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おとなりさん  作者: 空中
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はじまりの肉じゃが

夜の帳が街を覆う。この地の中心地ともいえる街は深夜に差し掛かる時間にもかかわらずまだ明かりが見えるが、郊外に無合えば向かうほど灯火は減っていく。

すっかり闇に包まれた住宅街、暗い夜道を車のライトが走る。とあるアパートの駐車場に滑り込んだ赤い外装に真ん中に白いラインの入った車は、随分洗車に行っていないのか、かなり煤けていた。

駐車場に止まった車はすぐにエンジンを落とすが、そのまま時が止まったかのように動かない。運転手のまだ若い女性は力尽きたかのように手をハンドルからパタリと下ろす。

――息を吐いて、体の力を抜けば、容易く闇に沈んだ。エンジンの止まった車は急速に熱を失い、静寂が冷たい鉄の箱ごと覆う。時間は深夜一時前。背凭れに体を預けて瞼を閉じれば、じわじわと体に疲労感が伸し掛かる。このままこの重みに身を任せて眠ってしまいたいが、緊張が解けると不思議な事に、空腹を感じた。

空っぽの胃袋が何でもいいから寄こせと蠢く。小さく鳴ったお腹を押さえて神妙な顔をした巴は、小さく息を吐いて体を伸ばした。パキパキと固まった体を鳴らして解すと、鞄を手に取り車を出る。

三月の風はまだ冷たい。春と呼ぶにはまだ早い静かな風が、彼女の眠気を攫った。出勤時間まであと六時間半。手際よく寝てしまおうと、アパートの表へと足早に回った。



駆け出し社会人だった時にはそれなりに頑張っていた自炊も、一年経つ頃にはすっかりいいかげんになってしまっている。インスタント麺のパッケージが詰まったゴミ袋を見て、なんとも言えない気持ちになってしまった。忙しさにかまけてご飯を炊く以外しなくなったのはいつからだろう。ここ最近はそれすらない。そろそろお米が恋しく感じながら、よっ、と袋の口を絞めた。

巴が学校を卒業して働きだすと共に住み始めたこの町は、毎週火曜日と金曜日がゴミ出しの日だ。ごみの分別は非常に大雑把なのが、ここのありがたい所だ。おかげで大抵のものは燃えるごみとして出せる。

ゴミを玄関に置くと、戸締りを確認する。2DKの一人暮らしには広すぎるこの部屋も、ここ最近は寝に来るだけだ。今週末こそはゆっくりしたいなぁ、と疲労を引き摺る身体を叱咤して、玄関を開けた。

「あ、おはようございます」

「あ、お、おはようございます」

凛と澄んだ低い声が聞こえた。左隣を見れば黒髪の涼やかな少年が扉の施錠をしている。

春へ向かい柔らかさが増している空気だというのに、この少年を見ると巴は冬の夜を思い出した。梢を揺らす森閑たる冷たい風に響く葉音の美しい景色を思わせる容貌は、初めて会ったとき一瞬言葉を失わせた。

少年は薄い笑みと共に頭を軽く下げると、サラサラの髪が頬を撫でる。そのままさらりと髪を揺らして、彼は一足先にゴミ収集場に向かった。

左隣の家は母親と小学生の少年の二人暮らしだ。母親は多忙らしく滅多に見ないが、少年は朝の出勤の際によく顔を合わせた。それもなんだか久しぶりに見た気がした。もうすぐ世間は春休みなのだろうか。細身の彼の背にある黒いランドセルが眩しい。

「気が付いたら桜も散ってそうだな……」

それまでには仕事も落ち着いていて欲しい。若干遠い目を浮かべて歩き出す。先に行った少年は、近所のおばあさんと談笑していた。それを横目にゴミを出すと、そのまま車に乗り込む。

去年は自分も彼と同じ学生だったというのに、たった一年で何が変わってしまったというのか。羨んだところで社会人にあの頃のような休みは戻ってこない。はあ~、と深い溜息を吐くと、エンジンを入れる。発進した車を見送るように、少年の涼やかな目が流し見ていた。



