第076話 北風と太陽
拳から伝わった痺れが残っている。/打ち据えられた頬に痺れが残っている。
ふらつく両足が地面を捉えている。/吹き飛ばされるままに地面に背を預けている。
やり遂げたのだと心が訴えている。/やられたのだと心が訴えている。
燃え尽きた魂が、灰となって風に舞う。/ようやく震え始めた魂が、太陽に照らされている。
振り抜いた拳を、ゆっくりと解く。/鱗のひび割れた頬を、ゆっくりと撫でる。
手のひらの中に残っていたのは、一欠片の満足感。/胸の中に渦巻くのは、一欠片の敗北感。
灰の中に燻っていた燃え滓が、生を全うして光を失う。/盲目的に一人の背中を捉えていた男の瞳に、別の人間が映り込む。
そうして、揺らぐ土煙の間から天を仰ぎ、男は一言漏らした。
「……オレの、勝ちだ」
☆★☆
──北風と太陽、という寓話がある。
それは、ある旅人に関して『北風』と『太陽』が勝負をする物語。
二人は、どちらが先に旅人の上着を脱がせることができるか競争する。
北風は、自慢の風を吹かせて旅人の上着を吹き飛ばそうとした。しかし、寒さに身を竦めた旅人は上着をしっかりと押さえてしまい、脱がせることはできなかった。
太陽は、時間をかけて大地を照らし続けた。その結果、高まっていく暑さに耐えきれずに旅人は上着を脱いでしまう。
そうして勝利した太陽を指して、「物事はゆっくり着実に行う方が最終的に大きな成果を得ることができる」という教訓を導き出す物語だ。
一手一手積み重ねて、勝利を掴み取る。
どれだけ時間をかけようと、決して諦めずに勝利に向かって邁進するその姿勢、その在り方こそが勝敗を決する最大の要因だと。
そんな思いを込めて放たれた拳は、確かな熱量とともに強固な壁を打ち砕いたのだ。
燃やして、燃やして、燃やし尽くして――そうして男がたどり着いたのは、一つの解。
あまりにも強すぎる北風は、旅人ごと吹き飛ばしてしまう。
☆★☆
どさり、と。
倒れ込む青年の身体。
ここまでの戦いで血を流しすぎた。その男は、すべての力を出し切って力尽きた。
対するもう一人の男。
直前に発動した臨壊によって竜化し、纏った鱗の上から頬に拳を受けた。しかし、その鱗はひび割れてボロボロと崩れ落ちている。もし臨壊が間に合わなければ致命傷だっただろう。あの拳は、それだけの威力を持っていた。
しかし――その男は、立ち上がるだけの力を残していた。
『し、し、試合、終了――――ッ!! 瞬間の攻防、刹那の駆け引き……! わ、私にも何が起こったのか全く分かりません……』
実況も追いきれなかった最後の攻防。
勝敗を分けたのは、『三斬火』のタメ時間だった。
メイが転移を行い、ルインフォードの背後に現れてからの僅かな時間。メイの声がかかってからハザマは反射的に『三斬火』のタメを開始した。その一瞬。火力を得るために必要なわずか一秒にも満たない時間が、ルインフォードに臨壊を使わせる猶予を与えた。
結果として、既に体が限界だったハザマは力を使い果たして倒れた。鱗でダメージを減衰したルインフォードは間一髪耐えきった。
「……」
そして、静かに勝者は体を起こした。
「く……」
くらり、と体が傾く。殴打によって脳を揺さぶられた結果、軽い脳震盪を起こしたようだった。
「お兄様っ」
すかさずやってきたシャルティアがそれを支える。
「大丈夫ですか……?」
「ああ、問題はない」
「ま、まさかお兄様が一撃をもらうなんて……わたくしの失態ですわッ」
シャルティアはメイの足止めという役目を果たせなかった。それは、兄に失望されるという恐怖を呼び起こすには十分な失態だった。
ルインフォードは強さを絶対とする男だ。弱き者には一切の興味を持たない。シャルティアにとっては、兄に見放されるのは何よりも恐ろしいことだった。
「いや、お前に落ち度はない。今回は――奴らが強かった」
しかしルインフォードは彼女を責めることはせず、純粋に敵の強さを評価したのだった。
(ハザマ・アルゴノート……)
頬に残った痛みが、確かにその存在感を主張してくる。
(その名前、刻んだぞ)
そして。
戦いが終わった舞台の上に、一陣の風が吹き抜けていった。
『勝ったのは……ルインフォード・シャルティア組! その風でハザマ組を圧倒しました!』
『ハザマ組もよく健闘した。地力は確かにルインフォード組にあったかもしれない。だが、最後に一矢報いたのは紛れもなく彼らの「強さ」だ。誇っていい――ハザマ・アルゴノートは、確かに爪痕を残していった!』
どよめきに揺れていた会場。どこからか湧き上がった拍手が、次第に全体に広がっていく。
「よく頑張ったぞー!」「お疲れ様ーっ!」「いい試合だった!」
歓声が歓声を呼ぶ。次第に大きくなっていく波紋のように、それは闘技場全体を包み込んでいった。
救護班によって担架に乗せられたハザマは、ぼんやりとした意識の中でそれを聞いていた。
勝てなかった。
それが何よりも重要で、何よりも欲しかったものだった。
では、負けたら全てを失うのか。何も手に入らずに、失意の底に沈むだけなのだろうか。
負け=死の戦いならば、そうだったかもしれない。死んでしまえば全てを失う。
だが、この戦いは違う。試合としてルインフォードという強敵と戦える機会なんて、今後一生やってこないかもしれない。
ハザマは、それだけ貴重な体験をしたのだ。
きっと次に活かせる。
だが、それでも。
そうだと、分かっていても。
「ちくしょう…………」
胸の中にある悔しさが、すぐに消えて無くなるわけではない。
