。」
では、妥当な1って何だろう?
□■□
詩織は青森に行ったことがない。鄙びた駅と寒風吹きすさぶ港町のイメージしかないが、本物はまた別物だろう。頭に思い浮かべるその町に、溝口香苗の姿を重ねてみる。色白肌が寒さに赤らんで、ショートカットのつやのある黒髪が白く暗い風景にぼうっと浮かぶ。童顔の香苗はしっくりと嵌って、童話の一ページのようだ。
本当のところはわからない。
青森は到底行けない。行こうと思えば行けるだろうけれど、高校生にとっての大金を払って知らない町へ行くのは抵抗があった。だから、香苗とはときわ荘で会う以外には、直接会ったことがない。
ときわ荘に着く。見渡したところまだ香苗は来ていないようだ。その代わりに篠田邦彦が数人の魔法使いの前で何やら両手を広げて演説している。
「画期的な発明を俺たちは成し遂げた! ついては説明会を行いたい! 現状の魔法における欠点の一つを克服し、さらなる発展と繁栄を間違いなく後押しする発明だ!」
詩織は知らず知らず顔を顰めてしまう。
――大した口上だ。
篠田邦彦の言葉でなければ、詩織は一顧だにしなかっただろう。大口を叩く若者は大概胡散臭い。根拠もなく、口先ばかり発達して、その場その場を乗り切れば問題ないと言わんばかりだ。
篠田邦彦が嫌いだ。それは横から人材を奪われたという、ただそれだけのことで、研究開発発展を望む気概だけは認めざるを得ない。彼が言うのならば、それはそれ相応のものだろうと思えてしまう程度には。人材のことで揉める前は、方向性こそ違えど、魔法について共に何度も語り合った。だから、彼の熱意は実際に知っているのだ。
彼らが成果を出した。
だから何だというのだろう。彼らが成果を出したのならば、自分たちもそれを超える成果を出せば良い。それだけのことだ。
詩織は立ち尽くしていたらしい。気付いたのは、背中に衝撃があったからだ。あ、と小さな声が聞こえた。振り返るとそこには香苗が居て、ちょうどときわ荘に転移してきたところのようだ。
「ごめん」身体を避けるために前に出る。「タイミングが悪かったみたいだね」まるで立ち尽くした時間はなかったかのような言葉が自然と出る。
「この転移だと物と物が重ならないんですね」
透明な瞳で呟く香苗に詩織はそうだねと返事をした。
■□■
ときわ荘は一室だけで、三十人は入れない。全員が一度に来たことはなかったはずで、多い時には十人程度、少ない時には誰も居ない。平日は午後五時くらいからぽつぽつやってきて、思い思いに過ごす。今日は運良くちゃぶ台を入手できた。『なくなったら補充!』とメモ紙が張られたポッドから急須にお湯を注ぐ。
「私、全然役に立っていませんよね」
唐突に香苗が言った。
詩織は少し動きを止めて、それから首をひねる。
「どういうこと?」
「わたし頭、良くないし、全然何もアイデアも出てきません」
「それは……」
そんなことない、という言葉は咄嗟には出てくれない。仲間で集まった時、香苗が会話に加わってくることが少ないのは事実だ。
「詩織さんと鹿野崎君が、お互い熱心に意見を交わし合っている中、私はぼうっと聞いているだけで、全然内容わかっていないんです。魔法使いの皆さんに決められたことを決められたように尋ねて、全部書き起こして、提出して、その文章の内容が良いか悪いかさえ、判断できないんです」
香苗は淡々としている。声に不平不満を滲ませたり、悲しがったりという様子は見えない。まるで他人のことを話すように、突き放したところがあった。その透明な瞳に映る感情は詩織には見通すことができない。
「勉強、しようと思ったんです。数学とか物理とか。書店に行って、一番簡単そうなテキスト買ってきて、一日二時間やろうって決めて、毎日ゆっくりかもしれないけど、やろうって。詩織さん、私、先日のテストで一番だったんです。数学と理科だけですけど、きちんと成果は出たんです。でも、二人の会話が、全然わからないままなんです」
