第050話 スタートボタンを押してください
僕は再びあの無限ループに囚われたはずだった。
セーブ直後にやって来る死。うまく行動をしなければ即ゲームオーバーという、最悪の状態。
前回は奇跡的に成功したが、同じことを何度もやれるほど僕の身体は正確じゃない。今度もうまくいく保証は全くなかった。
あの荒野からやり直し。その事実が、心に重くのしかかる──
だが、その心配は取り越し苦労に終わった。
ある瞬間、意識がすぅっと遠のいた。まるで自分意識が他の身体に引っ張られて、抜け落ちていくかのように。
何が起きているのか、全く分からなかった。それでも導かれるまま、抗いようのない流れに身を任せて、僕はそこにたどり着いた。
暗転した視界は、すぐに取り戻された。
「ここ、は……」
倒れていた僕は身体を起こす。そこがどこなのか、瞬時に理解できた。いや、感覚としてはつい数秒前まで僕はそこにいたのだ。
死亡して、セーブ地点である荒野に飛ばされた僕は、なぜか倉庫に逆戻りしていた。
「エイジくんッ」
「おわっ」
起き上がった瞬間、抱きついてきたのはアトラだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
アトラはひたすら、謝罪の言葉を繰り返した。その理由も、すぐに思い出すことができた。
(そうか。僕は、アトラに……)
貫かれた腹は、服も合わせて痕跡一つ残っていなかった。一体何が起きたのか、僕は全くの無傷でここにいた。
「アトラ……」
アトラの取り乱しようは酷かった。泣きじゃくり、震えて、まともに呼吸すらできないほど嗚咽を漏らしている。
その姿を見て、僕は体温が一気に下がったように錯覚した。
僕はアトラに、自分を殺してくれと頼んだ。それは間違いなく、活路を見出す最良の選択だった。詰んでしまった世界から離れて、状況は悪いとは言えセーブ地点である荒野に戻れる。
だが──荒野に戻れるのは、僕だけだ。
僕を殺したアトラは、あの場に一人残される。それも、僕を殺したという罪を背負って。
心優しき少女に、それが耐えられる訳がない。
自分が死んだ後の世界のことなんて、考えたことがなかった。いや、普通はそんなこと考える必要はない。死ねばその後なんて存在しないのだし、そこで終わりだからだ。
だが、僕は特殊な事情を抱えており、なおかつ今回、何かが起きてここに戻ってきた。
アトラの心に傷を残してしまったかもしれない。僕の決断によって。
「ごめんなさい……ごめんなさい……──」
壊れた機械のように言葉を繰り返すアトラの姿は、痛ましくて仕方なかった。僕は縋り付くアトラを抱きしめ返すことしかできなかった。
「僕の方こそ、ごめん。君にこんなことをさせてしまって……」
このままアトラを落ち着かせてあげられればそれが一番だった。しかし、そうもいかない。敵はすぐそこにいるのだ。
「おい……おいおいおい。なんだよそりゃぁ。この人形、何してくれてんだ?」
漆黒の影が揺らいだ。
「この空間の時間を巻き戻した? だから死んだはずのあいつが生き返りやがった?」
ゾロアの感情が激しく波立っているからか、その周囲の黒き影もまた荒ぶっている。
「──ふざけるな。ふざけるなッッ!!!! なんだよそれは! 死んだ人間は生き返らないんじゃなかったのかよ! クソが! そうやって主人公ばかり優遇するのか、この世界はッ!」
人形──つまり、メイが時間を巻き戻した。ゾロアの口ぶりと、この状況から見て、そういうことらしかった。
メイは……光の失われた瞳で虚空を見つめたまま、無造作に壁に打ち付けられていた。動く気配は、ない。
僕は博士の言葉を思い出した。
──『今の輪廻核は、一瞬でも三軸相当のエネルギーを生むと負荷に耐えきれず自壊してしまう。壊れたという事実を巻き戻すことは可能じゃが、それで終わってしまうためにエネルギーが生成できないのじゃよ』
一度壊れて巻き戻り、機能が停止した──そう考えると、今のメイの状態と一致する。
再起動? 心肺蘇生? なんでもいいが、メイを元に戻すことはできるのか──
「何生き返ってんだよ、お前」
