意外な真相
神田律子が派遣先で出会った同じ派遣会社のスタッフである野崎は、人との関わりが不得手だと聞いていたが、派遣元の担当から言われていた通り、業務に関しては、律子より遥かに優秀な人材だと思い知った。
それがよくわかった律子はその後は口出しすることなく、野崎と小松の発言を訊く事に徹した。
時折、野崎が律子をチラッと見たのは、
「何かご不満でも?」
そんな風に思えてしまった。
(卑屈になり過ぎかな、私?)
心の中で、自問自答した。
そして、「給与所得者の扶養控除等(異動)申告書」についての検討は終了し、次に「給与所得者の保険料控除申告書兼給与所得者の配偶者特別控除申告書」の注意点の洗い出しに移った。
「クライアントである先方からの要請は、必要最小限度の訂正という事です。要するに、年末調整の計算に関係がない箇所については、修正の指摘は必要ないという事ですね」
洗い出しを始める前に、担当の長谷部がまたおっとりとした口調で告げた。
「昨年同様という事でいいのですね?」
小松が申告書を見たままで確認した。長谷部は苦笑いして、
「はい、そういう事です。要するに、控除額の計算に関係あるところだけをチェックして欲しいという事です」
律子もそれは理解した。結婚前に勤務していた会社でも、同様の事を求められた。
少人数の会社であれば、全ての事項について、詳細にチェックをしても、時間が足りなくはならないが、今回のクライアントである不動産仲介会社のように、社員数が一万人以上ともなると、多少の手抜きは必要なのだ。
そうは言っても、控除額に関わる保険料の支払金額や、生命保険料のように新制度か旧制度かの判定などは手を抜いてしまう訳にはいかない。
「控除証明書ではなく、案内が添付されている場合は、指摘ではなく、後日確認してもらうように付箋を貼る必要があります。弊社では、年末調整の関係書類の提出期限は十一月末にさせてもらっておりますので、それ以降に控除証明書が届く年払い方式の保険については、管轄外となります」
長谷部が補足したのは、前年度に問題になった事象だった。
「それから、申告者が確定申告をする旨のチェックをしている場合には、こちらの申告書は未提出になります。これは、皆さん、当然ご承知だと思いますが」
長谷部の声が子守唄に聞こえそうになってきた律子は、テーブルの下で腿をつねって堪えた。
それでも、睡魔に襲われそうになった時、
「では、ここで小休止しましょう」
長谷部が言ってくれたので、律子はホッとした。
「長谷部さん、申し訳ありませんが、私、今日はここで早退させていただきます」
不意に野崎が言ったので、律子はびっくりして彼女を見た。小松は知っていたのか、驚いた様子はない。
「ああ、そうでしたね。お疲れ様でした」
当然の事ながら、長谷部も知っていたようだ。野崎は律子に軽く会釈をし、部屋を出て行った。
(トイレに行ってから、のど飴を舐めよう)
律子が立ち上がると、小松も立ち上がった。
(トイレかな?)
もしそうなら、先にロッカーにのど飴を取りに行こうと思った。
「神田さん、ちょっといいですか?」
ところが、小松は律子について来て、声をかけて来た。
「何でしょうか?」
律子は意外に思いながらも、微笑んで応じた。すると小松は、
「きっと、私と野崎さんの事、嫌な女だと思っているでしょう?」
唐突にそんな事を切り出され、一瞬固まりそうになった。
「そ、そんな事はないですよ……」
そういう応答をしている自分の顔が「私は嘘を吐いています」感丸出しだと思った。
「仕方ないですよね。そう思われるようにしているんですから」
小松が言った言葉に驚き、律子はぽかんとして彼女を見た。
「野崎さんが、去年から私に強制している事なんです。私、嫌なんですけど、断り切れなくて……。ごめんなさい」
小松は涙ぐんでいた。演技だとすれば、女優並みだと思ったが、律子にはそうは思えなかった。
「いえ、いいんですよ。そういう事情なら、仕方ないと思います」
頭を下げて謝罪する小松を宥めて、トイレに行き、用を足してから、小松の話を洗面台の前で聞いた。
野崎も、決して人と関わるのが苦手ではないのだが、面倒臭いので、そういうふりをしているのだという。
律子は、野崎の考えが理解できない。小松もそうらしいが、昨年は二人きりだったので、逆らえなかった。
そして、今回も、律子がどんな人間なのか見極めてから、話をするかしないか判断しようと思ったという。
(私って、どういう人間だと思われたんだろう?)
ちょっとだけ不安になる律子である。
「神田さんに打ち明けられて、スッキリしました」
小松は晴れ晴れとした顔で言った。
「そうですか」
律子もホッとして微笑んだ。
「戻りましょうか」
律子は小松に言って作業室に向かった。
(明日から、小松さんは野崎さんに対してどうするのだろうか?)
少々不安が残った。そして、
(しまった、眠気覚ましののど飴を舐めるの忘れてた)
自分の失策に気づいたのであった。