斜め上をいく展開
小松から聞かされている事と真逆な事を野崎に言われ、律子は混乱していた。
(どっちが正しくても、ややこしくなる)
職場がぎくしゃくするのが一番困ると思った律子は、どうするべきなのか考えようとしたが、
「私が早退した時、小松さんから真逆の事を聞いていますよね?」
野崎が苦笑いしたままで言ったので、
(終わったー!)
律子は脳内で終了宣言を発してしまう程驚いた。野崎は律子の表情で答えを知ってしまったようだった。
「やっぱり。だから昨日、早退したくなかったんだ……」
野崎の顔が心なしか寂しそうに見えた律子は、
「えっと、どういう事ですか?」
すると野崎は運ばれて来たコーヒーを一口飲んでから、
「去年も、小松さん、同じ事をしたんです。その時は、私も他の人達と関わるのが嫌だったので、同調していたのですけど、今回は、神田さんが好い方なので、心苦しくなって……」
野崎の話によると、昨年の業務では、今年より大人数の派遣社員が集まったという。
その中に仕切り屋の男性がいて、担当の長谷部を差し置いて、あれこれ業務を取り仕切り、グループ分けをしてしまった。
それに堪りかねた小松が野崎を誘って、他の派遣社員との関わりを遮断した。
そして、仕切り屋の男性と距離を置きたがっている人に対して、律子にしたのと同じ話をしていたという。
その話を野崎に告げ口した人はそれ以降は関わらない事にした。結局、仕切り屋以外の全員が、野崎に告げ口をして、小松の「お眼鏡」に適う人はいなかった。
「それに比べて、神田さんは小松さんから聞かされた話を私には言わずにいてくれたので、もうこの関係はやめにしようと思ったんです」
野崎がそこまで話すと、律子は少しだけホッとした。
「呆れましたよね?」
野崎が伏し目がちに言うと、律子は、
「いえ、全然。やり方は少し感心できませんが、打ち明けてもらえて嬉しかったですよ」
嘘偽りなく思った事を口にした。すると野崎は、
「ありがとう、神田さん」
そのふくよかな両手で律子の右手を包み込んだ。彼女の目から涙がこぼれたのを見て、律子もウルッと来てしまった。
「貴女の事は、私から小松さんに話して、明日からは普通の関係になれるようにします。今日はありがとうございました」
喫茶店を出る時、野崎に言われた律子は、苦笑いをして、
「いえ、こちらこそありがとうございました」
礼を返して、その場は別れた。
そして、翌日。律子は夫の陽太を送り出して、一人娘の雪を保育園に送り届けると、派遣先へと向かった。
(昨日と違って、清々しい朝って感じがする!)
一日目、二日目と職場に漂っていた空気が、今日は変わってくれると思った律子は、スキップを踏みそうになるのを我慢して、駅の改札を通り抜けた。
ところが、律子の願いは会社の車寄せで脆くも崩れてしまった。
「神田さん」
玄関の前まで行くと、中から社長の草薙が血相を変えて飛び出して来た。
「おはようございます。何かあったのですか?」
律子は草薙の表情を見て非常に嫌な予感がして尋ねた。草薙は泣きそうな顔をして、
「長谷部が辞表を出して、そのまま帰ってしまったそうなんです」
「えええ!?」
予想の遥か上をいく驚愕の答えに、律子は大声を出してしまった。
そこへ野崎と小松が現れた。二人も、草薙と律子の表情を見て、只ならぬ気配を察したのか、
「何があったんですか?」
小松と野崎が異口同音に尋ねた。そして、草薙の口から、長谷部がいきなり辞表を出して帰宅した事を聞き、唖然としてしまった。
「一体どうしてなんですか?」
小松が草薙を見た。しかし、草薙は力なく首を横に振り、
「長谷部は一身上の都合としか言わず、辞表にも理由は書かれていなかったそうです……」
小野は野崎と顔を見合わせた。
「とにかく、彼が担当していた仕事は、私達が引き継いで、貴女方に支障がないようにします。取り敢えず、作業室に行って、待機してもらえますか?」
草薙はそれだけ告げると、よろけるようにして、中に入って行った。
「無理ですよね」
小野が独り言とも質問ともつかない言葉を発した。
「まだ時間はあります。できる事をするしかないですよ」
律子は小野を宥めるように言い、野崎に目配せして、三人で作業室へ向かった。
律子達が手持ち無沙汰にしていると、草薙が一人の年配の男性と共に入って来た。
「この人が、長谷部の直属の上司の関です。彼が主に長谷部の業務を引き継ぎます。この二日で、長谷部が皆さんに説明した事を話していただけますか?」
草薙が言った。
「よろしくお願いします」
関が頭を下げて挨拶した。
「関さん、よろしくお願いしますね」
草薙はそこで退室し、それを見届けた関が昨日まで長谷部が座っていた椅子に腰を下ろした。
「では、長谷部がどこまで説明をしたのか、お話いただけますか?」
関は律子、小野、野崎の順に顔を見て告げた。三人はそれぞれ、長谷部に言われた事を話した。すると、関の顔が硬直していくのがわかった。
(何だろう?)
律子の不安の虫がまた泣き始めた。




