第049話 リセットボタンを押してください
「い、嫌……そんなの、できるわけ──」
「お前に断るなんて選択肢はないはずだぞォ? アトラ、お前一人でこの状況をどうにかできるのか? ちょっと魔法が使えるだけのただのお姫様に、何ができるっていうんだ? アァ?」
床に転がったままの短剣。へたり込んだ少女。一生人間を弄ぶと決めた、歪みを抱えた男。
この状況を打開する術が、アトラにはない──それは事実だった。
アトラは皇女として強く生きねばならないと自分を律しているが、しかし同時に今の自分が決して強くないことも知っていた。
ゾロア・ブラッドロウは、今のアトラにとって一対一で勝てる相手ではない。
メイとエイジを捕らえ、最も厄介なミスティをハザマもろとも舞台から引き摺り下ろし、アトラだけを残す。この状況を作り出されてしまった時点で、詰んでいた。
ゾロアは絶対に、自分が不利な条件では戦わなかった。狂笑の裏に隠された冷静な計算──その結果が、この展開だった。
唯一残された道、それは『リセット』。
ゲームのプレイヤーは「ああ、これじゃ勝てないな」と分かった時、簡単に物語をやり直すことができる。セーブ機能とはそのためにあり、娯楽として成立する。
しかし、裏を返せばそれはゲームのプレイヤー──つまり主人公にのみ許された神の力。今風に言えば、『チートスキル』なんて言い方もできる。
一介の登場人物には、物語のやり直しなんて卑怯な技は使えない。
今この場でアトラにできることといえば、プレイヤーたる安藤影次に全てをやり直してもらうことしかない。
そのトリガーは死。つまり、彼を殺すこと。
ゾロアはその全てを理解した上で、蜘蛛の糸を垂らした。目に見える希望を影で覆い尽くした上で、あえて一筋の光を見せる。
「私としては、このまま二人を拘束して帰ってもいいんだがなァ」
「ぐ……っ、アトラ、頼む……それしか、ない────!」
アトラは、縋るしかない。
「託すんだ、次の……僕に────!」
安藤影次は死んでもセーブ地点に戻されるだけ。アトラもそれを聞かされていたし、実際彼が未来を見てきたかのような言動をすることからもそれは証明されていた。
だが、アトラはそれをエイジから聞いただけだ。実際にリセットされているのはエイジ本人のみ。本当に死んでも平気なのかどうか──
「いや、嫌よ!! そんなの、無理に決まってるじゃない……ッ!」
駄々をこねる子供のように、アトラは首を横に振る。
無理だ。エイジを殺すなんて、できるはずがない──アトラは多くの責任を背負う皇女という立場だが、その根底にあるのは結局のところただの年相応の女の子なのだ。まだ二十歳にも満たない少女に背負わせていいものじゃない。
でも、そうやって結論を先延ばしにしたところで、状況が変わらないのもまた事実で。
「僕を信じてくれ、アトラ……っ」
アトラにできるのは、信じることだけだった。
「私、は……」
視界がぐらつく。手足の感覚が遠い。思考に靄がかかって、正常な判断ができなくなる。焦燥、不安、恐怖──そういった感情が、精神をかき乱していく。
ゾロアは変に煽るようなこともせず、アトラが苦しむ様子を楽しそうに眺めていた。変にちょっかいをかける必要はない。ここまでくれば、あとはもう勝手に崩れていく。その男は、人間は極めて脆いということを知っていた。
「私は……っ」
ゾロアが放り投げた短剣は、手の届く範囲にある。
もし自分に近接格闘の心得があれば、その短剣を手に取り、意表を突いてゾロアを刺すことだってできたかもしれない──アトラはぎゅっと拳を握った。
だが、ろくに世間すら知らないアトラにそれを求めるのはあまりにも酷だ。
何もできない。
そう。ゾロアは徹底的に、アトラに何もさせなかった。直接戦闘では勝てず、仲間がいるから一人逃げ出すこともできない。アトラが取れる選択肢を限りなくゼロに近づけた。
結果、唯一取れる選択肢として残されたのは、エイジを殺すことだけだった。
リセットボタン。ゲームにおいては一般的で、ありふれたシステムだ。ボタンを一つ押すだけで、それまでのプレイを破棄し、やり直す事ができる。ゲームによっては、進行不可となってしまういわゆる『詰み』が存在するものもある。それらを回避するためにも、リセットの仕組みは必要だ。
