第064話 捻れて曲がって絡んでそして──
オルランド・マクスウェル。セリカ・アルテミア。
大会出場三度目になる彼らについて、ジンは事前に相棒の少女から情報を聞いていた。
まず、オルランドは拳で戦う戦闘スタイル。能力は『帯電』。外に放射するのではなく、自身の周りに電気を溜め込み、それを戦闘に利用するという戦い方をする。『迅雷の狩人』の異名を持ち、敵の虚をつき一瞬で距離を詰めて首を取るというヒットアンドアウェイ方式を得意とする。
セリカは『流体金属の指揮者』の二つ名が表す通り、流体金属を操る。金属球を自由自在に変形させ、必要に応じて武器を生成する。射程が広く、遠距離から様々な形でオルランドをサポートすることができる。
剣、盾、槍、槌、矢ほか、流体金属は幅広い武具に変形する。
オルランドが両手フリーの拳闘士スタイルを選んだのはこのためだという。セリカが生成した武器をオルランドが握り、叩く。状況に応じて得物を変化させることができ、オールラウンドに場を握ることができるのだ。
加えてオルランドの持つ『帯電』は、セリカの生み出す金属武器に通電する。魔力抵抗の低い者だと、触れただけでも大ダメージを受けてしまうだろう。
明らかに「二人で戦うこと」を意識した戦い方。互いの能力が噛み合って、一つになっている。
ユースティア自治領武闘大会の特徴である『男女ペア』を最大限に利用し、洗練されたのがこのオルランド・セリカ組だった。
相手には長年かけて作り上げたコンビネーションがある。対してこちらは、即席ペアの連携もへったくれもないワンマンプレイだ。事前に決まった作戦はジンが逃げてユリスが決める。それだけ。
いくらユリスが強力な魔法使いだとしても、限度はある。相手がユリスの弱点に気づき、二人掛かりで守りに徹すれば、いずれガス欠でジリ貧になって負けてしまうだろう。
そうならないためにも、望まれるのは短期決着。
加えてユリスには、確かな勝算があった。それは、情報の差だ。
オルランドとセリカのペアは、過去二度の大会出場で手の内をほぼ明かしている。ユリスはその戦いを生で見たこともあるし、戦型や癖、どういったやり方で攻め込んでくるのかをしっかり把握していた。
対してユリスは初出場。ユリスは自治領では有名人なので、彼女の得意魔法が『植物』を操るものなのは領民ならわりとみんな知っている。実況が試合前にベラベラと喋ってしまったのもある。
そんな『花の魔女』だが、詳しい戦闘方法が知られていないというアドバンテージは確かにある。
ユリスは、自分の知る植物であればほぼ何でも作り出すことができる。そのためには植物の組織や構造の段階から深く理解している必要があるのだが、その点ユリスは多種多様な花や木に詳しいので問題にはならない。
趣味で花の図鑑などを読む彼女にとって、魔法はその延長線上でしかない。
セリカ以上の万能性をもって敵を圧倒する。相手が未知の攻撃に対策を練ることができないうちに、決める。
ユリスが勝機を見出したのは、そこだった。即ち──
「速攻で行くッ!」
開始の合図と同時に大きくバックステップで距離を取り、着地に合わせて地面へ手を。瞬間無数に生まれた木が、龍の如くうねりながらオルランドたちへ向けて殺到した。
しかし。
「うわあっ!?」
その進路上にいたジンが、無様に飛び跳ねながら飛び退いた。
「ちょ、なんで味方の攻撃にビビってんのよッ! 当てないから! それくらいのコントロールはやってるわよ!」
「だ、だっていっぱい来たから……っ!」
「あーもう何泣きそうな顔になってんのよ! 私の邪魔だけはしないでって言ったでしょ!?」
いきなり口論を始めた二人に、会場も困惑を隠せない。
