感染はどこまで?
関は律子達を席に着かせてから、
「草薙がインフルエンザに感染したのは子供からのようです。幸い、子供も草薙も重症化はしておらず、自宅で療養していますが、いつ感染したのかによっては皆さんにも広がっている可能性が否定できないので、弊社の指定病院で診断を受けていただく事になるかもかも知れません」
律子はそれを聞いて蒼ざめた。もし自分に感染していて、一人娘の雪や夫の陽太、更には実家の母親にも移しているとしたら大変だと思った。
「社内には今まで以上に手洗いとうがい、マスクの着用を徹底してもらう事になります。皆さんにもこちらで準備したマスクを使ってもらいます」
関は後から入ってきた女性が持ってきた大きな箱入りのマスクをテーブルにおいた。そして中から透明な袋に入れられたマスクを一袋ずつ三人に手渡した。
「マスクは毎日替えてください。それからご家族にも連絡して、高齢者の方、あるいは乳幼児の方は早めに病院に行くように伝えてください。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
関は頭を下げると、女性と共に作業室を出て行った。律子達はそれをタイミングのようにマスクを取り出して着けた。
「家に連絡しないと」
野崎は年老いた母親と同居しているそうで、普段から病気がちなので心配のようだ。すぐに席を立つと、ロッカーへと向かった。
「私は一人暮らしで誰とも接触していないから、拡大の心配はないです」
どこか寂しそうな小松が苦笑いして言う。律子は気まずそうに、
「私も母に連絡してきます」
作業室を出た。ロッカーのところまで行くと、野崎はまだスマホで母親と話していた。
律子はロッカーからショルダーバッグを取り出して、スマホを出すと、母親の携帯に連絡した。
「どうしたの、こんな時間に?」
まだ就業時間が始まって三十分も経っていないので、母親は律子に何かあったと思って驚いていた。
律子が事情を説明すると、
「わかった。すぐに雪をお迎えに行って、二人で検査を受けてくるよ。結果はメールで送るから、あんたは仕事に集中しなさい」
「ありがとう」
律子は次に夫のスマホにメールを送った。可能性は低いけど、結果次第では検査を受けて欲しいと。
「仕事に来られるのはありがたいんだけど、感染のリスクを考えると、大きな会社って怖いですよね」
野崎はようやく母親を落ち着かせ、その後で離れて暮らしている兄に連絡を取り、事情を説明して通話を終えたところだった。
「そうですね。こればかりは、誰が悪いという訳ではないですからね」
律子はスマホをバッグに押し込みながら応じた。すると、別の部署の一団がロッカーに押し寄せてきた。
律子と野崎は慌てて隅に寄り、その場を離れた。彼女達もマスクを着用しており、何故か律子達を怯えるような目で見て、ロッカーからバッグを取り出し始めた。
「まさかとは思うけど、私達が感染源だと思っているのですかね?」
作業室に戻ってから、野崎が言った。
「あり得ますよ。あのおば様達、私達が社長に媚を売っているって思っていますから」
小松が同意した。
「まさか……」
律子は顔を引きつらせて呟いた。
「私達が感染しているとしたら、それがいつなのかによって、あちこちにばら撒いてしまった可能性もありますよね」
小松が口にすると、野崎が、
「母が騒ぎ出したので、かかりつけのお医者様に往診を頼んできたわ。普段からマスクを使っているから、私から感染する可能性は低いと思うけど、推測で動くのはまずいしね」
「そうですね」
律子と小松は異口同音に応じた。
「とにかく、やる事をやりましょうか」
野崎が言ったので、小松と律子は頷き、席に戻って書類のチェックを始めた。
お昼休みになると、関が顔を出し、
「午後は、そのまま病院に行っていただきます。草薙が感染したのはおとといの可能性が大きいらしく、その前後で一番多く接触したのが、役員達と私、それから皆さんですので、一番先に検査を受けてもらいます。その他の部署は、私達の検査の結果を受けて、随時実行していく事になります」
「わかりました」
律子達は急いで昼食を済ませるために休憩室に行った。不思議な事にいつもはごった返しているはずなのに、誰もいなかった。
「私達と近づきたくないから、違う場所で食事をしているのかな?」
野崎がおどけて言った。律子と小松は笑ったが、
「聞き耳を立てられているよりはいいですよね」
小松が言ったので、今度は野崎が笑った。
三人は手早く食事をすませると、玄関に向かった。律子はロッカーからバッグを取り出して、スマホを出す。
予想通り、母親からメールが届いていた。
「感染していないらしいよ。明日、念のためもう一度別の病院に行ってみる」
石橋を叩いて渡る性格の母親らしいと律子は思った。
インフルエンザは感染直後だとウィルスの数が少ないため、陰性になる場合があるのだ。
「ウチの母も感染していないようです。業務中は出られないって何度も言ってあるのに、すごい数着信履歴があって」
野崎は呆れ顔で言った。




