一件落着
翌日、律子は不安を抱えたままで出勤した。夫の陽太にも愚痴を言えなかっため、モヤモヤしたままなのである。
「おはようございます」
タイムカードに打刻した時、奥から関が顔を出した。
「おはようございます。神田さん、ちょっといいですか?」
関に言われて律子はビクッとしながら、入ってすぐのところにある総務部の一室に行った。
「神田さんも不安だったでしょうが、ようやく解決しました。あの録音が決定的な証拠になって、例のクレーマーが警察に逮捕されました」
関から告げられたのがあまりにも意外でショッキングな内容だったので、律子はポカンとしてしまった。
「え? 逮捕されたんですか、あの人?」
「はい。あの人物は、クライアントでも問題をたくさん抱えていたのだそうです。数多くの部署で泣き寝入りをしていた人がいて、何とかならないかと総務の皆さんも困っていたらしいんです」
「はあ」
関は嬉しそうに話すが、律子は別の不安を抱えていた。
「いろいろと脅迫まがいの事を繰り返していたそうなんですが、昨日の録音が決定打になって、クライアントの上層部も思い腰を上げたという事です。非常に感謝されてしまってちょっと戸惑いました」
関は得々と話しているが、律子はそれどころではなかった。
(逮捕されたからといって、永遠に刑務所の中という訳ではないし……)
すると関がそれを見透かすかのように、
「逆恨みされたらどうしようと思っていますか?」
「ええ、まあ……。まさか、終身刑とかにはならないでしょうから、また出てきますよね?」
律子は探るような目で関に尋ねた。すると関は微笑んで、
「心配要りません。当該の人物の住所は北海道です。そして当該人物は弊社の住所と電話番号は知っていますが、相談の電話は今回限りの番号で、次回からは変更します。それに貴女の個人情報はすでに知られてしまっている氏名以外一切漏らしませんから」
「はい」
まだ一抹の不安は拭い切れないものの、律子は一応納得した。
「では、今日もよろしくお願いします」
関に言われて律子はペコッと頭を下げて、
「ありがとうございました」
礼を言うと、総務を出た。
「おはようございます」
ちょうどそこへ野崎と小松が入ってきた。律子はクレーマーの逮捕の話をした。
「なるほど、それはよかったですね。これでもう二度とかかってこないんですね」
小松は安堵した表情で言った。野崎も、
「神田さんに貧乏くじを引かせてしまったって、私も小松さんも申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、ホッとしました」
三人は揃って作業室に行き、早速業務に取りかかった。
しばらくして、関が書類を抱えてやってきた。
「次の作業に入っていただくために、クライアントから送られてきたデータを打ち出しました。内容に不備がないか、確認をお願いします」
関は抱えていたコピー用紙を懐疑テーブルの上に置いた。
「それから、電話の相談は終了する事にしました。その代わり、専用のメールアドレスを設定して、そこに質問を送るようにしてもらいますので、これからは先方の従業員の方と直接話す事は極力なくなります」
関の説明に律子だけではなく、野崎も小松も苦笑いをした。
「では、よろしくお願いします」
関は作業室を出て行った。
「結構な件数が来ていますね。やりがいがありそうですよ」
小松が言うと、野崎が、
「去年よりペースが早いかもね。こう言ったら悪いけど、長谷部さんがいたら、もっと遅くなっていたかもしれないね」
小松はクスッと笑って、
「そうですね。長谷部さん、万事がスローでしたからね」
「そうなんですか」
律子は苦笑いして応じた。
三人は書類を手分けして、中身の検討を開始した。
年末調整の事を熟知している三人から見ると、想像を絶するような書き方をしているものがたくさんあった。
(確かにやりがいがあるわ)
律子は小さく溜息を吐いて思った。
「あ、もうお昼だ」
野崎が顔を上げて時計を見た。
「充実していますね。時間が経つのが早いですよ」
小松は首が凝ったのか、トントンと叩きながら言った。
三人は作業室を出て、ロッカーから弁当を取り出すと、二階の休憩室へ行った。
「お疲れ様です」
そこへ、会議室から出て来た草薙が声をかけた。
「お疲れ様です」
三人は揃って挨拶を返した。草薙は律子を見て、
「神田さん、大変でしたね。今後のケアは間違いなくしていきますから、安心して仕事をしてください」
「ありがとうございます」
草薙は微笑んで階段を降りて行った。
律子達は手早く昼食を摂ると、他の部署のおば様達が上がってくる前に休憩室を出て、作業室で寛ぐ事にした。
「鉢合わせしなくなって、こっちもホッとしています」
おば様に食ってかかった小松が言うと、律子は意外に思ってしまう。
「あの人達は、パートだけど、私達と違って正規だから、派遣社員を下に見ているのよ。無視するしかないよ」
野崎が水筒のお茶を一口飲んで言った。
「そうですね。気にしない方がいいですよね」
小松がそう応じたので、律子は頷いて応じた。