『おっと……先制攻撃を放ったユリス選手ですが、味方のジン選手とうまく連携が取れなかったようですね』
『ん。とはいえ、ユリスの魔法は威力範囲ともに優秀だな。しっかり射線上にオルランドとセリカ両名を捉えてる。まあ、ジンも入っちまってるんだが』
真後ろに濁流の如く押し寄せる大木が現れたらそりゃ誰だってビビるだろう、というのがジンの主張だった。特にジンは直感的にその動きを察知できるので、当たらないと分かっていても恐怖が体を動かしてしまうのだ。
これは、『未来視』安藤影次にはない弱点だった。ジンはあくまで直感的にしか出来事を把握できない。そのため、「未来の出来事を映像として把握して、それを元に行動を選択する」というプロセスのエイジと違い、「怖い」と思った瞬間に体が動いてしまうのだ。
「危ねぇ! いきなりかよ、容赦ねえな!」
「オルくん、大丈夫ー?」
「モチロン! 無傷だ!」
バゴン! という強烈な殴打音とともに、ユリスの木が吹き飛ばされる。そこから姿を現したのは無傷の男女だった。
流体金属を巨大な盾へと拡張し、硬質化。身を守りきったのちにオルランドの拳が木を破壊したのだ。
「チッ」
ユリスは今ので決めるくらいの気持ちでいた。防がれても上から押しつぶしてやろうという作戦だった。
しかし、勢いが足らずに押しきれなかった。あのクソヘタレが余計なアクションを取ったせいで、咄嗟に力をセーブしてしまったからだ。
(結構全力で行っちゃった。相手はもうこれで、最大出力の予想が立てられる)
痛手だ。正面からの巨木による奇襲はもう通用しないと見ていいだろう。
(やっぱり流体金属が厄介すぎる……っ! 攻守に万能で、私と違って小回りが利く! これじゃオルランドに決定打が届かない!)
高速回転し、熱を発し始める思考。ユリスは二人分、頭を使わなければならない。
(まずはアレを剥がさなくちゃ話にならないわ。最大射程は? 形態変化の限界は? どこまで分割できる? 移動速度は? 液状化と硬質化の切り替え速度は? ──まずは、それらの条件を明らかにする。そして、糸口を掴む)
今後の方針を定め、ユリスは改めて敵を観察する。
「よーし、じゃあお返ししようか〜」
「おうよ、相棒」
先ほど硬質化していた盾が姿を変え、二つに分裂してオルランドの両拳に吸い込まれていく。生み出されたのは鉤爪だ。
拳を起点とした三連刃×2が、陽の光を反射してギラリと輝いた。
「──行くぜ」
まずい、と理解した次の瞬間には、すでに事は動き始めていた。
「――『迅雷』」
バチッと火花が空気を震わせて──オルランドの姿が消えた。
『オルランド選手の代名詞、『帯電』による加速です! 生物の限界を超えた駆動速度に、今まで数多の敵をなぎ倒してきました! さて、ジン選手はついていけるのか──!』
ゼロから100へと加速するオルランドの『迅雷』は、初速があまりにも早すぎるため、素人が見ればその場から消えてしまったように感じられる。
事前に情報を聞いていても、実際に目の当たりにするまではなかなか反応しきれないとされる初見殺し。
それに対して、ジンは──
「うわあああっ!?」
情けない悲鳴とともに試合終了、とはいかず。鉤爪による神速の一撃を、紙一重で回避していた。
「おおっ!」
カウンター奇襲に失敗したオルランドは、焦る事なく再び距離をとった。防御の厚いセリカの元まで下がる。
先ほどのジンの焦りきった反応から見ても、オルランドは少なくとも傷の一つくらいつけられるだろうと踏んでいた。しかし現実は、ギリギリとはいえ完全回避。身のこなしは不恰好なのだが、それでも当たってはいない。
(こいつ……今、俺の初動を見る前に動き始めたよな?)