巴の仕事は八時半の始業と共に始まり、十七時半の終業と共に終わる。通常であれば。

街で一番大きいビルはとある大企業の物だ。その中にあるIT部門の事務所の一角で、無心でキーボードを叩く彼女の姿が。

「……帰りたい」

「まだ始業すらしてないですよ」

珍しく余裕を持って出勤した上司が突っ伏する。既に仕事を始めている巴は彼を一瞥すらせず、キーボードを鳴らしていた。

「……昨日も遅かったのに頑張るねぇ?まだ始業前だよ?」

「今日こそ!早く!帰る為!!です!!!」

画面から目を離さずにグワッと険しい顔をした彼女に、上司は若干身を引いた。

「明日リリースだっけ?」

「そうですよ~」

一区切りついた巴はこめかみを揉む。このコンタクトを使い始めたのはいつだったか。使用期限の二週間はとっくに超えているに違いない。

入社して半年ほど経った頃、漸く仕事のイロハを覚えた彼女に舞い込んだプロジェクトは、当初四ヶ月で終わる予定だった。その時点でもまだ新卒の自分には荷が重い仕事だったのだが、結局伸びに伸びたプロジェクトが終わったのは三月も終わり、つい先日の事だった。この半年でどれだけ残業と休日出勤をしたか。考えたくない。

思い起こせば自炊をしなくなったのも、このプロジェクトに携わってからだ。落ち着いたら久しぶりに凝った物を作ろう。そうしよう。肉じゃが食べたい。

こういう業界だと専門学生時代から覚悟していたが、まさか一年も経たないうちから日付を跨ぐ帰宅が当たり前になるとは思わなかった。当然休暇を取る余裕があるわけもなく、この一年は遠出もしていない。いい経験にはなったものの、心が疲弊してしまう。

今日のリリースが無事に終われば暫くは軽い案件ばかりだと約束してもらっていた。久しぶりに羽を伸ばすのもいいかもしれない。溜まりに溜まった残業代は食費にへと消えていくばかり。こんな日々では食事くらいしか楽しみがないのだから仕方ないが、少し切なかった。

「……」

「どったの?」

突然神妙な顔で脇腹を摘まむ巴に、上司は訝しむ。

「いえ、太ったなぁ、と……」

「だいたいの新人は一年経つとそう言うよ……」

食事の前に運動か。一年前とは違う弾力に心荒む巴を慰めるように、始業のチャイムは鳴った。



駐車場に車が滑り込む。時間は夜の十一時前。昨日よりは早く帰れたはずなのに、煤けた車はより一層草臥れて見えた。

エンジンは止めたが、まだハンドルから手を下ろさない。身を屈めるとそのまま顔を埋めた。

始業前から必死の形相で取り組んでいたのは、業務で疎かになっていた自社の雑事。教育に資料作りと、新人は何かと忙しいのだ。結局こんな時間まで残る羽目になってしまった。

のろのろと顔を上げる。明日も仕事だ。早く帰れたのならば、早く寝よう。

荷物を手に取り重い足で玄関に回る。鍵を開けて玄関に入り施錠して。機械的な動きはすっかり習慣化されたもの。鞄を放るとジャケットを脱ぐ前に鍋を手に取る。お湯を沸かしている間に着替えや化粧を落とした方が効率がいいのだ。

はあ~、と深い溜息を吐きながら蛇口を捻って、ハタと気付く。急いで栓を締めると、台所下の収納を勢いよく開けた。

収納は二段になっており、上の棚には買い置きのインスタント麺が籠に入っている。けれど取り出した布の籠の中は空っぽ。昨日最後の一つを食べたことを思い出した。

「……買いに行かなきゃ」

しかし郊外であるこの辺りの店が閉まるのは早い。一番遅くまで開いているドラッグストアの閉店時間もとうに過ぎていた。車を出すのもしんどい。

巴は鍋を水切りに置くと、放り投げた鞄から財布を取り出す。大きく肩を落としながら再び靴を履くと、チェーンまでしっかりかけた扉を開いて、また夜道へと繰り出した。



住宅街となっている為か、コンビニまで徒歩約五分の道のりは意外と街灯がある。しかし小道に入ってしまえば、いくら街灯があるとはいえ薄暗かった。

もっと早くに気付いていれば、仕事帰りに寄っていたのに。更に感じる疲労感に巴の足は重くなる。せめてもの慰めに携帯に繋げたイヤホンを嵌めると、アップテンポな曲を聴き始めた。

