研修進む
翌日、律子はいつも通り、夫と娘の弁当を作り、自分はその残り物を弁当箱に詰めると、出かける準備を済ませて、家を出た。
(不安だ)
昨日、小松に思わぬ事を言われた上、その事を野崎には内緒にして欲しいと言われてしまったので、どんな顔で野崎に会えばいいのかとあれこれ悩んでいるのだ。
野崎から律子に話しかけてくる事はないだろうが、何かの切欠で律子が秘密を知っている事に気づかれたりしたら、小松の立場が悪くなる。それが一番の不安だった。
だが、いくら考えても、名案は思いつかない。
(だったら、出たとこ勝負しかないか)
律子はそう思い込む事にした。
会社に到着し、ロビーを抜け、社員証をセンサーにかざしてロックを解除し、ドアを開いた。
「おはようございます」
すると、そこにちょうど社長の草薙がいた。
「おはようございます」
律子は笑顔で挨拶した。草薙は律子に近づいて、周囲を見渡してから、
「どうでしたか? あのお二人とは?」
「何とか、やっていけそうです」
律子は苦笑いして応じた。草薙は微笑んで、
「そうですか。だったら、よかったです。とにかく、何か困った事があったら、すぐに長谷部に言ってくださいね。もちろん、私がそばにいる時でしたら、私に直接言ってもらっても構いませんので」
「あ、はい、ありがとうございます」
律子は頭を下げて礼を言った。草薙はしばらくすると、他の正社員と共に別室に入っていった。律子はそれを見届けてから、ロッカーのあるところに行き、ショルダーバッグを入れ、中から水筒と眠け覚ましの飴を取り出した。
「おはようございます」
野崎と小松が一緒に入ってきたので、挨拶をした。野崎はチラッと律子を見て、会釈をしただけだ。それに対して、小松は苦笑いして同じく会釈をしただけだった。
(野崎さんの手前、ああするしかないよね)
小松の難しい立場を考えて、律子は納得した。二人を待っていた訳ではないのだが、律子は小松と野崎に歩調を合わせて、作業室に向かった。その間、会話は一切なかった。
(気が重い)
草薙には、やっていけそうですと言ってしまったが、どうなるかわからないと思った。
「おはようございます」
そんな事を考えていると、長谷部が作業室に来た。
「おはようございます」
長谷部にはきちんと挨拶する二人。また悲しくなってくるが、堪えた。
「では、本日は昨日の続きで、更に細かい部分のマニュアルの作成と、流れのポイントを明確にしていきたいと思います」
ゆったり口調で長谷部が話す。律子は慌てて、長谷部に見られないように飴を口に放り込んだ。
「では、『給与所得者の保険料控除申告書兼給与所得者の配偶者特別控除申告書』の続きで、配偶者特別控除申告書の欄ですね」
長谷部が書類を探しながら告げた。
以前は、配偶者は、控除対象配偶者の控除と、配偶者特別控除を二重に受ける事ができた。しかし、現在は、両方の控除を受ける事はできない。配偶者特別控除は、平成29年分の場合、配偶者の所得の合計金額が、38万円を超え、76万円未満の場合に受ける事ができる。しかも、申告者本人の合計所得が1000万円を超えると、受けられなくなる。
多くの人を悩ますのが、この「所得」という単語だ。所得とは、収入から必要経費を引いた額を指すのだが、一般的に収入と所得は混同されがちで、酷い時には、テレビ番組の解説でも間違われている事がある程だ。
「控除対象配偶者の欄に記入があるにも関わらず、配偶者特別控除の欄にも記入があり、しかも、所得の合計金額が38万円を超え、76万円未満である場合、どちらが事実なのか、確認する必要があると思います」
野崎が発言した。律子もそれは知っている。そして、そこでも混乱の元となるのが、収入と所得なのだ。「給与所得者の扶養控除等(異動)申告書」には、扶養親族の本年の所得の見積額を記入する欄があるが、そこに書かれた所得の金額と、配偶者特別控除申告書に書かれている所得の金額が不一致の場合があるのだ。
これも、所得の意味を理解していない事から起こるミスである。配偶者特別控除申告書には、それぞれの所得を計算する欄がある。
給与所得の計算をする欄にはあらかじめ、「650000円」と必要経費等の欄に印字されているので、欄さえ間違えなければ、給与所得は正しく算出されるのだ。
ところが、「給与所得者の扶養控除等(異動)申告書」には、所得の見積額を書く欄はあるが、給与所得控除を引くようには書かれていない。
そこが一番の問題点なのだ。
「その点に関しては、直接ご本人に問い合わせをして確認する以外に方法がありませんね。昨年もそれで随分と時間を取られた記憶があります」
長谷部が苦笑いをして言った。
(改めて見直すと、随分難しいんだなあ、年末調整って)
今まで、機械的にこなして来ていたので、その奥深さを再認識し、律子は頭が痛くなりそうだった。
「もう一つの気がかりが、申告者本人の所得が多い場合ですね」
小松が言った。律子は小松を見た。