その理由に、オルランドも気がついていた。オルランドは『迅雷』中、一種の思考加速状態にある。敵の動きをつぶさに観察し、敵の扱う魔法を解き明かす。今の奇襲は、一見不用意な特攻に見えて威力偵察の役割も兼ねていた。
(攻撃を事前に察知する能力? そういえば、さっきユリスの攻撃を避ける時も反応が早かったな……)
オルランドはひとまず、ジン・シュナイダーの能力に『攻撃を事前に察知する能力』があると仮定した。未だ詳細は不明だが、とりあえず敵の手札を一枚めくることには成功した。
「どうする、セリカ」
「ん〜、悩むねえ」
ユリスも次の一手を模索しているのか、様子を見ている。
「オルくんがドカーンって気持ちなら、ドカーンでもいいよ〜」
「いや、どっちかっていうとズバーンだな!」
「おっけー、じゃあズバーンでいこ〜」
得体の知れない会話に、ジンもユリスも首を傾げた。まさか、作戦を相手に伝えないための暗号か!? 常連の選手はそこまで考えているのか!? とにわかに焦るユリスだったが、真実はそこまで奥深くなかった。
ただ、単純に。
二人の意思疎通に、多くの言葉は必要ないというだけ。
「『迅雷』ッ!」
そして、戦闘は本格始動する。
ユリスはどうにかしてあの流体金属の動きを止めるべく、巨木を半球状に展開して捕まえる作戦に出た。
セリカはそれを嘲笑うかのように逃げる。1センチでも隙間があれば、流体金属はそこから抜け出せる。指揮者の如く両腕を左右に振り、それに合わせて金属を操ることで巨大な虫あみをスルスルと躱していく。
電磁加速で一気に加速するオルランドは、なす術もなく逃げ回るジンを狩人の如く追い立てる。依然として攻撃は躱されるが、オルランドに焦りはなかった。作戦は順調に進行している。
「オラオラオラオラァッ!」
鉤爪が地面を抉る。その威力に少年は引きつった表情のまま逃げ惑う。
とりあえず、言いつけ通り逃走最優先。邪魔はしたくない、その一心からジンは全力で走っていた。
だが、それも裏目に出る。
「おっしゃァ、行くぞ!」
「はーい」
ジンの直感が危険を察知した時には、既に遅かった。完成された罠に、逃げ場などなかったからだ。
ジンが逃げ込んだ場所。それは闘技場をぐるっと回るようにしてたどり着いたセリカとユリスの戦闘跡。そこにはユリスが創り出した巨木の残骸が転がっており、進路を塞いでいる。必然、逃げ場は方向が絞られて──
「「せーのっ」」
息の合った掛け声とともに、オルランドは鉤爪を、セリカは金属の槍で各々の敵を撃ち貫く。
「「ズバーンッッ!!!!」」
狭まった逃げ場に、ジンもついに『避け』を諦めて『受け』を選択。長剣の腹で鉤爪を受けるが、加速の乗った一撃は想像を絶する重さを持っていた。軽装だったことも災いし、ジンは大きく跳ね飛ばされてしまう。そして──
「えっ」「嘘っ」
逆サイドから同じように吹き飛ばされてきたユリスと、思い切り衝突した。
『これは見事────ッッ!!!! オルランド選手とセリカ選手、二手に分かれて闘技場に回り込み、互いに逃げ場を制限させて挟撃!「ズバーン」の作戦が美しく決まった──!』
『ユリスがあちこちに作った障害物を逆に利用したオルセリ組の機転が光ったな。ユリスは魔法の威力こそ桁違いに高いが、実践慣れしてないのがモロに出てるぜ』
『にしても、ズバーンって何なんですかね?』
『分かんね』
「あーもう! うっさいわねっ! クソ……っ」
得意げに戦況を解説するレオとかいうやつに苛立ちをぶつけながら、ユリスは腰を抑えて立ち上がった。
「ちょっとあんた! 生きてる!?」
「い、生きてる……」
追撃を受けないようにジンの腹を巨木で引っ掴んで、退避するユリス。向こうもひとまず二人の合流を優先したようで、一度距離が開いた。
思い切り背面から衝突したので、呼吸が苦しい。強打した背中に鈍痛が走る。茂みの生成で辛うじて落下の衝撃は抑えたユリスとは違い、ジンは地面に激しく打ち付けられており、苦しげに咳き込んでいる。
加えて、オルランドの鉤爪には電撃が流れていた。剣を通じてこれを身に受けてしまったジンには、わずかな麻痺が残ってしまった。
(こいつ……)
