第078話 翠雨
一回戦最終試合、ハザマ組vsルインフォード組が終了し、三日が経った。参加した面々は皆多かれ少なかれ怪我をしていたが、それも癒えた頃。
先日から降り始めた雨は一向にやむ気配がなく、外に出て特訓するのも躊躇われた。
青々と茂る庭の植木に雨粒が打ち付けている。まるで女神の涙のようにきらめくそれは、葉を伝って大地に染み込み、潤いをもたらしていく。
「……ジン? もう、どこ行ったのあいつ……」
そんなユリス邸。最近は、同じトーナメントの敵同士ということでエイジやアトラともあまり会話しなくなった。仲が悪くなったわけではなく、単純に手の内を明かさないためだ。二組とも、己の相棒と作戦を練ることに時間を費やしているのだ。
今日も今日とて雨の降りしきるユースティア自治領。ユリスはジンを捕まえて、色々話そうと思っていたのだが……。
(……せっかくハーブティー淹れたのに、冷めちゃうじゃない!)
ぷりぷりと怒るユリス。ジンがどこにもいないのだ。
ジンは、女の子と二人きりになるのがとにかく苦手らしい。戦闘中は相手に集中すればいいが、こういった平時に一対一で向き合うと、何も喋れなくなってしまうのだという。
ユリスも、最初は情けないと思っていたのだが……。
(そういう初心なところは、ちょっと可愛いのよね……)
あの第一回戦での姿を見て、ちょっとだけ見方が変わった。それからというもの、これまでは目障りにしか思えなかった彼の情けない部分が、なんだか可愛く思えるようになってきたのだ。
なんというか……いじりたくなる。涙目でこっちを見る彼の姿を想像すると嗜虐心が疼く、というか。
ユリスの心の奥底に眠っていたサディスティックな気質が目覚めてしまったのかもしれない。
開いてはいけない扉を開いてしまったような感覚だ。
(……見つけたら、ハーブティーのことをダシにしていじってやるわ)
ぬふふ、と良からぬことを企みながら笑うユリス。
そんなことを思いながら、ふと雨露に霞む窓の外に目を向けた時だった。
「あれは……」
そこに、探し求めていた少年がいた。
「あなた、この雨の中で……」
ジン・シュナイダー。彼は、雨に打たれながら剣を振っていた。
宝石のように輝く雫が青葉に降り注ぐ。まるで彼を飾り立てるように、常とは違う落ち着いた雰囲気を醸成していた。
ユリスも、数瞬の間黙って見入ってしまった。
雨とは、何かの魔力を持っているのかもしれない。
「あ、ユリス……っ?」
そんな空間で素振りをしていたジンは、声をかけられてようやくその存在に気づいたらしく、ビクッと跳ねて振り返った。
ばつが悪そうに頬をかき、剣を後ろ手に隠す姿に、ユリスはぷくーっと膨れ上がった。
「ちょっと。私に黙って一人で特訓?」
「え、と……その……」
ジンは言葉を濁らせる。
せっかく相棒としての一体感が生まれて来たばっかりなのに、自分に黙って訓練とは何事か。ユリスはプンプンと怒り始めた。
「風邪でも引いたらどうするの? 次の試合は四日後なのよ?」
「う、うん……それは、分かってるけど……」
「じゃあなんで」
「ええと……」
追求すると途端に縮こまるジン。まあ、いつものことかとユリスはため息を吐き出した。
「待ってなさい」
ユリスは一旦リビングに戻り、タオルを持って戻ってくる。
「こっち」
手招きして、ジンをそのままタオルに包む。
ガシャガシャと乱暴にかき混ぜるようにして、雨に濡れた髪を拭く。ジンは呻きながらも、されるがままにそれを受け入れた。
「いきなりそんな必死になって、どうしたのよ」
「……」
父親に似たのか、灰色で天然パーマ気味の髪。エイジよりもさらにボサボサだ。長い前髪が隠しがちだが、よく見ると綺麗な瞳をしている。
混じり気のない純粋さを秘めた、無邪気な瞳。どこか幼さも残した彼を見ながら、ふとユリスは気づく。
(そっか。私、ジンのこと何も知らないんだ)
ユリスは、ついこの間彼と出会ったばかりだ。戦いの中でほんの少し理解が深まったものの、人となりや考え方なんかはまだ何も分かっていない。
