平穏な日々
次の週は取り立てて何もなく過ぎ、更にその次の週となり、遂に本格的に資料が大量に送信され始めた。
律子達は毎日それを開封し、中身をチェックして、訂正箇所を指示したメールをクライアントの従業員達に送り返すという日々を送っていた。
「目がショボショボして、肩が凝るゥ」
五十代と思われる野崎は頻繁に目薬を点し、肩を回している。律子はそれ程でもなかったが、肩が張っているのは実感していた。
「眼精疲労になりそうだわ」
野崎は目薬を小さなポシェットにしまいながら呟いた。
「集中し過ぎて、水分補給を忘れてました」
一番若い小松は疲れは見せていないが、水筒に入れた経口補水液を飲み干していた。
「数はかなり多いけど、まだ全体の十分の一にも達していないっていうのが、恐怖ですよ」
小松は苦笑いして言った。野崎も水筒の中身を飲み、
「本当だね。まだまだこれからなんだよねえ」
そして律子を見て、
「神田さんはあまり疲れた様子がないですけど、肩凝りとか大丈夫ですか?」
律子は右手で首の薄ろを揉んで、
「かなり来てます。明日あたり、首と肩が動かなくて、起きられなくなりそうな予感がしています」
野崎は大きく頷きながら、
「ですよねえ。ずっと同じ姿勢でいるから、エコノミークラス症候群になりそうな気がしてしまいます」
「少し動いた方がいいですよね」
小松が椅子から立ち上がり、脚のストレッチを始めた。
「ああ、これ、気持ちいいですよ。やってみてください」
小松に勧められて、律子と野崎も脚を伸ばした。
「ホントだ、気持ちいい! でも、やり過ぎると、アキレス腱切れそうで怖い」
野崎が言うと、小松は笑って、
「野崎さん、両足のアキレス腱を切ってるんでしたっけ?」
「テニスでね。それもほとんど立て続けだから、大変だったわ」
野崎は肩をすくめて応じた。
「私も足がよくつるので、水分をまめに補給しないと危ないんです」
律子は水筒の蓋を開いて言った。
「ああ、そうですね。私もこむら返りをやった事あるから、気をつけないと」
「何だか、病気自慢になってません?」
小松が言ったので、野崎と律子は顔を見合わせて笑ってしまった。
お昼休みになった。
以前は心配していた他の部署のおば様達の風当たりもそれ程強くなる事はなかった。
挨拶をしても無視する人はいたが、何か言ってくる事はなかった。関が朝礼等で注意してくれたかららしい。
そして何よりも、社長の草薙が長谷部の自宅を訪れて「真相」を解明したのが大きかった。
長谷部は噂の内容を全面的に否定して、自分は何もしていないし、発信源でもないと釈明したのだ。
草薙はそれを文書にしてもらい、長谷部の直筆のサインを入れたものを会社の広報の掲示板に張り出した。
しかも、長谷部が迷惑していると書き添えたので、おば様達は黙るしかなかったのだ。
「もし、長谷部さんが嘘を吐いているとしたら、今度はおば様達の怒りの矛先が長谷部さんに向かうかも知れませんね」
小松が弁当箱を片付けながら言った。野崎は、
「もうどうでもいいけどね。長谷部さんがどんな人だろうが、どうなろうが、もう関係ないって感じ」
彼女は一番長谷部との関わりがあったので、余計に悔しいのだ、と律子は思った。
「という事で、平穏無事な日々を送りたいので、戻りますか」
野崎は気まずくなったのか、そう言って最初に席を立ち、休憩室を出て一階へと階段を降りた。
昼過ぎも、大量に送信されて来ている資料の処理を続けた。いくらこなしても、それ以上に新しいものが届くので、減る様子が一向になかった。
しばらく作業を続けていると、関が顔を出した。
「いよいよ来週から、作業者が十名加わります。場所が手狭になりますが、うまく配分してください」
「はい」
関はおよそのテーブルと椅子の配置を描いた図面を三人に渡し、
「不都合がありましたら、随時変更してもらって構いませんので、まずはその形で始めてください」
「わかりました」
野崎が代表して返事をし、律子と小松は黙って頷いた。
「このサイズにこの人数は厳しいですね」
関が出て行くと、小松が言った。律子も図面を見て、
「一番奥にいる人、お手洗いとか大変になりそうですね」
「トイレが近い人は、入り口付近にしてもらわないと、惨事が起こるかも。私を含めて」
野崎が言った。思い起こしてみると、野崎は律子や小松の倍近くトイレに行っている気がした。
「ここの出入りだけでなく、トイレ自体が数が少ないですからね。今でも、おば様達と出くわしてしまうと、しばらく待たなければならないくらいですから」
小松はその時の事を思い出したのか、うんざりした顔になった。
「急ぐ人は休憩室の脇にあるトイレに行った方がいいかもね。あそこ、滅多に塞がっていないから」
野崎が妙案を言ったので、小松と律子はプッと吹き出した。
「確かに空いてはいますが、距離が倍以上ありますから、限界の人はやっぱり厳しいかも知れないですよ」
小松が笑いながら言ったので、
「そうかも」
今度は野崎と律子が吹き出してしまった。