ユリスは、早期決着が成し得ない今の状況に対する焦りもあり、苛立ちが募っていた。
(この期に及んで、まだ……)
その苛立ちの大きな要因には、やはりその少年があった。
激突の瞬間、ジンは少しでもユリスへの衝撃が外に逃げるように体を捻った。その結果ユリスはすぐに立ち上がれる程度のダメージで済んだが、代わりにジンは受け身を取る余裕すらなくして、回転しながら地面に叩きつけられた。
「なんでっ!」
衝動的に、ユリスはジンの胸ぐらを掴み上げた。そんな動作一つでも苦しげに呻く彼を見て、思わずユリスは目を逸らしそうになる。
「なんで……私を、かばうのよ……っ!」
あの日と同じだった。ジンは自分のことなんか顧みずに、誰かのために動く。たとえそれが、自分の首を絞める結果になるとしても。
「ぼ、くは……」
きっと苦しいはずなのに、ジンはそれでも、笑った。
「僕は……僕が辛い目に合うのはいくらだって耐えられる。でも、僕のせいで誰かが苦しむのだけは、どうしても、我慢できない」
馬鹿にされるのは慣れていた。罵倒に対してじっと耐えるのも得意だった。
でも、そのせいで周りに迷惑がかかるのはどうしても許せなかった。
ジンは自分がどれだけなじられてもヘラヘラと笑ってやり過ごす。だが、「息子がこんなに情けないってことは親も大したことないんだな」と口走った輩にだけは、必ず立ち向かった。どれだけ返り討ちに合おうと、必ず最後には訂正させた。ジンは昔から涙脆い少年だったが、その時だけは絶対に泣かなかった。
それは、別の世界にやってきた今でも変わらない、彼のちっぽけな信念だった。
自分のせいで、偉大な父の栄光に傷が付く──それが耐えられないのと同じだ。
ユリス・ユースティアは強い。きっと彼女は英雄に足る器だ。大会で優勝することだって夢じゃない。自分が足を引っ張らなければ。
変わりたい。でもそう簡単に人は変われない。だからせめて、他人に迷惑がかからないように──
「そうやってコソコソと生きたって、あんたが本当になりたいものには一生なれないッ!」
それはまるで、心を読んだかのようだった。
ユリスの一喝が、ジンのモヤモヤとした感情を一息に吹き飛ばした。
「自分はいいから他人に迷惑をかけないように? そんな考えだから余計他人に迷惑がかかるんじゃないの!? あんたがその考えでいるうちは、一生あんたの周りの人が苦しむわよ!」
それは、激突のダメージなんかとは比べ物にならないほどの痛みだった。
「言ってたじゃない、変わりたいって! 父に相応しい自分になりたいって! 私はあの時のあんた、嫌いじゃないって思った! いいこと言うじゃんってちょっと見直した! でも、今のあんたは大っ嫌い!」
ユリスの叫びは、会場全体を黙らせるだけの気迫がこもっていた。
「あんたのそれは、自分の情けなさを覆い隠すための殻よ!『変われない自分』を正当化するための手段でしかない! 迷惑をかけないようにとか言いながら、本当は自分が傷つきたくないだけじゃない! 真の意味で変わりたいと願うなら、他人に迷惑をかけてでも足掻きなさいよ! 苦しみながら、進んでみせなさいよッ!」
「……」
重苦しい沈黙があった。ジンも、ユリスも、果ては対戦相手の二人さえも黙り込んでいた。
──そうやってひとしきり立て続けに吐き出した後。少女は悔しげに唇を噛んだ。
(……変われないのは、私も同じなのに)
今吐き出した言葉が、全て自分に返ってくるような思いだった。
ユリスだって変われないのは同じだ。親の敷いたレールに逆らいたくて、声を荒げて反抗する。領主の娘としての役割に縛られる自分から逃げている。なんだかんだと言い訳をして、苦しくない方へと逃げている。
そんな彼女にとって、ジンがあの夕暮れ時に語った言葉は胸に突き刺さった。
──「立派で、強くて、誰もが憧れるお父さんの息子は――変わらず、ずっと僕。だから変わらなくちゃいけない。お父さんの息子としてふさわしい自分にならなきゃいけない。いつも、そう考えてる」
自分にはないものを持っていると思った。だから嫌いじゃないと言った。けど、本当は違ったのだ。