だから、彼がどんな思いでここにいるのかを知らない。何を考えているのか察せない。
「……シャワー浴びたら私の部屋に来て。ハーブティー淹れたから、付き合いなさい」
「……えっ」
なので、ユリスはこれを機に色々聞いてみることにした。
☆★☆
……………………。
……………………………………。
ジン・シュナイダーは、ドアを目の前にして難しい顔をしていた。
内心、本当に行かなきゃダメかな……と尻込みしていたジンだが、ここまで来てしまえばもう戻れない。
半ば投げやりにドアをノックすると、「開いてるわよ」と声が返ってくる。
黙考する。
女の子の部屋に入るなんて経験は初めてだ。ジンはその出自と性格の関係で、元の世界でもあまり友達が多くなかった。
一人っ子でぬくぬくと育ってきた彼は、とにかく異性と会話する経験が不足していた。
別にこれはデートとかではない。そう分かっていても、心臓が早鐘を打つのは止められない。
どうしたものか、と唸っていると──
「何してるの?」
向こうからドアが開いて、訝しげな視線を向けるユリスが顔を覗かせた。
「い、いやっ!? なんでもないよ……!」
「そう? まあいいわ、入って」
そうして流れに身をまかせるままに、ジンは人生初となる女の子の部屋への侵入を果たした。
テーブル一つとベッド一つ。構造自体はジンたちが間借りさせてもらっている部屋とほぼ同じ。壁に並ぶ本棚に何やら難しそうな本が詰め込まれているのと、所々に配置された観葉植物や花が、ここを特徴的な部屋として印象付けている。
フローラルな香りが漂う一室はまるで異空間のようだ。あまりにもジンには馴染みのない世界が広がっていた。
「ほ、本当に、花が好きなんだね」
「あー、まさかあんたも似合わないって言うクチ? 同年代の友達が口を揃えて言うのよね。『あんたみたいな気の強い女に、花なんて雅やかなものは似合わない』って!」
「い、いやそんなことは……! ユリスは確かにとっつきにくいけど、ちゃんと向き合ってみれば実は優しくて、気配りができて、すごい人だよっ!」
「…………」
クッションに腰掛けて、ティーポットを持ち上げた所でユリスの挙動が停止した。
突然訪れた沈黙に、発言者である少年も「何かまずいことを言ったか」と冷や汗をかきはじめた。が、しかし、
「……自慢じゃないけど私、優しいなんて言われたの初めてよ」
「そ、そうなの?」
「あんたも最初そうだったじゃない。私を見るとビビリっぱなしで、目が合っただけでビクってしてたわよ」
「それは、ユリスがめちゃくちゃ睨んでくるから!」
それを聞くと、ユリスは眉間にしわを寄せてジンを睨みあげた。
「はぁ? 私のせい? 私の顔が怖いって言いたいわけ? ねえ?」
「ひ、ひぃ……っ」
鬼の形相とはこのことか。こんなものを見たら誰でも竦むに違いない。もちろん、そんなこと直接言ったら本当に睨み殺されてしまうかもしれないので言わないが。
「そ、それが怖いんだよぅ……」
だが、そうして思わず漏らした弱音にユリスがピタッと真顔になる。そして、
「今のは冗談よ♪」
……………………。
「…………へぁ?」
「うふふ」
茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせる少女。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
そして数秒後に「遊ばれた」のだと理解して、ジン・シュナイダーは少し泣いた。心で泣いた。
ユリスはもはや、鼻歌交じりの上機嫌でお茶を注ぎ始めている。まあ、彼女が楽しそうならそれでいいか……と思わなくもないジンであった。
「さっきから何突っ立ってるのよ。座りなさいな」
「えっと、どこに……」
「別にどこでもいいでしょ」
とりあえず、適当な場所に腰掛ける。そんな動作だけでもおっかなびっくりだ。
「さっきはごまかしちゃったけど」
まず、ユリスはそう前置きをした。
「……私、あんまり人に褒められたことないのよね」
芳醇な香りを漂わせるハーブティーのカップを受け取りながら、ジンはそんな少女の言葉にを耳を傾けた。