サビに入ろうかというところでコンビニが見えてきた。日付を越えるまであと三十分という時間のコンビニには、意外と客がいる。聞き慣れた扉の音を音楽越しに聴きながら、カゴを手に取りアイスコーナーへ向かった。

どうせコンビニに来たのならば、甘い物でも買おうと思うのは当然の摂理だった。ガラス越しにケースの中を見て真新しい物がないことを確認した巴は、そのままコンビニスイーツと弁当が並ぶ棚に向かう。スイーツが並ぶ列にははじめて見る物があった。

透明なゼリーの上に生クリームとあんずが盛り付けられたそれをカゴに入れて、今度は弁当棚をぐるりと見渡す。さすがにこの時間は品数が少ない。選べるほどの種類もなく、仕方なしにスパゲッティを手に取った。

ついでに栄養ドリンクも買うかと一度通り過ぎた薬棚へ向かおうとして、一瞬足を止める。

薬や生活用品棚の一つ前の通路、文房具が並ぶコーナーの前に見知った顔がいた。それが見間違いでないことを確認して、通り過ぎる。角を曲がると同時に奥にある時計を確認した。――やはり、小学生の出歩く時間ではない。

巴より少し背の低い少年の姿は、棚越しでは見ることは出来ない。しかしあそこにいたということは、急に文房具が足りなくなって買いに来たのだろう。事情は察する事が出来るが、何もこんな時間に来なくても。危ないではないかと老婆心ながらに思ってしまう。

しかし交流のない只のお隣さんが口出しするのも差し出がましく、巴はううん、と暫し考えて、栄養ドリンクを籠に放り込んだ。そのままレジに向かうとちょうど少年も会計をはじめたところで、目が合った二人は小さく会釈する。

「こんばんは」

「あ、こんばんは」

相変わらず育ちの良さが伺える、凛として落ち着いた声だ。ぎこちなく少年の後ろに並ぶ。彼はすぐに会計を終えると、去り際にもう一度会釈して去っていった。

不安だが何かあったとしても、すぐに追いつけるだろう。後を追うように会計を済ませると、足早にコンビニを出る。するとそこで、あ、と足を止めた。

先に出たはずの少年が店内から漏れる明かりに照らされて、闇の中立っていた。

ちょうど携帯の連絡を確認していた風の少年は巴と目が合うと、本日三度目の会釈をする。巴も会釈を返して、少し迷ってから歩き出した。

心配だがここで彼を待っていれば、今度は巴の方が不審者だ。後ろ髪を引かれる思いで夜道を進みだすが、しかし少年はすぐにその後を追った。内心ギョッとしたが、偶然だろう。寧ろ心配の種が消えると肩を竦めると、背後の気配を意識しながら歩き続ける。

「……こんな時間までお勉強?」

コンビニからアパートまでは五分の道のり。音楽を聴きながら黙って歩いていればいいものを、我慢できずにイヤホンを外して話し掛けていた。

冬の梢を揺らす美しさ静けさを携えた少年は、振り向いた巴に僅かに目を見張ると、素直に頷く。

「こんな時間までえらいね~」

内心冷や汗ダラダラだった。客先の飲み会に参加した時のような緊張感が背筋を走る。次に何を言えばとくるくると空回る思考を回転させながら、明後日の方向を見た。

「お隣さんこそ、こんな時間までお疲れ様です」

固い笑みを浮かべる巴に一瞬噴き出すと、彼は育ちの良い笑みを浮かべて彼女を労う。

「いつも忙しそうですね」

「そ、そうかな……」

相変わらずあらぬ方向に目を遣る巴に彼は笑いながら、隣にやって来る。

「越してきたばかりの頃はよく朝に会ったのに、ここ暫くは全然だから」

そうだっただろうか。そうだったかもしれない。あっという間に通り過ぎた一年は、まるで遠い記憶のように朧気で思い出せなかった。なんだか少し切ない。

「今何年生なの?」

質問ばかりで申し訳ないなぁ、と思うものの、相手のことを全く知らないため自然と会話は彼の事となってしまう。けれど少年は嫌な顔一つせず答えた。

「春から五年生」

五年生ならば今年で十一歳か。自分とは一回りも年が違う。そりゃ話題に困って当然だ。だが少年の方は巴のぎこちなさを気にした様子もなく、家の前まで笑みを絶やさなかった。