それは、自己犠牲に見せかけた保身だ。自分自身が変わるのは辛いことだから、その場凌ぎで周りを綺麗に保とうとする浅ましい考え。
それはユリスにも言えることだ。変わりたいけど変われない。だから声を張って、虚勢を張って、強気でいることで本当の自分を隠している。
ジンを見ていると、ユリスの弱い部分が透けて見えるようだった。彼の情けない姿に、自分自身が重なってしまう。
ユリスが抱えてきた「なんとなくムカつく」の正体は、きっとそんな同族嫌悪。
苦しみながらも進んでみせろ。彼女が放ったその言葉は、あるいは自分自身に向けたものだったのかもしれなかった。
──だけど。
「……なんでだよ」
そんな事情、ジン・シュナイダーには全く関係ないことだ。
「僕はただッ! 君に迷惑をかけたくなかっただけだ! それなのになんで……なんで僕が責められなくちゃいけないんだよッ!」
もっともな反論だった。
「おーい、そろそろ喧嘩は終わったか?」
「っ!」
様子を伺っていたオルランドとセリカが臨戦態勢に入ったのを見て、ジンとユリスも慌てて向き直った。それでも、感情の迸りは止まらない。
「そうだよ、僕は情けないよッ! でもそうやって自分を正当化しなきゃやっていけないんだ! 僕のせいで大切な人が悲しい顔をするのは……とっても、悲しいことだからッ!」
「……」
流体金属の攻撃を避けながら、二人の『言葉の殴り合い』は続く。互いに互いを傷つけて、刃こぼれしながら、それでも噛み合わないままの歯車は回転を続ける。
「他人に迷惑をかけるなんて、そんなこと僕にはできないッ! 僕にそんな価値はないんだ! できるのは、せめて他人に迷惑をかけないように生きることだけ……だから──だからッ!」
そしてエイジは、襲い来る流体金属の槍を撃ち払いながら、胸に秘めた思いを言葉に乗せた。
「醜くったって! 情けなくったって! 自分を守りながら、諦めずに足掻き続けるしかないじゃないかッ!!」
「────」
それは、魂の悲鳴だった。親と自分、理想と現実に揺れる彼の心が軋む音だった。
同じ。
やはり、二人は同じなのだ。
役割と世間体に『自分』を殺された、鏡写しの私。
(そんな彼に、私は……)
誰しも、このままじゃダメだと思っていてもどうにもならないことがある。人間はそんなに強くない。
遅まきながらユリスは、自分が彼に八つ当たりをしてしまったのだと自覚した。
自分と同じ弱さを抱える少年を糾弾して、いい気になって。そんなの、さっき自分が言った『変われない自分を正当化するための保身』に他ならないじゃないか。
口から出た言葉は取り消せない。彼の心を傷つけたという事実は、少女の胸の中に残り続ける。
ならば。
ならば、どうするか。
──醜くったって、情けなくったって、自分を守りながら、諦めずに足掻き続けるしかない。
鏡写しの二人だからこそ、彼の叫びはそのまま少女にも当てはまる。
ユリスは、完璧な女性になりたかった。誰からも信頼されて、頼りになる。そんな女性。仕事も完璧にこなすし、魔法だって一流。そんな非の打ち所がない女性だ。
ジンにとってのエイジのように。ユリスにとってそれは、『アトラ・ファン・エストランティア』だ。
自分みたいに馬鹿じゃなくて、皇女としての役割を全力でやり遂げながらも、人間として完成された少女。
彼女こそが、ユリスのなりたい姿だった。
だが、その背中は遠い。今の自分が彼女のようになれるとは、ユリスには到底思えなかった。
「それでも──」
たとえ、今は届かなくとも。
「諦めずに、足掻き続けるしかない──か」
きっとそこにしか、答えはないのだから。
「よしっ!!」
気持ちを固めてからのユリスは早かった。胞子による煙幕を展開、敵の視界を奪って状況をリセットする。
ユリスは巨木でジンを腹を掴み、自身も手から伸ばした細いツルを引っ掛けて、闘技場に創り出された木をすばやく登った。そして、
「ごめん!」
「えっ?」
突然頭を下げたユリスに、ジンは硬直した。
ただでさえ状況を飲み込めないまま目を白黒させていたジンだったのに、さらにその発言が投下されてますます混乱した。
その結果、彼はこんなことを言い始めた。
「な、なんで謝るのっ?」
「……」
なんで謝る?
