研究しよう(1)
「詩織、そろそろ夕ご飯だから降りていらっしゃい」
母の声に返事をして、詩織は広げていたノートを閉じた。机の上には数学の参考書なんかを広げているのだけれど、それはダミー。ノートには数式は少ししか書いてない。まだ数式を使うような段階にはない。
階段を降りて、リビングへ向かう。父はもう帰っていたらしい。椅子に座って、扉を開けた詩織に視線を向ける。
「頑張っているな」
父は詩織が一生懸命勉強していると思っているらしい。
「うん」
「だが、学校の勉強ばかりでは駄目だぞ」
「うん」
「結局のところ、センスなんだ。達成すれば評価される題材を見つける力というのは、言いなりになって勉強していても鍛えられない」
「うん」
うん、と応えながら詩織は父の言葉を聞き流す。慣れたもので意識せずにできる。価値を感じない言葉を真っ向から受け止めるのは体力の無駄だ。あまりに相槌の仕方が上達しているのか、それとも父の観察不足か、聞き流しているのを咎められたことはない。
「父さんの後悔は、そういうところにあった。博士課程の……」
「ほら、良いからご飯食べなさい」
「うん」
いつの間にかテーブルの上には晩御飯が並べられていて、父のいつもの愚痴は母に止められた。
父は挫折したらしい。何度も何度も言われているうちに聞き飽きてしまった。大学所属の研究者を目指していたらしいが、当人曰く「センスの無さ」が原因で限界を見てしまったという。それは良い。人それぞれの道程というのはあるものだ。問題は付き合うのがいささかウザいということだ。聞き逃しているとはいえ、身を置いておきたい環境では決してない。
父は何故か詩織が研究者を目指していると思っている節がある。勉強はそれなりにしていると思うし、まあまあ恥ずかしくない成績は取っている。東京でそれなりに名の知られた私立女子高に所属しているのだから、そこは謙遜しても仕方がない。
ただ小さい頃から研究者を目指して挫折した経験を聞かされてきたのだ。どうして研究者になろうと思えるだろう。何か将来の展望があるかというと、ないのだけれど。
ただし、やはり生来親から受け継がれたものもあるのだろう。遺伝子は強固な一面を持つ。いまとなってはちょっと否定できない。
食事を終えて詩織は自室に戻る。真っ先に机に向かって、ノートを開いた。
魔法の根源を探る魔法書、などというと全くイメージにはそぐわないが、このノートはそういうものだ。耕生くん――人によっては始原の魔法使いなんて呼ばれている――によって魔法に開眼してから、詩織の中心は専ら魔法に占領されてしまった。寝ても覚めても魔法や魔力のことを考えてしまう。
未開拓の広大な地平が眼前に広がっている。
もうそれだけで楽しくなってしまう。
知りたい。
魔法に関するあらゆることが知りたい。
でも情報が少なすぎる。
だったら。
だったら、自分で研究するしかないじゃない?
□■□
西荻窪から中央線に乗って一駅、吉祥寺で降りて井の頭恩寵公園へ向かう。学校帰りの西の空は赤く染まっている。避けることを考えるくらいには人が多い。
詩織は魔力を用いてラインを繋げ、頭の中で呼びかける。
『団長、遮蔽をお願いします』
『わかった』と団長の声のような、文字のような、情報が直接脳内に響く。
身体の表面に他者の魔力がくっついた感触に、頷きを一つ。通常の五感では何も変わってないように感じられるが、周囲から見れば詩織の姿は消えているはずだ。
団長、壮一さんは耕平くんの兄だという話だ。詩織の所属する魔法使い集団「神秘教団」の団長を務めている。仙台に住む大学生で、柔らかい物腰の優しいお兄さんと言った容貌。使用できる魔法は『遮蔽』のみ。素では透明な壁を作るだけだったが、その『遮蔽』に効果を付属させることで、それなりに多芸だ。これは詩織の成果でもある。「遮る」ことに関連するならこれもできるあれもできるかも、と助言したのだ。その通り団長が想像していなかった効果を発揮していくたび、達成感が詩織を擽った。
透明化は実現して本当に感謝した効果だ。恩恵が大きい。
東京では住宅街くらいでしか無人ということはなく、設置されるゲートは何故か耕平くんの独断と偏見により有名どころに限定されている。術者がしっかり認識できる場所でないとゲートを置けないのではないか、と詩織は推測しているが、本当のところはわからない。そんな状況で秘匿したままゲートを潜るには透明化が必要だった。助言の礼という形で、団長にはたびたび透明化の遮蔽を掛けてもらっている。
頭の中で団長に纏わる情報をさらう。研究の基本はデータだ。正しいデータを収集し、そのデータから仮説を見出し、仮説を検証するためにデータを収集し、証明なり結論なりを導く。詩織は魔法関係のデータを脳内からすぐ取り出せるように自主的に訓練している。今はかなり雑多ではあるが、そのうち整理したい。
人を避け、人を避け、人を避け。急に予測できない動きをしそうな大学生くらいの集団は道を外れてやり過ごす。
ピアノを模した石碑に触れる。
ゲートの発動は一瞬だ。目をしっかり開けていても、瞬きしたのかと疑ってしまうほど。
気が付けば神秘教団本部ときわ荘だ。
窓は磨り硝子で、外の様子はぼんやりとしか見えない。空の青と灰色の住宅街といった景色だ。ただ、それはそう見えるだけで、窓の外には何もない。窓は開かないし、玄関から出ても元の場所に帰るだけだ。
小さな小さな一室だけの異世界。