耳の奥でざあざあ血流の音がするのを、確かに詩織は聞いた。
もう、辞めさせてください。その言葉がいまにも香苗から出てくるのではないか。
60センチほどのちゃぶ台の距離が何故か遠くて、落ち着かない気分で緑茶を湯呑に注いで、片方を香苗の前に差し出す。腕の長さで距離を測る。
「もともと詩織さんと同じ活動をするようになったのは、たまたま仲良くさせていただいたからです。同じ方向を向けていません。わからないまま、言われたことをやっているだけで……。これでは、仲間とは言えませんよね。だから――」
詩織は俯いて、粒子の舞う緑茶の水面を見る。
そうだ。香苗には研究欲というものがないのだろう。ときわ荘に来るようになって、よく話すようになっただけの同年代の少女は、詩織の欲求に巻き込まれただけだ。本人が何をするのかは本人の意思で決めるべきだ。団長にも、同じようなことは言われていた。
「だから、教えてください」
「えっ」詩織は顔を上げる。
「何を今やっているのか、今やっているのことの理解するために何を知るべきなのか、教えてください」香苗は頭を下げていた。「詩織さん、忙しいから、面倒かもしれませんけど、私もちゃんと仲間に入れてください」
そうして、香苗は顔を上げる。その表情に詩織はハッとした。真剣な香苗の顔に、詩織は初めてその奥の意思に触れたような気がした。
一人の人間を真に一人の人間として扱うのは難しい。
自分の意思はいつだって意識ある限り感じ続けるが、仕草をつぶさに見て想像力を働かせて尚感じられる他者の意思は本物のその人の意思と比べると不完全で些細なものに過ぎない。そして往々にして矮小化して感じる他者の意思を、実際のものと錯誤してしまう。侮って、見下して、優越に浸る。馬鹿げた自意識の誇張に往々にして陥ってしまう。
だからこそ、他者の意思を自身の想定以上の大きさで感じるのは鮮烈な驚きなのだ。
「辞めたい、って言われるかと思った」
詩織の口から言葉が零れ落ちた。
「そんなこと! 辞めたいなんて、少しも思っていません」
「どうして?」急かされるような気持ちが言葉になる。「香苗ちゃん、別に研究がしたいわけじゃないでしょう。私が勢いで巻き込んでしまったんじゃないかって」
「あ、それは、確かに研究とか全然イメージ湧かなくて、だから、研究したいっていうのはよくわかりません。ただ、詩織さんと鹿野崎君が楽し気なのは感じていて、そんなに面白いものだっていうのなら、知りたいんです。同じ目線で、同じものを見てみたいんです。……不純ですか?」
「そんなことない。ちゃんと関心持ってもらってて、安心したよ」
ほ、と詩織は息を吐く。
なんとか崩壊を免れた安堵の息だ。
ただ原因は消えていない。
見えていなかった。例え部活動レベルでさえないグループ活動のようなものであっても責任を取るべき人間が必要で、それは紛れもなく詩織だった。自分が言い出し、自分が主導する活動ならば、参加者のことをもっと考えるべきだった。
肝胆寒からしめる思いを隠して、詩織は笑みを浮かべる。香苗に見られていることを意識した表情だ。不安な表情は見せるべきではないとお腹に力を籠める。
「それで、研究についてきちんと教えるって話なんだけど」
「はい」
真面目な表情でぴんと背筋を伸ばす香苗。
「次にときわ荘に来るときはノートを持ってきてね」
「ノートですか」
「そう、ノート。私の部屋の本棚に、ノートだけで埋まっているところがあってね。ノート、好きなんだ」
話しながら、意識せずに湯呑に口を付けた詩織は、「にがっ」と呻く。蒸らしの時間なんて気にする余裕がなかったんだ、と気づく。
帰りがけに常設されたホワイトボードに目を向けると、汚い字で「日曜 午後一時 新技術説明会 篠田邦彦」とでかでかと書かれていた。