そうか。
そうきたか。
「……ぷふっ」
なんで謝られたのかすら分かっていない。端から彼は、他人の悪意とか黒い感情とか、劣等感とかやりきれない思いなんて計算に入れていない。
ただ、常に真っ直ぐに生きている。憧れた背中を無邪気に追いかける少年。
やはり、これがジン・シュナイダーなのだ。
「む、むしろこっちがごめん、というか……。いきなり怒鳴ったりしちゃったし。ユリスさんの言う通りだよ。僕は逃げてるだけで──」
「ねえ」
そんな風に泣きそうな顔をするジンに対して、ユリスは。
「私を見て」
ガッとジンの両頬を持って目線を真っ直ぐに合わせた。
「私は完璧な女性を目指してた。なんでも上手くて、誰よりも頼りになる、そんな女性よ。だから、失敗するのが怖くて、世間体や役割に縛られながら生きてきた。私は、汚れたくなかったのよ。でも──」
でも、ジン・シュナイダーは違った。
「あなたは、そんなこと恐れずに足掻いていた。醜くても、情けなくても、それでも前に進むことだけはやめなかった。──周りを綺麗に保ちたかったのは私の方だったの。声を荒げて、見たくないものを排除して……。そんな私と違って、あなたはどれだけ汚名を被ろうと泥臭く生きてきた。そうなんでしょ?」
「…………そう、なのかな」
「泥だらけでも立ち上がってきた。それがあなたなんでしょ?」
「……だと、いいんだけど」
「大丈夫よ、自信を持ちなさい!」
その時が、おそらく初めてだった。
ユリスは、ニカっとジンに笑いかけた。
「そうやって泥だらけになっても絶対に諦めないあなたは、逃げ続けて綺麗なままの私より、ずーーーーっとかっこいいって、そう思うわ!」
「──────」
いつの日か、ユリスが言っていた。
──「嫌いじゃないというだけで、かっこいいとは微塵も思えないけど」と。
あの日の言葉を意識しての発言だったのかは、分からないけれど。
でも今回はちゃんと、「かっこいい」と言葉にしてくれた。
たったそれだけのこと。
でも、たったそれだけのことで、救われることだってある。
闘技場の中心。何万人と集まった観衆の中で、しかし二人は『二人きりの世界』へ旅立った。
「私も、もう逃げない」
ユリスはそっと息を吐いて手を下ろし、ジンに向けた。
「一緒に、泥だらけになってくれる?」
その言葉に、しばらくジンは返答をすることができなかった。
彼女にも、憧れがあるという。
でもその背中は少し遠くて、手が届かない。ジンと一緒だ。自分を見つめ直すたびに、理想とのギャップは広がるばかり。
鏡写しの自分。二人を繋ぐのは、憧れに手が届かないという劣等感。
情けない話だが、でもそれが自分たちなのだと。今は受け入れるしかない。
だから──少年は頷いて、ユリスの手を取った。
「醜くったって」
泥臭く。
「情けなくったって」
意地汚く。
「「自分を守りながら、諦めずに足掻き続けるしかない!」」
ちっぽけなプライドを胸に抱えて、生きていくしかないのだから。
「さあ、反撃開始よ」
ユリスは短く一言、そう告げた。
「ユリスさん、僕にも何かできることはないかな?」
初めて少女が笑みを見せてくれた。まるでそのお礼と言わんばかりに、少年は初めてユリスに自分の考えを話した。
何かしたいと。自分にだって、何かできることはないかと。そう尋ねたのだ。
「そうね。でも、まずその前に──」
ユリスはジンの背中に治癒を施しつつ、ちょっぴり恥ずかしそうに頬を染めて言った。
「ユリスって呼んで。今さら『さん』付けとか、気持ち悪いから」
「え、あ……え?」
「まさか、聞こえなかったなんて抜かさないわよね?」
「い、いやまさか! そんなことは!」
ドゴォ! と木が揺れる。見れば、足元でオルランドの拳撃が炸裂していた。
「オラァ! 降りてこいコラアアアアアアァ!」
「まずい、これ以上もたない。作戦は後で考えるっ! 行くわよ、ジン!」
ユリスが再び手を差し伸べる。ジンは今度こそ、迷いなくその手を取った。
「分かった、ユリス!」
きっと、その瞬間だったのだろう。
互いを削り合いながら、ボロボロに刃こぼれした歯車は──ついに、ピタリと一致した。
第064話 捻れて曲がって絡んで──そして重なる、二人の歯車。
捻くれた劣等感を動力源に、未完成な少年少女は動き出す。