「宿題頑張るのはいいけど、あまり遅くまで起きていちゃだめだよ」

それぞれの家の前に別れ、最後にお姉さんらしい言葉を投げかける彼女に、彼は少し目を丸くする。そして澄ました笑みを浮かべると、家の扉を開いた。

「おとなりさんも、女一人で夜道を歩くのは危ないぜ。いくら近いとはいえ」

え、と固まる巴を残して少年は扉の向こうに消えた。同時に台所に面した窓から零れ出す光に若干目を細めて、気を使われていたのは自分の方だったと気付いた。



どれほど万全の準備をしていても、トラブルは舞い込んでくる。そんな厄介ごとに巴が見舞われたのは始業開始して三時間、あと一時間後のお昼に何を食べようかと、おやつを頬張りながらのんびり考えていた時だった。

「奥村さん、悪いけどパソコン持ってこっち来てくれない?」

「ふぁ?」

口に咥えたクッキーを落とさなかったのは奇跡だ。一瞬にしてヒヤリと背中に流れた汗に突き動かされるようにクッキーを押し込んで、急いでノートパソコンを抱えた。こんな風に呼び出されたということは、リリースの際にトラブルがあったに違いない。上長に連れて来られた会議室には、胃が痛くなるような顔ぶれが揃っていた。

あれよあれよという間に渦中に放り込まれた巴は、まずは状況を把握しようとする。

「あの、なにが……」

「リリースが止まったんだ。原因はまだわからない」

思わず心の中で奇声を上げたのは仕方ない。顔面蒼白になりながらパソコンを開く。

空腹は既に遠い彼方。先ほどまでのゆとりが散った事にも気付けない。社会人一年を目前にとんでもない事をしでかしてしまった。今すぐどこかへ逃げてしまいたい。しかし逃げられる状況であるわけもなく、原因究明の為に重鎮に囲まれながら、アプリを起動するのだった。



結局トラブルの原因は自分にはなかった。環境整備に不備があったらしく、判明後すぐ解放される。ストレスと重圧のによってすっかりよろよろになった巴を、周囲の者は早く帰るようにと促した。

昨日の努力の甲斐もあって切迫した業務もなく、巴はみんなの勧めに従って早々に帰宅する。昼食を食べ逃したことに気が付いたのは、隣の家から漂う香りを嗅いだ時だった。

ふわふわと窓から流れてくるのは醤油とみりんの匂いだ。

肉じゃがだろうか。和食系の煮物であるのは間違いない。インスタント麺ばかりで、和食なんて暫く食べていなかった。

「おいしそう……」

無意識に声が零れてしまうのは無理がなかった。香りに刺激されて急速に空腹感が迫るが、お湯を沸かす気力も今はない。ああ、そういえばインスタントを切らしていたのだった。どのみち家には何も食べるものがないではないか。

途端に途方に暮れてしまった巴は、ドアノブを握ったまま項垂れる。空っぽの胃の中同様、胸にも空腹感を感じる。ただただ、あたたかさが欲しかった。

「……食べていきますか?」

躊躇いがちな声が降ってきた。気が付けば味噌の香りも混ざりだした窓からは、こちらを伺う気配を感じる。なにを言われたのか理解できていない彼女を察してか、声の主は凛とした声に柔らかさを含んで、もう一度問いかけた。

「夕飯、食べていきませんか?」

脳裏に小さく笑みを浮かべる少年の顔が浮かぶ。吸い寄せられるように、巴は頷いていた。



「す、すみません、ほんと……」

ダイニングの壁に隣接するテーブルで身を縮ませながら、巴は何度目かの言葉を口にする。少年は苦笑して流すと、食卓の真ん中に肉じゃがを置いた。青い和柄の皿がとてもおしゃれだ。

「あの、やっぱり手伝おうか……?」

「お客さんは大人しくしてて」

少年の白く細い手が手際よく食事を並べる。ごはんに味噌汁も置くと、彼はまた台所に戻った。手持無沙汰の巴は、あまりじろじろと部屋を見るのも失礼かと思い、膝の上で組んだ指を持て余す。