しかし、彼女の安否を確認することはできない。
目の前の男が、それを許さない。
「私の300年は、なんだったんだよ──」
顔を歪めたゾロアが、その前に立ちはだかっていた。
「──あいつの死は、なんだったんだよッッッ!!!!!!」
怒号が天井を打って、倉庫に響いた。
まずい──本能がそう警告し、僕は瞬時にアトラを抱えて飛び退く。
すると、つい一秒前まで自分がいた空間を、ゾロアから伸びた影が喰らい尽くした。
「簡単に生き返りやがってッ! お前は私の人生を──リリーナの死を、冒涜したッッ!!!!」
次から次へと打ち出される黒蛇。次第にスピードを増すその連続攻撃が、ついに僕の肩を掠った。
「ぁ……ぎっ」
空中で姿勢を乱した僕は、アトラと共にもつれるようにして地面を転がった。身体中擦り傷だらけになったが、それでもどうにかアトラが傷つかないように抱え込んだ。
「卑怯だ、お前はッ! 何度殺しても死なず、やり直せるなんて! 身体を作り変えてもいない、何の犠牲もなしに突然手に入れた力だと? 笑わせるなよ。そんな力があるというのなら、リリーナに宿るべきだ! お前みたいなただの一般人が手に入れていい代物じゃないんだよッッ!!!!」
怒りを乗せて放たれる黒蛇は確かな圧力を持っており、剣で弾くのもそう容易くはいかなかった。
光属性の力が秘められた剣は確実に闇を払うが、ゾロアは圧倒的物量でそれを上回ろうとしてくる。アトラを背に庇いながら戦うが、それでも限界はある。
加えて、僕の頭の中ではゾロアの言葉がぐるぐると回っていた。
──『主人公にセーブとロードなんて力が与えられるのは、卑怯だ』。僕は、その言葉を否定することができなかった。
正しいのだ。主人公というのものは、間違いなく卑怯である。
常に物語の中心にあり、特別な力が与えられたりしながら、誰よりも強く、もしくは誰よりも早く成長し、死んでもやり直すことができてしまう。
別にゲームを改造したりする必要はない。ゲームの主人公とは、ありのままの姿で『チートスキルで無双』状態みたいなものだ。
僕らプレイヤーはそのことに気がつけない。この世界みたいに、実際にゲームと同じ世界に生きることなんてないからだ。
ゾロア──ゲームでは敵キャラクターとされていた男の叫びは、僕にとって衝撃だった。
言い返す言葉が見つからないように、反撃に移ることもできなかった。ただ次々に襲い来る影の触手を切り払って耐えることしかでかない。
このままでは、またすぐに死んでしまう。
どうする、どうする、どうする────。
「ひぅ……ぇ……ぅ……っ」
背後では、何もできず振り回され続けた一人の少女が、泣いていた。
力なく地面にへたり込んで、肩を揺らしている。
それを見た時、心の中に微かな脈動があった。
アトラが泣いている。僕の不甲斐なさで。
ゾロアは攻撃をやめない。剣で漆黒を斬り払うが、どれだけ斬っても再生し、復活する。
時にゴムのように柔軟に、時に刃のように鋭く迫る変幻自在の影は、簡単に凌ぐこともできない。身体中に次々と切り傷が刻まれていった。
「ぐ、ぅ……」
痛みに慣れることはない。傷が生まれるたび、灼けるような痛みが走った。
──それでも。
「ぅ……ううう、ぐッ、あ……っ」
それでも、剣だけは振り続けた。
「なんで……っ」
問いかけたのは、アトラだった。
「なんで、そんな傷だらけになって……」
鼻声でろくに喋れていないが──言いたいことは分かった。確かに今僕は傷だらけだ。一方的に攻撃され続けている。だが、抵抗することはやめていない。
「なぜ、か……」
僕は、少し考えて。
「今から僕、めちゃくちゃ気持ち悪いことを言うぜ?」
痛みに耐えつつも、どうにか笑みを作って答えた。
「それは、僕が主人公だからだ」
理由とは、最初からただそれだけだった。
「思い返せば僕は、初めてこの世界に降り立ってからずっと、この世界の行く末を放置して自由に過ごす気は一切なかった。安藤影次なのか、ブライト・シュナイダーなのか……その違いはあっても、『世界を救う旅に出る』──その行動だけは、何一つ迷いなく決めたんだ」