「ほら、私こんな性格だし。なんというか、きちっとするのが苦手なのよね」
頬杖をついて、ユリスは少し憂鬱げな表情を見せる。
「あなたも見てたでしょ? パパとの口論。いっつもあんな感じなの。私だって国の事情があることなんて分かってる。なのにすぐ反抗しちゃう」
ユリスは本棚を指差した。
「あそこに並んでる本。経営学とか、国家運営とか、国の歴史だとか。全部パパからもらった本なの。立派な娘になりなさい、エストランティアの皇女はもっとちゃんとしているぞって」
親の気持ちが分からないわけではない。ただ、何でもかんでも押し付けられると、嫌になってしまうのがこの年頃。
「でね、最初の話に戻るんだけど。そんなことだから、あんまり『良い娘』じゃないのよ、私って。気まぐれにちょっと頑張ってみても『これからも立派な両親を目指して頑張りなさい』って言われるだけだし」
と、そこまで話したところでユリスがふと我に返る。
「ごめんなさい……なんだか、私の愚痴を言ってばっかりね。本当は、あなたのことを聞こうと思ってたのに」
借りてきた猫のように正座でガチガチに固まっていたジンだったが、話を聞いているうちに落ち着いてきたようだった。頂いたハーブティーに口をつけながら、思ったことを彼なりに伝えてみる。
「……あんまり、安直にこんなことを言っても気に障るだけかもしれないけど……分かるよ。僕も、同じだから」
ユリスの話には、ジンにも通ずるところがあった。
「僕も……お父さんが立派な人だったから、よく言われてたんだ。『お父さんのようになりなさい』『お父さんの後を継ぎなさい』みたいなことを」
「うん」
「そうやって話しかけてくる人って、決まって誰も僕を見てないんだ。みんな、僕の向こうにいるお父さんを見てる。『ジン・シュナイダー』って存在に目を向けてくれる人は誰もいなかった」
世界の英雄ともなれば当然のことだと、ジンも理解していた。父親は、何万人もの人間を救ったのだ。その分、何の業績もない自分とは比べものにならないほどの価値がある人なのだから。
「だから……ユリスの反抗したくなる気持ち、分かるよ。僕にはそんな勇気がないから、何も言えずに黙り込んじゃうけど……ちゃんと行動に移してるだけ、僕よりよっぽどすごいと思う。僕は、君みたいな行動力のある人間に憧れる」
正直な気持ちだった。
自分には無理だ、このままでいいと停滞を望み続けた少年から見れば、どんなに苦しくても何か行動を起こそうとするユリスの姿が輝いて見えたから。
それは、この世界に来て新たに芽生えた憧れの気持ちだった。
「私も、似たようなものよ」
対するユリスも、思いを共有していた。
「確かに、私には行動力があったかもしれない。でも、中身は空っぽなの。ただ嫌だから、反抗する。何となく気に入らないから攻撃する。そうやって、汚れないようにものを遠ざけている」
試合中に語った、汚れることを恐れる自分の話。
「私には、ジンみたいに確固たる意志がない。父のようになりたいのか、今後自分がどうしたいのか、それすらも漠然としてた。私は、ちゃんとなりたい自分を持ってるあなたに憧れるわ」
そこまで言うと、ユリスはごまかし気味にハーブティーを飲みつつ、ちょっと恥ずかしそうに俯いた。
「だから、そんなあなたに褒められると……ちょっと嬉しい」
「……」
ジンはポカン、と口を半開きにしたまま止まった。
「な、何よ。なんか、言いなさいよ」
「あ、ええ、あっ」
──だから、そんなあなたに褒められると……ちょっと嬉しい。
嬉しい。嬉しい。嬉しい……。
台詞が何度も脳内をリフレインする。
なぜか、その言葉を聞いた瞬間にこれまで気になっていなかったところまで気になるようになってしまう。
俯きがちな表情。
僅かに朱の差した頬。
恥ずかしさ故か潤んだ瞳。
所在なさげにサイドテールをいじる指先。
その全てが視線を奪う。引力でも生まれてしまったかのようにその姿、その存在に引き込まれる。
このまま硬直していてはまずい。何かを言わなければ。輪廻の果てまで気まずさが続いてしまう……!
