ピーク
合流して一週間が過ぎた。最初はガタガタしていた動線も次第にスムーズになり、人同士がぶつかる事はなくなった。しかし、それ以上に問題となったのは、処理がすんだ書類とこれからすませる書類が混ざってしまう事がある事だった。
「これは入力がすんでいますから、そっちのケースの中に入れてください」
野崎が汗まみれになりながら指示を出す。律子は質問に追われていて、手伝う事ができない。メールで送信されてくるデータは、最初の頃はきちんとしたものが多く、訂正も少なかったのであるが、次第に「タチ」の悪いデータが送られてくるようになってきた。前年のデータを一切確認せずに送信している人が多くなったのだ。
「去年と同じですね。後になる程、ズボラな人が送ってくるんです。気をつけないと、大変なミスを犯す事になりますよ」
三人の中で一番若い小松が疲れた顔で言った。
「そうみたいですね」
律子は質問の波が一旦収まったので、一息吐き、トイレに行こうと立ち上がった。
「神田さん、いいですか?」
合流組の中で一番若い十代の女の子が声をかけてきた。
「はい、どうぞ」
律子は立ったままで応じた。女の子はプリントした書類を律子に示して、
「この方、配偶者の方を控除対象に入力して、特別控除にも入力しているのですが、どちらが正しいのか、判断がつきません」
「わかりました、それは私が質問を送信しておきますので、私のテーブルのケースに入れておいてください」
「はい、ありがとうございました」
女の子はニコッとして応じた。律子はそれを見てから、作業室を出て、トイレに行った。
トイレの洗面台の前には、例のおば様達がたむろしていたが、律子が入ってきたのを見ると、一斉に個室へ入ってしまった。
(ああ、ダメ!)
律子は焦ってしまった。
(出てくるのを待つか、二階へ行くか?)
迷っているうちにどんどん尿意が増してくる。しかし、誰も出てくる気配がない。
(限界になっちゃう!)
律子は意を決して、二階のトイレへ行く事にした。階段を上がるたびに漏れそうになるのを何とか堪え、休憩室の脇にあるトイレに駆け込んだ。
「危なかったあ……」
何とか最悪の事態は避けられた。
(もし、あのおば様方の行動が意図的なものだとすると、紙おむつをしてこないと危ないかな?)
考え過ぎとは思ったが、万一の事を考えて、律子は帰りに大人用の紙おむつを探しに行こうと思った。
「あ、神田さん」
トイレを出ると、野崎が立っていた。
「どうしたんですか?」
お互いに同じ事を言ってしまったが、
「ごめんなさい、話は後で!」
野崎がトイレに駆け込んだ。二階のトイレは男女兼用で、一つしかないのだ。
(まさか?)
律子は嫌な予感がして、階段を降り、一階のトイレを見た。
(誰もいない)
律子は思い過ごしだと考えて、作業室に行こうとした。すると、別の部署のドアからおば様達がこちらを見ているのに気づいた。おば様達は律子の視線に気づくと、ドアを閉じた。
(やっぱりそうなの?)
律子は考えるのをやめて、作業室へ急いだ。
昼休みは混雑を考えて、半々で時間をずらして取る事になっている。律子達は休憩室に行くと、おば様達に出くわすのでそのまま作業室で昼食を摂っている。
十代の女の子や若い年代の女性達は外で昼食にしている。おば様達と変わらない年代の女性達は特に支障はないのか、休憩室で昼食を摂っていた。
「やっぱりね」
昼食後の話題はトイレの件になった。野崎も律子と同じ疑惑を感じていたのだ。
「私が入っていった途端に個室に入ったんです。間違いなく嫌がらせです」
野崎が興奮気味に断じた。小松は野崎を宥めながら、
「最初から二階に行く方がいいですね。さすがに二階まで嫌がらせには来ないでしょうから」
「私は紙おむつを買おうかと思っています」
律子が言うと、野崎も、
「今日は大丈夫だったけど、次も同じ事が起きると、間に合わない可能性があるから、私も考えようかな」
「サイズ、大丈夫なんですか?」
小松が尋ねると、野崎は、
「大きいサイズを探したら見つかったから、そっちは心配ないの」
苦笑いした。
「いずれにしても、関さんに一応報告しておいた方がよさそうですね」
小松はやれやれという顔で弁当箱をランチクロスで包みながら言った。
「それもどうなのかしらね。報告しないといけないとは思うけど、関さんがおば様達を注意すると、それがまたこちらに跳ね返ってくる気がするし……」
野崎は腕組みをした。律子もそれは心配だった。
やがて昼食時間が終了した。律子達は訂正内容を送信しつつ、合流チームからの質問をさばき、作業を進めた。
午後も後半に入ると、更に送信されてくるデータが増えてきた。それに伴い、質問の数も増え、それを解決するために送信するメールの数も増えた。そして訂正を送信した人から、訂正をすませた旨のメールと共に書類が添付されてくる量も増えた。
忙しさが増したせいで尿意を感じている余裕もなくなったのか、律子達三人はしばらくトイレに立つ事はなかった。