まさに、今の状況は詰みだ。ゾロアは王手まで計算づくだった。
アトラの前には今、リセットボタンがある。盤をひっくり返す事ができるジョーカーだ。
トリガーはエイジの死亡。
「ぅう……ぁ……っ」
ゾロアの気が変わらないうちに決断をしなければいけない。気まぐれで何を考えているのか分からないあの男は、いつ「やっぱりやめた。アトラを殺す」と言い出すか予想できない。
そしてアトラは、静かに足元に手を伸ばして。
短剣を手に取った。
「ィヒィ…………」
ゾロアの口角が上がった。
鋭利な切っ先がカタカタと揺れている。アトラの手が震えているのだ。
自分は今、どんな表情をしているのだろう。きっと酷い顔をしているに違いない──少女は助けを求めるように、エイジを見た。
「……」
エイジは、黙って笑顔で頷いた。
──大丈夫、心配はいらないと。
信じる、信じる、信じる。自分に強く言い聞かせて、力一杯短剣を握りしめる。万が一にも取り落とさないように。そして、せめて苦しまずに終わるように。
(覚悟を決めるんだ、私…………)
他に道はないのか。必死に考えても、答えは見つからない。ゾロアに単身で勝てるビジョンが、アトラにはどうしても見えなかった。
──だからもう、これ以外の選択肢はない。
激しい抵抗があった。たとえ次の彼に託すためとはいえ、自らの手で彼を殺めるなんて、考えるだけで頭の中が掻き乱されて吐き気がした。
これまで何度も窮地を救ってくれた。いやきっと、アトラが知らないだけでエイジはループを繰り返してもっともっと辛い目に遭っているのだ。
そんな彼に──本来するべきは感謝のはずだ。それなのに……。
実際に死という恐怖を味わうエイジに比べれば、アトラの背負う宿業など大したことはない。そう言い聞かせて、言い聞かせ続けて──
「ごめん。ごめんなさい、エイジくん……っ」
何度も謝罪の言葉を述べながら。
「今の私には、こうするしか、道は……」
腹の底から湧き上がってくる嫌悪感を無理やり押さえつけながら。
「ぅ──ぁあああぁああぁあああああああッ!」
アトラは、身動きの取れないエイジの胸に向けて、正確に、まっすぐ、刃を突き入れた。
「ぁ、がは……っ」
ざくり、という肉を引き裂く嫌な感触が手のひらから腕を伝わり、全身に伝播した。
エイジが吐きだした鮮血が、アトラの頬を汚す。
彼は、最後まで笑っていた。急速に薄れゆく意識の中で、アトラを安心させるために、短剣を掴んだままこわばって動かなくなってしまった手を優しく包み込んだ。
「ぁ、ぁ、あ……」
影が解かれていき、エイジは自由の身となった。しかし──彼にはもう、自ら歩む力は、残されていなかった。
瞳からは光が失われて──そこに待っているのは、死のみだった。
どさり、と崩れ落ちる少年。血溜まりが急速に広がっていき、代わりに生気が抜け落ちていく。
血に濡れた短剣が、天井の明かりを反射してぬらりと輝いた。その刃が命を奪ったのだと、明確に告げていた。
これしかなかったのだと、そう分かっていても。どれだけ自分に言い聞かせてみても、肉を引き裂き、穿ち貫く生々しい感覚が手から消えることはない。
「ァハハハハハハハハハハハハハハハ!!!! アハ、アハハハハハハハハハハハハ!」
ゾロアは、満足したと言わんばかりに声を上げて笑った。
「なァにが主人公だよ! 結局、死んでやり直すなんて卑怯な力に頼らないと何もできない雑魚じゃないか!」
人を小馬鹿にするような態度。弄び、手のひらの上で転がし、劣等種たる人間が無様に足掻く姿を見る。それがゾロアのやり方だった。
「ナァ……お前ンとこの世界だとこう言うんだろ?」
身を捩って腹を抱えていたゾロアは、いきなり動きを止めてギョロリとアトラと倒れ伏した少年を覗き込んだ。
そして悪意が、ゾロアが誓った人間への復讐が、炸裂する。
☆★☆
疑問に思ったことはないだろうか。
主人公がゲームオーバーとなり、死んでしまった時、残された人々は一体どうなっているのか。