「あ、今更だけど好き嫌いは……」

「ないです!大丈夫!」

嘘だ。本当はセロリが苦手だ。けれど食べられないほどではないし、このメニューならば入っていないだろう。炊き立ての白いご飯から立ち上る湯気に、ごくりと唾を飲む。

「それじゃあ、食べるか」

サラダと箸も並べると、彼は向かいに座る。手を合わせる彼につられて、巴も手を合わせた。

「いただきます」

そういえば、この言葉を言うのも久しぶりだった。ただ機械的にお腹に食事を放り込む日々では感謝もなく、なんて酷いのだろうと罪悪感が込み上げる。

「取り皿、貸して」

「わ、あ、すみません」

恐縮しながら渡す巴に彼は相変わらず苦笑しながら、肉じゃがを盛る。ジャガイモに玉ねぎ、人参、糸こんにゃくのスタンダードな肉じゃがは素朴だけど、だからこそ美味しそうだった。

「……いただきます」

今度は作ってくれた彼へのお礼の意味も兼ねて呟いてから、箸を手に取る。ほくほくにジャガイモに息を吹きかけて少し冷し、口の中に運んだ。

「……!美味しい!」

「はは、よかった」

巴が口にするのを見守ってから、少年も箸を持つ。よく味の染み込んだ肉じゃがを口に入れると、満足そうに小さく頷いた。

肉じゃがには牛肉ではなく豚肉が使われており、そのためか牛肉独特の臭みもなく、さっぱりとしているがコクがある。

「いつもご飯作ってるの?」

「うん」

「うわ~えらいね~」

自分とは大違いだ。感心する裏で情けなくも感じながら褒めると、少年はキョトンとした顔をする。

「おとなりさんの方が偉いですよ。毎日頑張って仕事に行って」

そのうえ気遣いまで出来るだなんて、なんていい子なのだろう。妙に感動しながら味噌汁を飲む。八丁味噌の風味が体によく染みた。

胃が満たされてくると共に緊張も解けてきて、何気なく部屋を見渡す。少年の家は巴の家と同じ間取りだった。ダイニングの奥にある二部屋は扉が閉まっていて、どのようになっているかわからない。

「今更だけど、お母さんが留守の間に勝手にお邪魔して大丈夫だったかな……?」

「お袋仕事で今ヨーロッパに居るから大丈夫です」

「え、えええ」

めったに見ないとは思っていたが、まさか海外にいるとは。そういえば見かけるときはいつも大きなキャリーケースを引いている気がする。出張が多い仕事なら、彼がしっかりした子になるのも仕方ない。

自分が小学五年生の頃はどうだっただろうか。料理なんて調理実習でしかしなかったし、遊んで家に帰れば母が作ったあたたかいご飯が出迎えた。自分の事なんて、せいぜい部屋の片づけや宿題さえやっていればよかった気がする。

やっぱり偉いなあ、と改めて感心しながら手を合わせた。

「ごちそうさまです」

「お粗末様です」

丁寧にお辞儀をした少年もちょうど食べ終えたようで、すぐに食器を片付けだした。せめて片づけはと立ち上がろうとする巴は、再び制されて、椅子に戻される。またそわそわと落ち着かない気持ちが戻ってきた。

「お袋以外に食べてもらったの初めてだ」

食べる前に調理器具は片づけていたので、片づけはすぐ終わった。お茶のお代わりを手に戻ってきた少年は、巴が謝罪を声にするよりも先に口を開く。

「え、あ、そうなの……?」

でも当然かもしれない。小学校ならば給食が出るだろうし、この年の少年がわざわざ友人に食事を振舞うことなんてないだろう。

「うん。それにお袋はしょっちゅう家を空けるから……」

そこには陰りも寂しさの影も見えなかったが、彼の心の奥底までは計り知れない。

「だからさ、誰かと食事ができて嬉しかった。ありがとう」

何故だか目頭が熱くなって、隠すように深く俯いた。それはこっちの方だった。

「いえ、あの、私の方こそありがとうございます……」

思わず敬語になる巴に彼は笑う。少し悪戯っぽい笑顔が年相応でホッとした。

「ごちそうさまです……」

言葉は肉じゃがに染み込んだ醤油のように、じわじわと胸をあたためる。もう空腹感はなかった。



「リリース無事に終わったって。おめでとう」

コトリとデスクに置かれたのはミルクティーの缶だ。値段の割には量が少ないそれは、ここに入社して以来一度も飲んだことがない。ありがたく上司から受け取って、プルタブを捻った。