僕はこれまで考えたこともなかったが、人によってはゲームの中の世界で自由気ままに平穏な生活を送る人もいるかもしれない。気の赴くまま人生を送る人がいるかもしれない。その選択が間違っているとは思わない。でも、僕は──。
「僕は、主人公だ。セーブなんていう卑怯な力とゲームの知識を持って、別の世界からやってきた存在だ」
結局、僕はゾロアの言葉を否定することができなかった。主人公とは、プレイヤーとは、卑怯なのだ。
「ハッ、開き直ってんじゃねえぞ劣等種がッ! 私たちこの世界の住人の命を、おもちゃみたいに弄びやがって────!」
「…………確かに、この世界の住人から見た僕らプレイヤーは、理不尽な存在かもしれない」
僕は思い切り剣を振り、闇を斬り払った。
「でも──いや、だからこそ。プレイヤーは…………主人公は、戦うんだ」
それが、ゾロアの言葉を受けて僕の出した答えだった。
「安全な場所からコントローラーを握ってキャラクターを操作するだけ。死んでもリセットすればいい。ゲーム外から知識を持ってきたって許される。そんなポジションにいる僕らだからこそ、真剣に向き合いたいんだよ」
たかがゲームに本気になって──と、笑う人もいるかもしれない。それでも、少なくとも僕はそうしてきたから。
「こんな卑怯な力が許されたのはプレイヤーだけなんだ。プレイヤーが動かなくちゃいけない。『お前にしか世界は救えない』──RPGなんかじゃ定番のセリフだ。その通りなんだよ。プレイヤーと、それが操る主人公にしか、世界は救えないんだ」
僕らプレイヤーは、卑怯な力を持った責任を果たさなければならない。この世界の住人たちは限りある命を生きている。それを一つでも多く救うには、きっと何度だってやり直しが効く主人公が先頭に立たなければいけないから。
僕が操作して、彼が動く。それだけでいいのだと、知ったから。
「主人公であること──それが、僕が戦う理由だ」
「綺麗事をぉぉォオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」
その瞬間、闇が爆発した。
ゾロアを中心に影が放射状に広がり、空間を侵食する。
「ごちゃごちゃと戯言を並べ立てやがって……私は認めないッ! そんな卑怯な存在は絶対に認めないッッッ!!!!!! 何が主人公だ? 何がプレイヤーだァ? 卑怯な力を持った責任? 舐めた口聞いてんじゃねえぞ。お前なんかが恩着せがましくしゃしゃり出てこなくたって、世界はなるようにしかなんねェんだよ!」
それはきっと、実体験からの言葉なのだろう。
リリーナという圧倒的な存在ですら死んでしまうような世界。きっと何をしたって、無理なものは無理なのだと。ゾロアの中にはそんな諦観があるのかもしれない。きっとその感情こそが、今ゾロアが『人間』という種に対して八つ当たりをしている最大の理由なのだ。
今の僕に、返す言葉はない。きっとゾロアには、僕からの訴えかけは届かないだろう。
(…………戦うしかない)
圧が増した影は暴れ狂い、近くのコンテナが八つ裂きにされていた。このままでは僕らもアレと同じことになる。
「アトラっ!」
だからこそ、僕は声を張り上げた。
「立てッ! 戦うんだ、僕と二人でッ!」
「ぇ、ぁ、でも……私には……何も……」
何もできない。言いかけたその言葉が聞こえてくるようだった。
「そんなことはない!」
でも、違うんだ。アトラ・ファン・エストランティアという少女は、ただのお姫様から立派な魔法使いに成長する。
僕はそれを、知っているから──!
「いいか、アトラ。よく聞いてくれ──」
僕が話すのは、本来アトラがこの街で出会う高名な魔法使いのセリフ。
「『内なる精霊の声を聞き』『己の中に眠る魔力を、普段使わない神経に通す』」
テキストボックスに表示されていた文字、一つ一つをなぞるように。
『自分と精霊、二つの相反する意識を溶け合わせて』『唯一無二の自分を形作る』だ!」
それは、アトラが持つ本来の力を解放するための道標。
大好きなゲームだ。ヒロインの新アビリティ習得シーンなんて──
「アトラ。大丈夫、君ならできる」
もちろん、全セリフ一字一句完璧に覚えているに決まっている!
