急転直下
小松はチラッと律子を見てから、言葉を続けた。
「私達の手許に来るのは、『給与所得者の扶養控除等(異動)申告書』と『給与所得者の保険料控除申告書兼給与所得者の配偶者特別控除申告書』、保険料等の控除証明書、学生証や障害者手帳のコピーくらいです。申告者本人の所得は正確にはわかりませんから、あくまで本人が記入した所得の見積額を信じるしかありません」
小松の言いたい事は律子にも理解できた。配偶者特別控除は、申告者本人の所得金額によっては、受けられない場合があるが、その所得金額は、あくまで見積額がわかるだけなのだ。本人が偽りの金額を記入すれば、こちらにはそれを判定する手段はない。せいぜい、本人に確認するのが関の山だ。
「その点は、こちらの管轄外ですから、それ程気にする必要はないと思いますよ、小松さん」
長谷部が苦笑いをして告げる。
「それで差し支えないという事であれば、構わないです」
小松は長谷部の言を受けて、あっさりと引き下がった。理屈で考えると、確かにそれしかない。データとして手許に存在しない本人の所得金額を気にしてみても、仕方がないのだ。
「当然の事ながら、クライアントの使用している年末調整システムが本人の所得の合計額を把握してはずです。そこで該当するかしないかは判別されると思いますので、計算上も問題はないと思われます」
長谷部は苦笑いをしたままで、言い添えた。
(それもそうだ。正しい年末調整をするのであれば、システムがそれくらいの判断はしてくれないとね)
律子は納得した。小松と野崎は長谷部のコメントをメモしているようだ。
(熱心だよなあ。これで、挨拶をきちんとしてくれれば、何も問題はないのに)
今更ながら、何故野崎がそこまで頑ななのか不思議だった。
「時間が来ましたので、お昼休みにしてください。午後は、引き続き、『給与所得者の保険料控除申告書兼給与所得者の配偶者特別控除申告書』の検討をします」
長谷部が作業室を出て行くと、野崎と小松が目配せをし合って、一緒に出て行った。
(昨日と何も変わらないよ)
律子は小さく溜息を吐くと、作業室を出て、ロッカーがある場所へと向かった。
(早いなあ。もういない)
律子がロッカーの場所に着くと、野崎と小松はすでに外に出た後だった。律子はロッカーの鍵を開け、バッグから弁当箱を取り出した。そして、二階の休憩室へと歩き出す。すると、別の部署で働く年配の女性が、
「あんた、社長とどういう関係なの?」
身体をすり寄せるようにして訊いて来た。
「いえ、別に何の関係もありませんが」
それが事実なので、律子はそう答えた。するとその女性は、
「嘘おっしゃい。昨日の昼休み、社長と楽しそうにお昼ごはんを食べていたでしょ? それから、今朝だって、ロッカーの前でお喋りしていたし」
律子はその言葉に寒気がした。
(何言ってるの、この人?)
ムッとして反論したくなったが、それだと火に油だと思い、
「嘘じゃありませんよ。ほら、社長がいらっしゃいましたから、直接お尋ねになったら如何ですか?」
ちょうどタイミングよく草薙が現れたので、そう言って応戦した。すると、その女性はそそくさと立ち去ってしまった。
「どうかしましたか、神田さん?」
草薙が驚いた顔をして近づいて来たので、律子は事情を説明した。
「なるほど。ごめんなさい、神田さん。私のせいですね」
草薙がしょんぼりして謝罪したので、律子は慌てて、
「いえ、社長のせいではありません。そういう人って、どこにでもいますから。私、気にしていませんし」
ちょっと強がりだと思いながらも、そう言った。
「そうですか? それならいいのですが、本当に何かあったら、包み隠さずに言ってくださいね」
草薙はそう言い添えて、立ち去った。
律子は階段を上がって二階に行った。相変わらず、派閥のように別れて食事をしている一団がいくつかある。律子に突っかかって来た女性もその中の一つに属していて、ヒソヒソ話をしている。嫌な感じだとは思ったが、会釈をしてやり過ごし、どの一団からも離れた一角のテーブルに着いた。
そんな事があったせいか、弁当のおかずが何だったのかどころか、味もほとんど自覚できないまま、律子は昼食を終えた。
(毎日何かあったりしたら、胃に穴が開きそう)
律子は弁当箱をロッカーに戻し、眠気対策用に喉飴を二粒口に放り込んだ。
(トイレにも寄っておこう)
そう思ってトイレに駆け込むと、ちょうど小松が出てくるところだった。
「あ、すみません」
お互いに譲り合い、すれ違った。洗面台の前には野崎がいた。野崎は化粧を直していたのだが他に誰もいないのを確認すると、律子を見た。
「神田さん、お話があります」
いきなりそう言われて、律子の心臓が凄まじい速さで動き始めた。
(何? 何なの?)
全身から汗が噴き出すのがわかる。
(もしかしてあの事がばれちゃったの?)
まずはそれが頭を過った。
「まだ昼休みは数分ありますから、大丈夫ですよね」
野崎は腕時計を見ながら言った。