「や~、今日は安心して帰れます」

「この間のはほんと肝が冷えたよね~」

上司も同じミルクティーを開けて飲む。あれから数日、無事修正の終わったプロジェクトのリリースが終わったのはついさっき。大丈夫だと分かっていても、前回の事を思い出して今日のお昼は味がしなかった。

「今日も早く帰るの?」

「もちろんですよ」

今日は金曜日。週休二日のこの会社は、明日から二日間休みだ。久々に羽を伸ばそうと思いを巡らせる。

せっかくの休日前だしどこかに食べに行こうか。いやでも、家でゆっくり気兼ねなく過ごしたい。ならばおつまみと酒を買って一人晩酌でもするか。録画の整理もしなければいけないし、あ、そうだ、お祝いにケーキも買って――

「……嬉しそうだねぇ」

「……そんなに顔に出てます?」

「うん。めちゃくちゃ緩んでる」

両手で頬を抑えてクッと持ち上げる。顔の締まりを戻すと、勢いよくミルクティーを飲み干してパソコンに向き直った。けれど頭の中では、様々なケーキが脳裏をよぎっている。

「……あ」

「ん?どうしたの?」

「いえ、なんでもないです」

思わず零れた呟きを誤魔化して、書類を開く。

そういえば御馳走になったというのに、なんのお礼もできていなかった。あの子は甘いものは好きだろうか。

冬の梢を揺らす美しい静けさを携えた少年は、そこまで甘いものが好きなようには見えない。う~ん、と苦笑を浮かべながら、グラグラと天秤は揺れた。



台所の窓からは今日も美味しそうな香りが漂っている。今日は生姜焼きだろうか。生姜と醤油の混ざり合う香りに、お腹がきゅう、と小さくなる。素直な反応を示す己の身体に頬を染めて、巴は呼び鈴を鳴らした。

