合流開始
空間に余裕のある日々はあっという間に過ぎた。遂にパーソナルスペースが侵される事態になる週に突入した。
どちらかと言うと、人と近いのは苦手な律子は久しぶりに出勤するのが億劫になっていた。
(そんな事じゃダメだ!)
夫の陽太にも冷たくあしらわれたのだ。母親すら、同情してくれなかった。いや、むしろ、母親の方が夫より厳しかった。
「あんたはいくつになったの!?」
結構なボリュームで説教され、娘の雪が、
「ママ、だいじょうぶ?」
心配して声をかけてくれたので、泣いてしまった。
「雪に慰められた事を恥ずかしいと思いなさいよ」
母親は容赦がなかった。
「はい……」
律子もそれは感じていたので、素直に返事をした。
会社に着いた。新しく入る人達は一時間遅れてくると聞いているので、まだホッとしている。
「おはようございます。いよいよですね」
野崎と小松が先に来ていた。二人も二人なりに、人数が現在の五倍ほどになるので、緊張しているようだ。
「どちらかと言うと、閉所恐怖症気味なので、ちょっと辛いかも知れないです」
律子が自虐気味に言うと、小松が、
「私も人混みは苦手な方なので、同じです」
「そうなんですか」
小松が自分に近い存在なのを知り、律子は少しだけ気が楽になった。
「私はそれより、トイレが深刻です」
野崎には別の問題があった。作業室には関達が運び込んだテーブルと椅子、そして新たに調達されたパソコンが五台ある。先週までは空間に余裕があったが、今は椅子と椅子の間が狭くなり、特に体格が大きい野崎に厳しい状況だ。
「取り敢えず、関さんにも話して、私はドアの近くにさせてもらったけど、作業が始まると、入口付近も混雑するから、油断はできないです」
野崎の問題は、律子や小松の問題よりも深刻だった。
「どうしても厳しいようだったら、大人用の紙おむつを装着しようかとも思ったんですけど、それも何だか恥ずかしいのでやめました」
野崎は自虐ギャグのように言い、力なく微笑んだが、
「恥ずかしくなんかないですよ。私、以前の仕事でトイレに不自由した時は、紙おむつ使いましたよ。むしろ、間に合わなかった時の方が悲惨だと思ったので」
小松が驚きの出来事を披露した。すると野崎は、
「小松さんは細いから、サイズがあるだろうけど、私はそもそも、サイズがないのよ」
苦笑いをして言った。
「そうなんですか」
小松は顔を引きつらせていた。律子も、野崎の体型だと、合う紙おむつはないかも知れないと思ったが、
「テープ式だったら、大丈夫じゃないですか?」
一応言ってみた。しかし、
「テープ式も考えてみたんですが、無理っぽいんです」
野崎はすでに全部考えてみたらしい。
「そうなんですか」
律子と小松は顔を見合わせてしまった。
「とにかく、混雑する前にトイレに行っておいて、水分を控えて、堪えるしかないです」
野崎は根性論を持ち出した。
「そうですか」
律子と小松は苦笑いするしかなかった。
業務を続けていると、関が新しい作業者を連れて入って来た。総勢十二人だ。自己紹介とかはスペース的にも人数的にも時間的にも余裕がないので、それぞれ会釈してすませた。テーブルは四つに分かれていて、一番奥には小柄な人が座った。年代もいろいろだったが、全員女性だったのは、皆ホッとした。
(男の人がいると、あまり頻繁にトイレに行くの、恥ずかしいっていう人もいるからなあ)
律子は、前の職場で、トイレを我慢し過ぎて入院した若い女の子を知っているのだ。
新たに加入した人達は、数日間、別室で律子達が作ったマニュアルを読み込み、どういう事が必要なのかを研修しているという事なので、今まで律子達がして来た細かな部分以外を受け持つ事になる。
「わからない事は、野崎さん、小松さん、神田さんにどんどん訊いてください。わからないままにしておくのが一番よくありませんから」
関は微笑んで皆を見回して告げた。
「では、よろしくお願いします」
関は律子達に言うと、作業室を出て行った。
「では、メールで送られて来ている申告書をプリントして、マニュアルに沿って訂正箇所を直していってください」
野崎がテキパキと指示を出す。流石に二年目なので手慣れている、と律子は思った。
部屋のほぼ中央に鎮座しているプリンターから次々に申告書が出力されて、各自に配付されると、一斉に訂正箇所の探索に入った。
「いいですか?」
少しすると、矢継早に質問が飛ぶ。野崎と小松が素早く対応し、それより質問が多くなると、律子が対応した。
「同じ質問が重なっているので、グループごとに質問をまとめてみてください。そして、一度質問した事は、必ずメモをして、情報を共有してくださいね」
小松が告げる。これによって、作業は随分効率がよくなった。
しばらくすると、ちらほら席を立つ人が出始める。トイレのようだ。野崎も立ち上がった。
「トイレは廊下だけではなく、階段を上がった休憩室の脇にもありますから、そちらも利用してください」
野崎が言い、作業室を出ていった。




