獅子身中の虫?
気分が晴れての翌日。金曜日。明日は休みだと思うと、更にテンションが上がる。
朝は夫の陽太が出張で早出だったので、律子も出勤までの時間ができた。
娘の雪を保育所まで送り、その足で駅へと向かった。
(仕事にも慣れてきたし、進捗状況も順調だし、ホッとできる)
律子は上機嫌で勤務先へ行った。
(あれ、早過ぎたかな?)
ロビーに入ろうとしたら、まだ自動ドアが作動していなかった。
「今、開けますね」
そこへ関がやって来た。
「おはようございます」
律子は申し訳ない気持ちになって頭を下げた。何だか急かしたみたいだったからだ。
「おはようございます。神田さん、昨日は本当にお疲れ様でした。あの後、クライアントからお礼の連絡がありました。社内でもトラブルメーカーで、始末に困っていたんだそうですよ」
関が嬉しそうに言うので、律子は、
「そうなんですか」
若干引き気味に応じてしまった。
「どうぞ」
関がドアのロックを解除して、自動ドアを作動させてくれた。
「ありがとうございます」
律子は会釈をして中に入ると、タイムカードに打刻をした。
「もう、あんなクレーマーは出現しないと思いますので、よろしくお願いしますね」
関は入ってすぐにある階段を上がって行った。律子はもう一度頭を下げてから、作業室へと向かった。
「ちょっと」
作業室のドアを開けた時、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには小松と口論したおば様がいた。
「おはようございます。何でしょうか?」
律子は微笑んで尋ねた。するとそのおば様は、
「貴女達、長谷部さんのお見舞いに行ったの?」
「え? お見舞いですか?」
意外な事を言われて、律子は思わずおうむ返しに尋ねてしまった。すると、そのリアクションにご機嫌を損ねたのか、
「知らないの? どういう神経しているの? もういいわ」
勝手に怒り出し、勝手に立ち去ってしまった。
(ええっ?)
律子は何が何だかわからず、ポカンとしてしまったが、
「おはようございます、神田さん。どうかされたんですか?」
小松が声をかけてくれたので、ハッと我に返り、
「長谷部さんのお見舞いに行ったのかって、訊かれたんです」
「はあ? どういう事ですか?」
後から来た野崎が言った。律子は簡単に事情を説明した。
「長谷部さんのお見舞いって、どこかの病院に入院しているんですかね?」
小松が言う。すると野崎は、
「例えそうだとしても、私達が率先してお見舞いに行く必要はないと思うわ。迷惑を被っているのはこっちなんだから」
「そうですよね」
小松が同意した。
「関さんに訊いてみましょうか?」
律子が言うと、
「そうですね。事情を把握していないと、また言いがかりをつけられそうですから」
野崎が神妙そうな顔で応じた。
三人は作業室に入り、昨日の続きを始めた。
しばらくして、関がプリントを何枚か抱えて入って来た。
「おはようございます」
野崎は挨拶もそこそこに、すぐに長谷部の事を切り出した。
「もうそんな話が出回っているのですか?」
関はうんざりしたような顔になった。
「長谷部と公私共に仲が良かった女性が何人かいて、あれこれ長谷部から聞き出しているみたいなんですよ。その中で、まだ次の仕事が決まらなくて、体調も悪くなっていると言われた人がいるらしいのですが、長谷部がそう言ったのか、その人が勝手に解釈したのかわからないのですが、弊社から嫌がらせをされていると触れ回っているみたいなんです」
律子達はあまりの内容に唖然とし、互いに顔を見合わせた。
「とにかく、長谷部の件は貴女方には一切関係はないし、責任もないので、取り合う事なく、業務を遂行してください。何かあったら、私に連絡をください」
「はい」
律子達は声を揃えて応じた。関は持って来たプリントを三人に手渡して、
「クライアントから、よくある質問のテンプレートをいただきましたので、それをお渡ししておきます。その辺りの質問に関しては、クライアント内で収めているようなので、それ以外の問答集みたいなものを作ってみてください。用意してあると、答えが簡潔になって、時間もかからなくなると思われますので」
関は三人を見渡してから、
「では、よろしくお願いします」
作業室を出て行った。
「またおばさま達がざわついているって、嫌ですね」
小松が身震いしながら言った。野崎は、
「昨日も言ったけど、相手にしないしか、方法がないと思うわ。言いたい人には言わせておけばいいのよ」
プリントをめくりながら応じた。
「そうですね」
律子もそうするしかないと思った。
律子達は気持ちを切り替えて、作業に入った。
テンプレートはかなりよくできており、それ以外の質問はあまり考えられなかった。
「後は考えられるとすれば、配偶者の方の所得見積額ですね」
小松が質問内容をチェックしながら言った。野崎は頷いて、
「多くなりそうな質問はそんな感じね。神田さんはどうですか?」
「後は、扶養控除等申告書と配偶者特別控除申告書の整合性ですかね?」
「ああ、そうですね」
野崎と小松が異口同音に応じた。