主人公、つまりプレイヤーという主観視点しか持ち合わせていない自分では、絶対に知り得ない世界。
つまり──失敗した世界の、その後。
☆★☆
「……へえ。お前──普通に、死ぬんだな」
ゾロアの声を聞いてようやく、茫然自失としていたアトラは我に返った。
「ぁ……れ……」
セーブ&ロードの仕様について、詳しく知る者はいない。エイジ本人ですら、一体どういう原理なのか分かっていないまま利用しているのだ。
だから、エイジが死んだ時何が起こるのかも、未知だ。
アトラが知っているのは、セーブポイントと呼ばれるアトラたちには見えない本をエイジが触ることでその時点までの出来事が保存され、エイジが死んだ時そこに記憶を保持したまま戻される、というものだった。
アトラはてっきり、何か特殊な力で時間が巻き戻っているとばかり思っていた。だから、命が失われた瞬間何もかもを投げ出してエイジに託せばいいのだと、そう思っていたのだ。
自分にはもうどうにもできない、でもエイジがなんとかしてくれる──と。
だが。
「な、なんで……」
エイジの亡骸は、変わらずそこにあった。
アトラが殺した少年は、血の池の中心に横たわっていた。
(私が……私が、殺し──)
途端に、胃の中身がせり上がってくるような感覚が襲ってきて、アトラはえづいた。
「ンンン、どういうことだ? こいつは確かに『前回』の知識を持ってる。っつーことは、今起きた出来事の記憶を丸々抱えたアンドウ・エイジだって、どこかにいるはずだ」
ゾロアも同じように疑問を抱いたのか、首を傾げていた。
「アンドウ・エイジは、どこにいった?」
☆★☆
この世界に異常は起きていない。ただ少年が一人、死んだだけ。
「なんだなんだなんだ? あいつの魂はいったいどうなってるんだ? ハハハ、ハハハハ! 面白い! なんだこれは!」
ゾロアの脳内ではいくつか仮説が生まれていた。
例えば。
世界が大樹のようにいくつも枝分かれしており、その分岐点がセーブポイントだとする。アンドウ・エイジは死ぬたびに分岐点まで道を遡り、『死んだ枝』とは別の枝を歩き始める。
つまり、今この世界はアンドウ・エイジが死んだ枝だ。エイジの魂──つまり『主観』は既に前回の枝分かれポイントまで遡り、別の道を歩き始めているのかもしれない。
しかし、だからといって突然この世界がなくなる訳ではないのだとしたら。一種の並行世界として、残されるのだとしたら?
それはつまり、ゾロア・ブラッドロウが主人公に勝ち、この世界における真の主人公になったということに他ならないのでは──。
今この世界にいるゾロアの主観では、エイジは死んだ。それだけは揺るがぬ事実。
きっと並行世界のどこかでは、この世界での知識を利用したエイジが活路を見出しているのだろう。だが知ったことか。この世界のゾロアは、この世界のゾロアだ。
「──勝った」
決して人は生き返らない。ゾロアを300年間苦しめ続けた不可逆の法則が、今だけは彼の味方をしていた。
「勝った! 私の勝ちだ! 私は神のような力を持った存在をも圧倒できるッ!」
圧倒的に厄介な存在を落としたことで、もはやこの空間においてゾロアに敵う者など皆無。思わず笑みがこぼれる。
ただ一人、『情報』を流してきたあの人物──奴は自らを『X』と呼んだ。そんな謎に満ちた『X』だけが気がかりだったが、奴は「実験を継続するためにも、今この場で自ら出ていくことはしない」と言っていた。奴の中に人知を超えた怪物の影を見たとしても、それを振るわないのであればいないも同然。喜劇の舞台に上がらないのであれば、ゾロアにとってそれはただの観客でしかないのだから。
欲を言えば『X』が一番捕らえたいが、ゾロアは一目見て敵う相手ではないと悟ってしまった。
『X』から情報をもらう上での条件は二つ。
『X』の素性を一切エイジたちに話さないこと。
『X』本人についての詮索をしないこと。
これらを破った瞬間にゾロアは殺されるのだという。今もどこからか監視されているのか、それは分からないが──きっと、いつでも殺せるというのは本当だ。ゾロアは無様にも、奴に戦いを挑み瞬殺されかけたのだから。
ゾロアが負けを認めることなんて滅多になかったが、こればかりは仕方ない。敵は恐らく、神か何かだ。