「僕を信じてっ!」
固定観念があった。新アビリティを習得するには、『高名な魔法使いに話を聞く』必要があるのだと思い込んでいた。しかし、その魔法使いは特殊な魔法を使った訳ではない。単に、魔法のアドバイスをしてくれただけだ。
必要なのは、情報だけ。それならば、セリフを全て覚えている僕が全く同じことを言ったっていいはずだ。
「な、何……っ? どういうこと……?」
「時間がないッ! 今言った通りにやってみて!」
困惑を露わにするアトラ。仕方がない。でも今は、詳しく説明している余裕もない。
「早くっ! そんなに保たないッ!」
後はもう、彼女を信じるだけだ。
☆★☆
アトラはただ、自分なりに言われたようにするしかなかった。
どんな意味があるのかも分からないが、この場でエイジがそう言うのだから、きっと何か策があるのだと。
『内なる精霊の声を聞き』『己の中に眠る魔力を、普段使わない神経に通す』。
身体中を流れる血流を意識する。普段生命エネルギーとして魔法に変換されているそれを、さらに全身へ拡張していくイメージ。大樹が根を広げるように、指先などの末端まで神経を通わせる。
すると、身体が熱を帯び始めた。魔法を行使した際に描かれる魔法陣のような、燐光のオーバーレイ。もともと金色のアトラの髪が、太陽のように輝く。
(内なる精霊……内なる精霊……?)
アトラはエストランティア城で暮らしていた頃、大精霊の末裔として禊や祝詞奏上、神楽といった神事を行っていた。精霊教の総本山でもあるエストランティア城では、そういった行事も多く開催される。
だが、アトラはそんな生活の中でも実際に精霊の存在を感じ取ったことはなかった。これら神事は、あくまで神に対して民の願いを送り届ける行為であり、相互コミュニケーションではなかったからだ。
だから内なる精霊の声を聞くというのは、アトラには想像し難いことだった。どうやればいいのかも分からない──はずなのに。
まるで、それまで足りなかった歯車が一つはめ込まれたかのよつに、全てが動き出した。
(なんだろう……この音。いや、声……?)
生命エネルギーの脈動が高まっていくごとに、どこからか声のようなものが聞こえてくる。
静寂に満ちていた湖面に生まれた波紋のように、それは次第に大きく広がり、やがて波打ち際に達する。
そして、アトラは自意識の深淵へと落ちていき──
瞬きをした瞬間だった。アトラは不可思議な空間に立っていた。
「あ、あれ……? ここは……?」
間違いなく、あの倉庫ではない。水平線の存在しない、距離感の狂う黒の世界。そこには、アトラにとって非常に見覚えのあるものが大量に転がっていた。
天蓋付きのベッド。使い古されたぬいぐるみ。何度も読み返されて擦り切れた絵本や伝記。そして、勉強に使ったであろうびっしりと文字の書き込まれたノートが床に散らばっている。それら全てが、まるで空き巣にでも入られたかのように無造作に転がっていた。
それを除けば、普通の子供部屋だ。それも、アトラが幼い頃使っていたものばかり。なぜか真っ黒な空間にぽつんと、自分の部屋があった。
「意味が分からない、という顔をしていますね」
突然声がかかって、アトラはビクリと跳ねて振り返った。
「だ、誰──」
真後ろから聞こえたその声の主は、流麗な銀髪を持つ美しい女性だった。金の装飾が施された純白のローブを身に纏い、いつのまにかそこに立っていた。印象としては……そう、ミスティをそのまま大人にしたような。
「あなたは、大精霊様……?」
まさかとは思いつつも、アトラは硬直したまま尋ねた。すると女性は微笑みを返し、頷いた。
「あまりかしこまらないでください。私はそんなに大それたものではないですので」
「え、ええ……?」
今にも跪きそうだったアトラは面食らってしまった。
確かに第一印象は、物腰の落ち着いた年上の女性という感じで、それほど特別な感覚はなかった。アトラが想像していた大精霊は、もっと神々しくて圧倒的で、神の威光の前には平伏すことしかできない──みたいなイメージだった。
(なんだか、お姉さんみたい……)