「……はい」

「えっと、お隣の……」

「えっ」

ガタガタガチャガチャと音がして、慌てたように扉は開いた。驚いた顔をした少年は巴を見ると、切れ長の瞳をさらに丸くする。

「えっと、こんばんは」

「こんばんは……」

いつも大人びた少年が困惑の色を瞳に宿している。無理もないだろうと苦笑すると、巴は紙袋を差し出した。

「これ、この間のお礼に」

こげ茶に金の箔押しで文字が綴られた紙袋には、彼女が贔屓にしているケーキ屋のお菓子が入っている。ショコラと甘さ控えめのタルトの二種類。悩んだ末に結局買ってきた。

少年は目を丸くしたまま紙袋を受け取る。じっと袋の中に落とされた視線からは、感情が伺えなかった。

「え、っと、一応お母さんの分と、二つ買ってきたから。甘いの苦手じゃなかったら食べて。じゃ!」

矢継ぎ早に用件だけ告げて手を上げる。くるりと背を向けて立ち去ろうとした巴の服を、何者かが掴んだ。

「うぇ、え……?」

やっぱり甘いものは苦手だっただろうか。不安を滲ませて振り向いた先には、ほんのり頬を染めた少年がなにかを堪えるかのように見つめている。

「生姜焼き、好き?」

「……好き」

ぐいぐいと服が引っ張られる。食べていけということだろうか。掴まれた服と少年の顔を交互に見て、巴はゆっくりと体を戻した。



社食よりもずっと柔らかくて美味しい生姜焼きに満足した巴は、はぁ、と感嘆の溜息を吐く。彼女の満たされた顔に少年は顔を崩しながら、温かいお茶を差し出した。

「あ、ありがとう。ご馳走様です」

「お粗末様です」

トレーには巴が買ってきたケーキを盛り付けた皿も載っていた。彼は巴の前にチーズケーキ、自分の席にショコラを置くと、嬉しそうに顔を綻ばす。

「いただきます」

巴の顔を見て手を合わせる少年の嬉しそうな顔は、年相応で可愛らしい。買ってきた甲斐があったとつられて笑顔を浮かべ、巴はフォークを掴んだ。

「え、……っと」

甘いもの好きなの?いつも通り話題として質問を投げかけようとして、呼ぶべき名がない事に気が付いた。巴の様子に少年は首を傾げる。

「あ、いや、食事までご馳走になっているのに、まだ自己紹介していなかったなって……」

不甲斐無い、と頭を掻く彼女に彼は口を丸くして、けれどすぐに目を細めた。

「知ってるよ、奥村さん」

今度は巴が目を丸くする。何故知っているのかと顔に浮かべる彼女に、少年は笑った。

「引っ越して来た日、自己紹介してくれたから」

え、と頭を巡らせる。確かに引っ越して来た日は、大家さんと両隣に挨拶をしたはずだった。少年の家はその時も母親が留守で、代わりに彼に引っ越しそばか何かを渡した覚えがある。その時に流れで自己紹介したのだろうか。していそうだ。

「もしかして、その時名前教えてもらった……?」

それならなんて失礼なのだろう。下の名前ならまだしも、苗字すら覚えていないだなんて。少年の方が覚えていただけに余計に気まずい。けれど彼は気分を害した様子もなく、ニヤニヤと口元を歪める。

「……してないよ。おとなりさんの方しか自己紹介してない」

はあ~、と思わず安堵の声を漏らした。焦らすだなんて、なんて意地の悪い少年なんだろう。恨みがましい目で見つめる彼女に、少年はニッコリ笑いながらショコラを食べる。

「冬樹。……このショコラ美味しいです」

「うぇ、あ……よかった」

サラッと告げられた名前は何とか聞き逃す事無く、頭に刻んだ。冬樹くん、と心の中で一度呟いてから、息を吸う。

「冬樹くんは、甘いもの好きなの?」

「うん。好き。特にチョコレート」

ショコラに顔を綻ばす少年は本当に無邪気でかわいい。だらしなく崩れそうな頬を引き締めてチーズケーキを食べる。滑らかで濃厚な舌触りが相変わらず美味しい。じっくりと味わって堪能すると、視線を感じた。

「……一口食べる?」

「あ、……ごめん」

少し照れて俯く少年に笑みを浮かべながら差し出す。遠慮がちに一口食べると、彼の目が輝いた。

「美味しい?」

「ん!……あ、ショコラどうぞ」

「あ、ありがとうごいます」

ふわっと柔らかいココア生地をコーティングするチョコレートへと丁寧にフォークを差し込んで、一口掬い上げる。クリームまでチョコレートなのにくどくない甘さ。久しぶりに買いに行ったが、変わらない美味しさに幸せが込み上げる。

「何処のケーキ屋さんですか?」

「駅前の百貨店から少し歩くんだけど……」

名前を知ったからなのか、先日よりも幾分肩の力を抜いて会話する事が出来ている。少年の気遣いもあるのだろう。一回りも年下の子供に申し訳ないと思いつつも、こうして誰かと食事を共にすることで癒されている自分もあった。

「お礼のつもりだったのに、またご馳走になっちゃってごめんね……」

「俺が引き止めたから……ありがとう」

少年が嬉しそうに笑うから、後ろめたさも申し訳なさも、全部飛んでいってしまう。

謝罪を打ち消すように礼を告げて、空になった皿を片付けた。今日こそは甘えるわけにはいかない。袖を捲って気合を入れると、遠慮する彼を押し込めて食器を洗った。

これが終わったらお暇しよう。結局大して礼にならなかった気がするが、彼が喜んでくれたのならば満足だ。

後ろ髪を引かれつつ濡れた手を拭う。皿を拭いた布巾を片付ける少年に向き直った。

「……敬語、使わなくていいよ」

「え?」

少年の手が止まる。

「敬語無理して使わなくていいよ。私気にしないし」

「……あ~、すまん」

名残惜しさに負けて、結局違う話題を振ってしまった。少年は恥ずかしそうに視線を逸らす。その様子に和やかな視線を向けて、捲った袖を戻した。

「ほんと、気にしてないから、遠慮しないで」

少年は少し照れ臭そうにはにかみながら肩を竦める。

「わかった」

そう言って了承すると、にっこり笑った。

「おとなりさんも遠慮せずに、またご飯食べに来てくれよな」

「うん……ん?」

ついうっかり頷いてしまった。これで最後のつもりだったというのに。けれど少年が今日一番の嬉しそうな顔を見せたので訂正することも出来ず、小さくよろしくね、と巴は返すことしかできなかった。

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