異世界の創造は、現状における魔法の最奥だ。使える者は、現在三十を超す魔法使いの中でも耕平くんだけ。希少な適正と莫大な魔力を要する奥義と言っても過言ではない。
贅沢なその世界の用途は、魔法使いが魔法使いと出会い、話し合い、それぞれの何かを交換し、影響し合う場だ。格好良く言えば、そんなところ。実質ただの溜まり場と言うこともできる。「あー、金が欲しい。とりあえず三十万」と横になって嘯いている男が居れば、「もし世界が滅亡するとして、その前にここに来れば生き残れるんじゃね?」「食料どうすん?」「生成する」「お前できないじゃん」「できる奴にたかる」「完璧じゃん!」と駄法螺話に花を咲かせる連中も居る。
魔法使いの名簿は耕平くんか団長に言えば見せてもらえるが、照らし合わせるとここに来る頻度はそれぞれだ。最初の一回はみんな耕平くんに連れられて訪れるが、それきり顔を出さない人も居る。
詩織自身は割と足繁くときわ荘に通う者の一人だ。だから、よく見知った連中もいる。
部屋の隅でこそこそしている男連中もまた常連だ。積極的に魔法を活用していくことを目的にして、色々と開発しようとしているらしい。
ふとその内の一人が顔を上げて詩織を見た。少しして、興味を失ったかのように仲間内に戻る。その顔には覚えがある。頬骨が少しごつく、勝気さを感じさせる目。
篠田邦彦。
彼らの中心的人物だ。
鼻を鳴らして、詩織も視線を外す。
研究しているという点だけは詩織と共通しているが、内容はまるで別物だ。魔法自体を知ろうとすることと魔法をより活用しようとするのは違う。そして、人的リソースを食うのはどちらも変わらない。
三十人ほどしかいない魔法使いの中で人材を得ようとすると衝突するのが必定だ。何人横からかっさらわれたことか。思い出すと頭に血が上る。一度団長に談判したが、彼には「勧誘される側が選択しているのは間違いないから。強制するのは神秘教団の方針とは合わないんだよね。個々人が自由に魔法を使ったその先を見るのが俺たちの方針だから」と否定された。
活用する方向が歓迎されやすい傾向はあるのだろう。それは理解できる。自分に何ができるのかを追い求めるのは自然だ。
だからといって、納得はしかねる。彼らのやっていることは二、三歳の子供がコンセントを弄っているようなものだ。魔法がどういう挙動をするのかわからないままで良いはずがない。――負けたくない。
「会議を始めよう」
詩織の言葉に頷くのは、魔法基礎研究の志に賛同してくれた仲間――総勢二名。
「方針は当分データ収集で良いんですよね?」
一人は一つ年下のおかっぱ頭の少女、溝口香苗。青森出身で色白な肌が羨ましい。ときわ荘に来始めた頃慣れない同士で仲良くなった縁で、いまでも付き合ってくれている。使える魔法は幅広いが、魔力量自体はやや少なめ。
「データがないんじゃ、出てくる結論は全部妄想の類だからね。でも、こうしてわざわざ会議しようってことは、追加の方針か何かあるんじゃないかな」
もう一人は同い年の男子。鹿野崎誠。勧誘に「面白そう」と乗ってきてくれた、有望株。頭の回転はなかなか速く、こちらの言葉の意味を逸早く察して自分なりの見解を話すなんてことがよくある。参加率はそんなに高くはないけれど、居ると思わぬ方向から興味深い発言が飛んできて刺激を貰える。魔法は「主にエネルギー方面が相性良いのかなあ」とか言っていた。細かいことは聞けていない。
女子校育ちなせいか、男子に距離を置きがちになっていると詩織は度々感じる。
総勢三名のこの集団が魔法基礎研究部の全てだ。少勢といえど、胸を張っていきたい。
「ええ。いままでは無差別にデータを集めていたけど、明確な研究目標を設定し、それに沿った形でデータ収集の形を整えていきたいな、と」
「何か案はあるのかな?」
鹿野崎が眼鏡を押し上げる。
「私たちの最終目標は『魔法という現象の解明』なんだけど、当面魔力について注力していきたいと考えている」
「魔力……」香苗はぼんやりと呟く。
「現状、魔法自体はその千差万別な在り方から、はなかなか手が出せないと思う。もっとデータが豊富になれば仮説も作れるかもしれないけど……三十人程度では難しいよね。現状手に入れたデータでは一人一人が別の形の魔法を使っているようなもの。一般化は無謀でしょ。
反面、魔力というものは魔法使いならば誰しもが持っていて、データも収集しやすいかなと」
「魔力と言っても、大雑把すぎない?」
「まずは……尺度の制定から。それぞれの魔力を同一規格で測定するのが第一歩じゃない?」
「要はMPの可視化か……例えば魔力の強さが遺伝に関係するのか、あるいは環境要因なのか、全くのランダムなのかなんて実証することもできるようになるね。僕は良いと思うよ」
鹿野崎の賛成も得て、詩織は手ごたえを感じる。身を包むのは軽い高揚だ。問題を切り分けて、手が届くサイズにして、一歩一歩進んでいくのだ。
「それじゃあ、魔力のことをよく聞いていけばいいんですか?」
香苗の言葉に、詩織は首を捻る。
「うーん、現状アンケートの内容は変えられないかな。感覚的な感想が多くなってデータとしては信頼できそうにないしね。今は上手く活用できていないけれど、いずれ魔法まで手が届けば必要になるから、今まで通りどんな魔法が使えるのか、その魔法の中でも使いやすい使いにくいといったことも聞いていってほしい」
「はい!」
元気の良い香苗に、詩織は微笑んだ。
仲間とともに同じ目標に進むっていうのは、なんて清々しい気持ちになるんだろう。