アトラに兄妹はいなかったが、姉がいればこんな感じかもしれないと思った。それほどまでに、初めて目にする大精霊ユグドミスティアは『普通』だった。
「姉さんと呼んでくれてもいいんですよ?」
「ぅええっ!?」
「それが嫌ならユグユグでも可。ユグドミスティアだと長いですから」
「いや、え、ええ……!?」
いや、嘘だ。
「まあ本当はひいひいひいひい以下略おばあちゃんなんですけどね」
「……」
心の中を覗ける一般人なんて、いるはずがない。
「とまあ、前置きはこの程度でいいでしょう。本題に入らなければ」
「ち、ちょっと待ってください! ここはどこなんですか? なんであなたのような方が、ここに……」
「敬語なんて使わなくてもいいんですよ。この世界の主人はあなたなのですから。さて、順を追って説明するとしましょう。まずここは、あなたの魂の奥底──その一部分です」
「魂の、奥底……?」
自分が自分の魂の奥底にいるとは、一体どういうことか。
「魂には二つの構成要素があります。『意識領域』と『無意識領域』と言えば、聞き覚えがありますか?」
「!」
霊魂階層論。レイノルドの語った理論だ。
「ここはその、無意識領域に当たる空間です。あなたの一番深いところにある心象風景と言い換えてもいいでしょう」
身近で起きた出来事や物の名前など、忘れてもあまり問題がない記憶を『意識領域』。自分の名前や喋り方、箸の持ち方といった生きる上で必要な記憶を『無意識領域』といい、それら二つを合わせて人間の魂とする理論。
つまりこの空間は、アトラにとっての『忘れてはならない記憶』の断片ということだった。
「なんで、この部屋が……?」
だが、アトラにとってはよく分からなかった。多くの時間をこの部屋で過ごしたとはいえ、ここはただの部屋。自分を形作る要素となったような何かがあるとは──
「今はまだ分からないかもしれませんね。人間、自分自身のこととは意外にも理解できていないものです」
全てを教えてくれる訳でもないらしい。自分で理解しろ、ということなのだろうか。
「とはいえ、あなたがこの空間にやってきたことには意味があります」
大精霊はベッドの縁に座ると、ぽんぽんと隣を叩いた。あなたを座りなさいというジェスチャーに、アトラは首を傾げながらも従った。
「あなたは今、危機的状況にある。そうですね?」
「っ、そう! そうなの! 私、捕まっちゃって……人質交換になって、メイちゃんが……」
メイが機能停止と引き換えにやり直すチャンスをくれた。それでもまだ、状況は好転していない。
「それでエイジくんが私に、何かしろって……」
「安藤影次……彼は、非常に特殊な存在です」
大精霊にとっても彼は未知の存在らしく、楽しそうに微笑んで足をぷらぷらと揺らしている。
「彼は『主人公』です。私達の住む『天球』と対になる星、『地球』からやってきた彼は、単に未来の知識を持っているだけではありません。その未来にたどり着くよう、物語を進める力を宿しているのです」
ユグドミスティアの言葉には分からない部分も多かったが、逆にピンとくる点もいくつかあった。
「例えば、ハザマ・アルゴノートの事例。彼は、世界一の剣士を目指して騎士団に入団した青年です。彼は才能もあり、実際剣の腕もそれなりにあった。しかし、これまでいくら鍛錬を繰り返しても、常人の域を出ることはなかったのです。しかし、安藤影次という存在に接触したことで、彼の物語が進み始めた。結果、どうなったと思います?」
一泊置いて、ユグドミスティアは答えた。
「『三斬火』。それまで全く兆候すらなかったのに、彼は魔技を習得するに至ったのです」
「……!」
アトラの知る限り、それまでハザマが魔技を使ったことは一度もない。確かに、『安藤影次と出会ったから習得できた』ということがトリガーになっている可能性はある。
「なら、ミスティがやってきたのも……?」
「アレについての話は、私とて迂闊にはできないのでこの場ではノーコメントとしておきましょう」
迂闊にできないとは一体どういうことか、と思うものの、ノーコメントと言われると聞き返すこともできなかった。
「とにかく、安藤影次という存在は周りの人物の物語を進めるのです。ハザマやメイ、ルナはもちろん、ルインフォードやゾロアだって例外ではありません」