「……どう、いたしまして?」
「……ん」
絶望的に会話が続かない。
ユリスもユリスで、「つい余計なことまで言っちゃった……」と言わんばかりに黙り込んでいる。
普段ガツガツとくるタイプであるユリスが、こうしてしおらしくしているのを見ると、どうにも調子が狂う。
とはいえ、このまま黙っていても拉致があかない。
考えて、考えて……そうして彼女に伝えようと思ったのは、『感謝』だった。
「……そ、それを言うなら僕だってそうだよ! 君は『偉大な父親の息子』じゃない、僕自身と向き合ってくれる」
彼女は、他でもない『ジン・シュナイダー』を見てくれるから。
「だから……ありがとう」
そう――その在り方は、図らずも彼らが対戦したあの二人と同じ。
ともに進むということは、つまりそういうことなのだと。
虚飾された仮面ではない。真の意味で相手のことを理解するということは、そういった外的要因を取り除いた先にあるのだということ。
相手がどのような仮面をかぶっていようと、その内側に目を向けることが必要なのだ。
ジンとユリスは、直接言葉を交わすのではなく、『在り方』としてのオルランドとセリカを肌で体感して、それを知ったのかもしれなかった。
それに、ユリスはジンの父親がどれだけの偉業を成し遂げたのかを目の当たりにしていない。だからこそ、彼自身に向き合えたという一面もあるのかもしれない。
ジンは、元の世界に戻れるならば戻りたいとずっと考えていた。父も母もいない、誰も自分を知る者がいないこの世界に突然放り出されたのだから当然だ。
だが──最近は、少しだけこの世界にいてもいいと思えるようになった。
それは、ユリス・ユースティアという少女のおかげだった。
父を知らないからこそ、素の自分を見てくれる彼女。普段自分が目を背けがちなことにもちゃんと向き合ってくれる。そんな存在は、前の世界にはいなかったから。
何も寄る辺のないこの世界で、たった一人──文句を言いながらも、こうして近くにいてくれる少女の存在は、自分で思っているよりも心の支えになっていて。
彼女の隣りにいる時は、ちょっとだけ心地よくて。
そして、どうしようもなく嬉しいから──ジンも、彼女の支えになってみせたいと思うのだ。
「だから、僕頑張るよ。この大会で優勝すれば……きっと、君のお父さんも見直してくれる」
「あなたもきっと、自分の殻を破れる」
「そう……かもしれない」
「きっとそうよ」
ユリスはよく笑う。感情表現が豊かな女の子だ。
それは悪だくみをしている時の妖しげな表情だったり、照れ隠しの笑いだったり様々だが──やはり、ジンは今彼女が見せているような無邪気で混じり気のない笑みが好きだった。
そんな笑顔の似合う彼女を見ていると、思い出すことがあった。
『何もかも忘れてしまっても、笑うことだけは忘れるな』
何年も前に父親から聞いた言葉がある。
聞いた当時は意味が分からなかった。何事にもポジティブに、程度のこととしか思わなかった。
でも、今はちょっと違う。
――そういえば、僕を送り出してくれたときも、両親は笑っていたっけ。
最初はなんで笑っているんだ、そんな無責任な、と憤ったものだ。だが今、こうして冷静さを取り戻して改めて考えれば、見方も違ってくる。
息子を安心させるため。不安を残して、別の世界に送り出したくはなかった。そういう思いが、二人の笑顔を形作ったのかもしれない。
「……っ」
ふと、目頭が熱くなっていることに気がついて、ジンは慌てて目元を拭った。
「どうしたの?」
「……いや、ちょっと両親のことを思い出して」
「……そ」
「……バカにしないの?」
「ちょっと、私をなんだと思ってるのよ。今度こそ怒るわよ」
とは言いつつ、穏やかな表情で少女は続ける。
「あなた、突然ご両親や知人全員と別れることになっちゃったんでしょ? なら、ちょっとくらい思い出して泣いてもいいじゃない。 ちょっとくらい、辛くなっちゃってもいいじゃない。私、どうでもいいことでくよくよしてる男は嫌いだけど、こういう時はちゃんと泣いたほうがいいと思うわよ?」
さっき愚痴に付き合ってくれたお礼じゃないけどね、とユリスは微笑んだ。
「それに、多分私が同じ状況に置かれたらわんわん泣いちゃうと思うし」
「そ、想像できないな……」
「何よー。私だって乙女なのよー?」
僅かな沈黙。その数瞬後に、どちらともなく「ぷふっ」と笑いだしてしまった。
「……やっぱり、ユリスは優しいよ」
ジンは、ユリスに聞こえないくらいの声量でぼそっと呟いた。
「……ん? 何?」
「なんでもないよ」
それから、二人は何でもない世間話に興じた。趣味の話や、ちょっとした愚痴。最近あったこと。他愛もないけれど、どこか穏やかで愛おしい時間。激しい特訓や大会の中では感じることのできない、ゆっくりとした時間間隔。
窓の向こうでは穏やかな雨が降り続いている。
楽しげに世間話をするユリスをぼんやりと眺めていると、時折彼女と目が合って。
さっきまでむず痒くて仕方なかった沈黙も、今はどこか心地いい。
こんな穏やかで、緩やかな日常を過ごせたことはあっただろうか。
いつも何かに追われるように生きていた。それは、両親という偉大な光があるからこその焦りだったのかもしれない。
この世界には、良くも悪くも『過去』がない。ジンを知る人物はおらず、人間関係も再びゼロから構築される。
だからこそ、ありのままの自分でいられるのかもしれない。
ざあ、ざあ、と断続的に響く雨音に耳を傾けると、抱えていた悩みや葛藤も洗い流されていくような気がした。
──今日の訓練は、休みにしようか。
きっと、こんな日があっても悪くない。




