疲れた一日
同じ派遣社員の野崎が早退すると、野崎とは「同志」だと思っていた小松がまさかのカミングアウトをしたので、律子は、
(派遣怖い)
そんな感情を抱きつつ、その日の業務を終え、社屋を出た。
「神田さん」
会社の駐車場を抜けて駅へと続く通りに出ようとした時、小松が声をかけて来た。
「今日は驚かせてしまって、申し訳ありません。でも、野崎さんには内緒にしてください。私はともかく、神田さんにアタリがきつくなると困るので……」
小松の言葉に律子は顔を引きつらせた。
(だったら言わないでよ、小松さん)
そう思ったが、口にはしなかった。
「わかりました。私は何も聞いていないという事で」
律子も予防線を張り、小松とはそこで別れた。
(久しぶりにフルに勤務したから、疲れた)
それだけではないのは十分理解しているが、そういう事にしておかないと、メンタルがやられそうな気がした律子は、気持ちを切り替えて夕食の買い物をすませると、愛娘の雪と母親が待つ家に帰った。
「只今」
玄関のドアを開くと、中からいい匂いがして来た。律子の好物の舞茸の炊き込みご飯の匂いだ。
「お帰り。しばらくぶりの仕事で疲れたろ? 好物作って待ってたよ」
母親がうとうとしている雪を抱きあげて、玄関まで出て来た。
「ありがとう、お母さん。これ、明日の朝食にするね」
律子はレジ袋を持ち上げてみせた。
完全に眠ってしまった雪をソッとベッドに寝かせると、母親がよそってくれた舞茸ご飯を頬張った。
「そんなに一遍に口に入れなくても、誰も取ったりしないよ」
意地汚い我が子を母親は呆れ顔で眺めている。
「こうやって食べた方が、舞茸の香りが口から鼻に抜けて美味しいんだよ!」
負けず嫌いの律子は剥れて反論した。
「ほらほら、口に食べ物を入れたままで喋るんじゃないよ、全く。小さい頃から、ちっとも変わらないんだから」
「もう、いつもそうやって子供扱いするお母さんこそ、昔と全然変わらないんだから!」
剥れながらも、つい笑ってしまう律子である。
「只今」
母娘水入らずのたわいもない話をしているうちに、夫の陽太が帰宅した。
「あら、もうそんな時間?」
母親が驚いて壁の時計を見ると、時刻は九時を回っていた。
「もう遅いから、泊まっていけば?」
律子が言ったが、
「明日、お父さんが出張なのよ。知っての通り、一人では靴下がどこにあるのかもわからない人だから、戻らないと」
母親が苦笑いして言うと、陽太が慌てて、
「そんな日に来ていただいて申し訳ありません」
深々と頭を下げたので、
「気にしないで、陽太さん。雪に会いたくて私から頼んだんだから。いざとなったら、お父さんには独り立ちしてもらうし」
母親の陽気な返しに律子も陽太も笑ってしまった。
母親を最寄り駅まで送って来た律子は、母親には言えなかった仕事の事を陽太に話した。
「そうなんだ。派遣社員の人はいろいろ事情がある人が多いらしいから、あまり気にしない方がいいと思うよ」
陽太は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プルタブを起こしながら言った。
「そうなのかなあ。そうした方がいいのかなあ」
律子はテーブルに頬杖を突いた。陽太はビールをゴクッと一飲みしてから、
「そうだよ。あまり気にかけてあれこれ言うと、顰蹙買うよ。触らぬ神に祟りなし、だよ」
「わかった、そうする」
律子は椅子から立ち上がると、冷蔵庫を覗いて、酒の肴になりそうな物を探した。
「あ、アテはいいよ。もうご飯食べたいから」
陽太が言ったので、律子はニヤリとして、
「私が飲みたいの」
「太るぞ」
「うるさい!」
陽太に言われると気になるが、やめられない律子である。冷蔵庫にあった明太子を肴に、ビールではなく、焼酎をオンザロックで飲んだ。
「飯食った後で酒飲むって、どうにも理解できないなあ」
二本目の缶を開けて陽太が呟く。
「食べてから飲んだ方が酔わないし、太らないのよ」
誰に聞いたのかも覚えていない嘘臭い説を言い放つと、律子はゴクゴクと焼酎を胃に流し込んだ。
「雪の離乳食を早めに作ったのは、自分が一刻も早く飲みたかったからなんだねえ」
二缶目も飲み干した陽太が、皮肉を言ったので、律子はムッとして、
「悪い?」
「悪くないよ」
陽太は酔いが回って来たのか、律子を抱きしめて、キスをした。
「ちょっと、陽太、ふざけないでよ、もう!」
内心は嬉しいのだが、強がってみせると、
「へいへい。冷たい奥さんなので、風呂入って寝ます」
陽太は肩をすくめると、スタスタと浴室に歩いていった。
「酔いを醒ましてからの方がいいよ、陽太」
「へーい」
返事だけは聞こえたが、浴室のドアが開く音が聞こえなかったので、心配になって見にいくと、陽太は廊下でゴロンと横になっていた。
「仕方ないなあ、もう」
口ではそう言いながらも、律子は嬉しそうに陽太を引きずって寝室へ連れていった。
しばらく陽太が起きるのを待っていたが、とうとういびきを掻き始めたので、諦めて先に風呂に入った。
(明日も仕事頑張ろう)
湯船の中で決意を新たにする律子だった。