五里霧中状態
野崎と小松の剣幕に圧倒されている長谷部。律子も長谷部を擁護する事ができず、彼はただただ、野崎と小松の質問責めに追いつめられていく。
「はっきりしてください、長谷部さん。そんなあやふやな事では、業務の遂行に大きな支障が出ます」
野崎は鼻息を荒くして長谷部に更に詰め寄る。小松も席を立ってテーブルを回り込み、
「そうです。頼りのシステムは絶望的、要のパソコンは納入予定がわからないでは、私達はそれまで何をしていればいいのですか? 教えてください」
後退りしていく長谷部に背後から迫った。
(怖い)
律子は何も発言できずに顔を引きつらせている長谷部を見ているだけだ。
「と、とにかくですね、パソコンの方は、できるだけ早く納入してくれるようにリース会社に催促します。パソコンが届かないと、インストールもできませんから、主な作業が全て滞ってしまいますので」
長谷部は野崎と小松を交互に見ながら、必死になって弁明している。
(まだ二日目なのに、どうしてこんなにピリピリしているのだろう?)
前年度がどんな状態だったのか知らない律子には、もう一つピンと来なかった。
「と、取り敢えず、本日の予定を進めさせてください。お願いします」
長谷部はペコペコ頭を下げて、野崎と小松を説得した。二人は顔を見合わせてから、ほぼ同時に溜息を吐いた。野崎は椅子に座り、小松はテーブルを回って自分の席についた。
その後に始まった研修は、実に淡々としたものとなった。「給与所得者の保険料控除申告書兼給与所得者の配偶者特別控除申告書」の内容の検証は読み合わせるだけのような状態で、改善点や注意点は全く挙げられなかった。小松も野崎も、すっかりモチベーションが下がってしまったようだ。律子も提言したかったのだが、場の空気がそれを許さない状態になっていたのだ。
こうしてその日の業務は、非常に気まずい雰囲気のままで終了してしまった。
(明日はどうなってしまうのだろうか?)
律子は大きな不安を抱えたままで、ロッカーに向かい、ショルダーバッグを取り出すと、ほとんど中身を飲む事がなかった水筒を入れ、右肩に提げた。小松と野崎は特に何事もなかったかのように会社を出て行ってしまった。
(小松さんが私に喋った事が野崎さんに知られた訳ではないのかな?)
野崎と小松の様子を見る限り、二人が仲違いしたとは思えなかった。小松が律子を睨んでいたような気がしたのは完全に律子の思い過ごしだったようだ。
(取り越し苦労だったみたい。でも、よかった)
ホッとした律子はタイムカードを打刻して会社を出た。
「神田さん、お疲れ様です」
すると、車寄せの柱の陰から野崎が現れた。律子はもう少しで悲鳴をあげてしまうところだった。
「お疲れ様です」
律子は顔を引きつらせて応じた。
「立ち話も何ですから、そこの喫茶店に入りませんか?」
野崎が言った。律子は、
「母が待っているので、早く帰りたいんです」
そう言いたいのを堪えて、
「わかりました」
作り笑顔で応じた。
「ありがとうございます」
野崎が微笑んだので、律子はまた少しだけ怖くなった。
(小松さんがいないところで二人で話すのって、ちょっと後ろめたくなる)
そもそも、律子に先に話をしたのは小松である。その小松の話と同じ事を野崎が言ってきた。どちらの話が本当なのかは、律子には判断がつかない。
律子は母の携帯にメールで少し遅くなると伝えた。
「ごめんなさいね、神田さん。小さいお子さんがいらっしゃるのでしょう?」
喫茶店の席に着くなり、野崎が言った。律子は面食らってしまった。
(あれ? どうして知っているんだろう?)
「派遣会社の営業の人から聞きました。だから、帰りに飲みに誘ったりしないようにって」
野崎はバツが悪そうな顔で言った。
「そうでしたか」
律子は担当が個人情報を漏らすなよと思ったが、そこは笑顔で応じた。
「神田さんもお忙しいでしょうから、手短にお話ししますね」
野崎は注文を終えると、すぐに言った。律子はハッとして居ずまいを正した。
「私達、他人と関わるのが上手にできないと担当の人から聞いていますよね?」
野崎の質問に「はい」と答えていいものか、律子は戸惑った。すると野崎は苦笑いをして、
「それ、違うんです。実はわざとそうしているだけなんです。それをお詫びしたくて、お昼休みにも呼び止めたんです」
「そうなんですか」
律子はまたドキドキしてきた。
(この展開だと、小松さんの言っていた事が真実ではないという事になる)
律子の心臓の鼓動が野崎に聞こえてしまうくらいになった時、
「実は他の人との関わりをできるだけ持たないようにしたいから、そうしてくれって、小松さんに言われたんです」
やっぱり! 律子は心の中で叫んだが、顔には出さないように努力した。
「でも、堪えきれなくなってしまって、神田さんに打ち明ける事にしました」
野崎がそこまで話すと、律子は酷く困惑した。
(全く反対の話……。どういう事なのよ……?)
律子は心臓が破裂しそうな気がした。