その苦汁を飲み込んだ上で、進まなければならない。
耐え難き苦みの、その先にだけ見えるものがあるから。
今は雌伏の時。
この敗北を経て、何を得るかによってハザマ・アルゴノートという男の未来は決まっていくだろう。
小さき太陽は、輝きの時を待っている。
――勝者、ルインフォード・シャルティア組。
こうして、準決勝はルインフォード組とエイジ組の戦いとなった。
☆★☆
試合を終え、控え室に続く通路を歩くルインフォードとシャルティアの前に、人影が二つあった。
アンドウ・エイジ。そして、アトラ・ファン・エストランティア。二人は身構えたまま、『理想郷委員会』の兄妹に問いかける。
「お前たちは、何をしに来たんだ?」
最も重要なこと。それは、目的だ。
組織に忠実なルインフォードが、何の意味もなくこんな場所に来るわけがない。明確な意志をもってここに来ている。それは間違いなかった。そしてやはり、ルインフォードは場を荒げるつもりはないようで、この場で刀を抜くことはなかった。
「…………取引だ」
代わりに告げたのは、一つの提案だった。
「次の勝負、己が勝ったら――己について知ってることをすべて話してもらう」
「知っていること、だと……?」
「そうだ。貴様は知っているのだろう、己とシャルティアの過去を。己たちすらも知らない何かを」
ルインフォードの目的とは、己の過去を知ることだった。かつてルインフォードが敗北した時に聞いたワンフレーズ。そしてゾロアから聞き及んだ『ゲーム』というこの世界の外側の知識。それらをかけ合わせた時、一つの衝動が生じた。
――己は、過去を知らねばならない。
それは、ルインフォード本人すらも不思議に思えるほどの強い感情だった。
過去に何があったのかは分からない。だが、きっと忘れてはならない大きな出来事があったはずなのだ。それを知らねば気が済まない。その思いは、絶対服従のグリムガルドの命令さえも一旦保留にしてしまうほどに大きかった。
「過去……」
それを聞いて、エイジは一つの疑問が解消したのを実感した。
エイジは知っている。ルインフォードとシャルティアの過去と、そこで起きた出来事を。
しかし、同時に新たな謎も増えた。
「――そんなもの、直接聞きに来ればいいじゃないか。なぜわざわざ、大会に出るなんて」
「簡単だ。ルールに縛られた空間でなければ、己と貴様は殺し合いを始める。対話なんてありえない」
「それは……」
「忘れるなよ。貴様と己は敵同士だ。馴れ合うつもりはない。奪いたいものは、勝負で奪う」
だが、とルインフォードは続けた。
「もし、己が負けたとしたら、代わりに一つ情報を教えよう。――『X』のことだ」
「なっ……!?」
エックス。やはり、『理想郷委員会』の背後には謎の存在『X』の姿があるのか。
「己達も奴が何者なのか、まだ全てを理解しているわけではないがな」
「……それは、こっちの持ってる情報も同じだ。ゲームとこの世界にはいくつも相違点が存在する。僕が持っている情報が、正しいとは限らない」
しかし、二人とも答えは同じだ。
――それでも、情報がほしい。
この謎に包まれた世界を解明するためには、敵から情報を得られるチャンスを無駄にするわけにはいかなかった。
「……いいだろう。次の勝負、その情報を賭ける」
「ふん。ならばいい」
そうしてルインフォードはシャルティアを連れて去っていく。
だが、途中で足を止めて。
「忠告などする気はないが、一つ言っておく。『理想郷委員会』は既に動き出している。貴様に時間は残されていないと思え。――終わりの時は迫っている」
終わりの時。それが何を意味するのか、この時のエイジはまだ知らない。
☆★☆
「よいのですか? 『X』の情報を渡してしまうなんて」
「この判断が吉と出るか、凶と出るかは……分からない。しかし、今己たちに切れるカードはそれくらいだ」
ルインフォードは決して『理想郷委員会』を裏切ったわけではない。だから組織の情報は流せない。故に選べるカードは『X』という組織外の人物のみ。
この戦いが終われば、ルインフォードはすぐにでもエイジの居場所を組織に共有し、『総攻撃』作戦が始まるだろう。
だからこそ、エイジと接触できるタイミングはここしかなかった。
「己は、己の求める答えを探す。それだけだ」
竜狼は、未だ霧の中にいる。
進む先に出口はあるのか。
迷いながら歩くことでしか――答えは見つからないから。
☆★☆
「ふわあ……」
僕の隣で、緊張の糸を切らしたアトラが壁にもたれかかって大きくため息をついた。
「ひとまず、突然周りの人間を殺す、なんてことにはならなさそうだな」
当面の安全は確保できそうだという点は、素直に喜ばしいことだ。
しかし同時に、ルインフォードが告げた『終わりの時』という言葉が引っかかった。
「残された時間は少ない……か」
一体何が起きるというのか。ゲームでは特に何も――いや、もはやその考えに囚われている方が危険だろう。
しかし、何も分からない以上対策のしようもないというのもまた事実だった。
念頭において行動をする。今は、それ以上のことはできない。
「ハザマたちのお見舞いに行きましょう。彼らにも、このことを教えてあげなきゃ」
「そうだな……」
次は、僕らとルインフォードが戦うことになる。
いろいろな意味で、勝たなければならない理由が増えた。
初戦のように上手くは行かないだろう。
総力戦になる。その予感が、二人の心をギュッと締め付けていた。




