想像以上に難しい
翌日。差し当たっての不安がなくなったので、律子は晴れ晴れとした思いで出勤した。
「おはようございます」
小松と野崎がタイムカードに打刻しているところだった。
「おはようございます」
小松と野崎もにこやかだ。律子はホッとした。
三人が揃って作業室に行くと、電話機が設置されていた。
「おはようございます」
そこへ関がやってきた。
「電話機はすでに使えるようになっています。一点だけ、お伝えしなければならない事があります」
関が言いづらそうな顔で告げたので、律子達は顔を見合わせた。
「実はクライアントの方で今日から電話による問い合わせを開始すると通知してしまったようなので、質問の電話が入るかも知れません」
「ええっ!?」
想定外の事を言われて、律子達は思わず叫んでしまった。
「問い合わせと言っても、苦情が入る訳ではないので心配しなくて大丈夫ですよ」
関は三人を見て言ったが、小松が、
「でも、昨年も初日にクレーマーのような人が電話をしてきて、大変だった気がするのですが?」
その話を関は知らなかったようで、
「そんな事があったのですか? 記録に残っているでしょうか?」
すると野崎が、
「電話を受けたら、内容と答えた事、お相手の所属とお名前を書いていたはずですから、残っているはずです」
しかし、双方とも不安があった。
長谷部がそれを保存しているかどうか、野崎と小松はもちろん、関もわからないのだ。
「それについてはこちらで探しますので、大変申し訳ないのですが、電話の対応をお願いします」
関は作業室を出て行こうとしたが、
「誰が受ければいいですか? もちろん、経験がある私か小松さんが先に受けて、神田さんを最後にしようとは思いますが」
野崎が呼び止めるように尋ねた。関は振り返って、
「野崎さんと小松さんのどちらかが先に受けるのでいいと思います。その順番はお二人に任せます。手に負えないようでしたら、内線の十七番にかけてください。それが私の電話です」
「わかりました」
関が最後が引き受けてくれると知り、野崎と小松は安心した顔になった。
「よろしくお願いします」
関は作業室を出て行った。
「クレーマーって、どんな感じだったんですか?」
律子は声を低くして尋ねた。野崎は溜息混じりに、
「どうして年末調整をしなければならないのかと延々と文句を言ってきたんです。長谷部さんに対応してもらったのですが、確か、三十分くらい話していたと思います」
「そうなんですか……」
自分の番にその人がかけてきたらと思うと、律子は眩暈がしそうになった。
「それも一回じゃなかったんですよ。その次は書類を提出したくないだとか、個人情報をあなた達に教えて大丈夫なのかとか、もう嫌がらせとしか思えない事を言ってきました」
小松もうんざりした顔で言う。それに相槌を打った野崎が、
「最終的には長谷部さんがクライアントの総務にその人の所属と名前を報告して、そちらに任せたはずです」
「心を入れ替えていないですかね?」
律子が望み薄の事を言ったが、
「その人はクライアントでも古株で、毎年そんな事をしているらしくて、あちらの総務でも若い人は逆にやり込められてしまうみたいですから、今年も降臨するんじゃないですか?」
小松が否定した。律子は顔を引きつらせた。
「いずれにしても、ごねたら関さんにお願いしましょう。私達の仕事の範囲外ですから」
野崎はパソコンを起動させながら言った。
「そうですね」
律子と小松もパソコンを起動させながら応じた。
それからしばらく、電話が鳴る事もなく、律子達はマニュアルの更なる検討を進めていた。
「来た!」
電話が鳴り、野崎が応対した。内容は申告書の書き方の問い合わせでクレーマーではなかった。
野崎がホッとして受話器を戻すと、また鳴った。今度は小松が出た。内容は申告書の入力画面が見つからないというものだった。
「入力については本社の総務部様にお問い合わせください」
小松はにこやかに対応して受話器をそっと置いた。
(嫌な予感……)
野崎、小松と続けて本命には当たらなかったので、律子はどんどん不安になっていった。
しかも、電話はパッタリと鳴らなくなり、静かな時が過ぎていく。
(このインターバル、プレッシャーだ)
律子は脈拍が通常の倍くらいになっている気がしてきた。
「きゃっ!」
電話が鳴った時、悲鳴をあげてしまった。呼吸を整えて受話器を取った。
「毎年思うんだけどさ、どうして年末調整をしなくちゃならないんだよ?」
当たってしまった。律子は全身から汗が噴き出すのを感じた。野崎と小松も律子の異変に気づき、彼女を見た。
「年末調整はその年の所得税を計算するために必要なものでして……」
律子は噛まないようにゆっくりと説明を始める。ところが、
「そんな事を聞いているんじゃないんだよ。俺が言いたいのは、官僚達がだね……」
唐突に行政の批判、そして政府の批判、果ては政党の批判まで飛び出して、話が完全に関係ない方向へと走り出してしまった。
律子はパニック寸前になっていた。