それに今のゾロアは、そんなことどうでもよくなるくらい気分が良かった。
「──これで飛躍的に研究が進む」
主人公を倒した。大精霊の血を引くという皇女と、天才レイノルドが生み出した自動人形が手に入った。ここ数十年でも類を見ない大収穫だ。
「悪いが、この技術は頂いてくぜェ……レイノルドォ……」
かつての戦友が長く苦しい研究の末に辿り着いた成果を奪い取る。ずっとこの機会を狙っていた。
人を生き返らせる。完全なる命を創造する。どちらも禁忌、目指す場所は近い。故にレイノルドが一生をかけて辿り着いたモノは、そのままゾロアの研究にも役立つだろう。
「っ……!」
異様な笑い声をあげるゾロアの様子に、影で縛られたままのメイが表情を強張らせた。
間違いなく、この二つの実験材料でゾロアの研究は大きく発展するだろう。
興奮が快感となり、全身を駆け巡っていった。ゾロアは、300年という長い人生の中でも何かに勝つという経験が極端に少なかった。だからこそ勝利の味に飢えており、切望し続けた。
それが油断となった──とまでは言わないが。
メイが目を伏せ、震えていることにゾロアは気がつかなかった。
☆★☆
目の前の惨状を、メイはただなすすべもなく眺めていた。
縛られて身動きが取れないまま、無力な少女は傍観を続けていた。
「……」
アトラが、倒れたエイジの隣に膝をついている。
メイは、エイジが死ぬ一部始終を余す事なく見ていた。
死ぬ事でセーブ地点から再開する特殊な力を持つ少年と、詰んでしまった少女。あの状況では、エイジを信じて行動を起こすしかなかった。それは間違いない。だが──。
「私、こんな……なん、で……」
その結果が、これだ。
血の池にへたり込むアトラは、いつものような凛とした佇まいが鳴りを潜めて、誰の目にも明らかなほど弱っていた。
──こんな終わり方で、いいはずがない。
なぜかは、今のメイには分からない。それでも、二人がこんな別れ方をしていいとは絶対に思えなかった。
あの二人は、幸せな再会をするべきだ。だってエイジは、あんなにも頑張っていたのに──。
人の心は分からない。それでも、努力には正当な対価が支払われるべきだという観念だけはメイの中にも燻っていた。
とはいえ、事は既に終わってしまった。
メイにできることは────。
「…………」
できることは、ある。
実験段階のこの身だが、今ならきっと間に合う。
それをすれば、自分は壊れてしまうかもしれないが。
きっとあの二人の幸せな再会の方が、ずっと大事だ。
メイは機械で、あの二人は人間。
優先すべきものを、優先するだけ。
「呟▼[向/自]──今の、ワタシにできるコト」
何の意味もなかった欠陥品が、最後の最後に生まれた意味を持てる。
それだけでメイは、満足だった。
だから。
「呟▼[向/無]さよなら、皆サン」
メイの胸元が淡く輝きを放った。そこに埋め込まれているのは輪廻核。中心部分で高速回転していた装置が次第に速度を落としていく。
やがて止まってしまうかと思われたが、違った。
逆回転を始めたのだ。
水色の光を放っていた輪廻核は、危険信号を表す赤に変色した。際限なく速度を高めていき、世界に異常が起き始める。
「っ、お前何をしたッ……?」
変化に気がついたゾロアがメイを影ごと外壁に打ち付けた。
「ぁ、グ……ッ」
メイは肺の中の空気を吐き出した。それでも胸の輝きは止まらなかった。
「随分と……調子に乗っていましたネ。ですが、残念デシタ。ワタシのせいで、あなたの作戦は失敗に終わル」
その時、メイは初めて作る表情を見せた。
「ワタシというガラクタに邪魔されるのデス」
今から壊れるというのに、少女は笑みを浮かべていた。
それは、「ざまあみろ」と言わんばかりの、野心に満ちた表情。
自分には何もないと思い悩んだ少女が最期にたどり着いたのは、この世界に爪痕を残すことだった。
そして──────。
「一度だけでイイ。世界よ、巻き戻レ────!!!!」
強い輝きが空間を埋め尽くした。それはメイ自身と、ゾロア、アトラ、そしてエイジの亡骸を包み込んだ。
反時計回りの力が、世界の法則を超える。