ふと、ユグドミスティアはどこかへ視線を向けた。
「この小説を読んでいるそこのあなたなら想像できるかもしれませんが、物語開始時点で登場人物達がレベル1なのはおかしいんですよ。だって、それまでの人生で一度も経験値を得ないなんてことはありえないのですから。そういう意味で、主人公が物語を始めたことで周りの人々の物語も動き出すのです」
「え、誰と──」
「あ、こちらの話です。アトラは気にしないでください」
前置きが長くなりましたね、とユグドミスティアはアトラに向き直り。
「何が言いたいのかというと」
アトラの手を優しく包み込んで、ユグドミスティアは力強く宣言した。
「それは、あなたも同様であるということ。あなたという物語は、今新たに動き始めたのです」
「────!」
アトラ・ファン・エストランティアの物語。
皇女という立場ではありつつも、『普通』だったアトラの人生が、物語的に変貌を遂げ始めている。
「彼の言葉は、その一つ一つが周りの人々の人生を変える。予定調和を破壊し、定められた限界を超えて、新たな物語を紡ぎあげる。主人公の本質たる、ご都合主義の体現者。英雄譚の代筆者は、幸せな結末に向けて世界を書き換える」
ユグドミスティアは、虚無が広がる黒の世界に手を伸ばし。
「さあ、巣立ちの時です。もうあなたは、鳥籠の中の鳥ではない。その扉は彼が開けた」
慈しむように、その手を握りしめた。
「安藤影次が主人公だとすれば、アトラ・ファン・エストランティアはヒロインです。都合のいい奇跡だって、許されるのですよ」
「で、でも、私にはどうしたらいいか……。あなた、神様なんでしょう? 私の代わりに、この状況をどうにかして──」
「私は、あなたが思っているほど超越的な存在ではありませんよ」
この世界の神はしかし、自分にできることはそれほど多くないと語る。
「この世界を見守ることはできても、実際に影響を及ぼすことはできません。ここにやってこれたのも、あなたの中に流れる皇族の血を辿ってようやく現れることができただけ。私にできるのは、せいぜい言葉を重ねて……あとは、ちょっぴり背中を押すことくらいですから」
少し残念そうに苦笑いするユグドミスティアを見ていると、やはり姉がいたらこんな感じなのだろうかと思わずにはいられなかった。
「さあ、そろそろ時間です。元の世界に戻りましょう」
立ち上がり、こちらへ手を差し伸べるユグドミスティア。
「あなたの中には皇族としての責任が強く居座っていて、一人でどうにかしなきゃいけないと思い込んでいる。でも、今は違う。あなたはヒロインです。主人公や仲間達と手を取り合って進めばいいのです。ヒロインだけで完結する物語は、存在しないのですから」
今はまだ分からなくてもいい。でも、誰かと手を取り合って進めば、その先に解答はあると。
「彼の言葉を思い出してください。理屈を理解する必要はない。ただ言葉一つ一つを、胸に染み込ませればいい」
『自分と精霊、二つの相反する意識を溶け合わせて』『唯一無二の自分を形作る』。
安藤影次の言葉は人を変える。
「あなたはもう、一人じゃない」
アトラは釣られるように、ユグドミスティアに手を伸ばした。そして二人の指先が触れ合った瞬間、大精霊の身体が解けるように光の粒子に変わり、アトラの胸の内に吸い込まれていった。
──お行きなさい。あの、光差す方へ。
アトラは、まるで見えない糸に引っ張られるようにして立ち上がった。
自分一人でどうにかしようと生きてきた。うまくいかないことはたくさんあった。誰かを頼れる立場じゃないとばかり思い込んでいた。
「……違うんだ」
真の意味で、誰かを頼るということ。
心の底から、仲間を信じるということ。
寄りかかられるのには慣れていた。でも、寄りかかったことはなかった。
だから今日は、寄りかかってみよう。
彼ならきっと、許してくれる。
──いってらっしゃい。
どこからか響いたその声に、アトラは強く頷いた。
そして。
そして──。
アトラは、一言。
胸の内から溢れ出したその言葉を、口にした。
「──『臨壊』──」




