第048話 決断
この十日間、僕もハザマもやれるだけのことをやった自信がある。
あれだけ細かな魔力制御を苦手としていたハザマが、不安定ながらもある程度継続して『覇付』を発動できるようになっていた。
僕も『無憑』をマスターして──と言いたいところだったが、まだ完成には至っていない。何度かそれっぽい現象を起こすことはできたが、形にはならなかった。
それでも僕は初めて、『魔法』──正確には『魔技』を使った。
それはとても不思議な感覚だった。
身体の中の血の巡りを意識する。普段意識することのない場所に目を向ける。そこからエネルギーを取り出す。
イメージとしてはハンマー投げが近い。普段はぐるぐる回っているだけのそれを身体から切り離すことで、エネルギーが放出される。
回転が速いほど強いエネルギーとなるし、よく飛ぶ。魔法も同じで、体内で回転速度を高めることで魔力、又は輪廻力は強い現象となって現れる。
輪廻力は魔力と違い、習得の難易度が一段高かった。
魔力であれば、自分の血の流れに逆らわずに意識を高めていけばいいのたが、輪廻力はそこからさらに『逆方向に廻る自分』を想像しなければならない。
ルナは、「鏡写しの自分を思い浮かべて」と教えてくれた。その曖昧な像を明確にする特訓が、この十日間の大半を占めた。
戦いながら、輪廻力を高めるための『己への意識』と、具体的な内容を定めるための『引き起こす現象の想像』を同時に行うのは至難の技だった。『魔技』は習得難易度が高いというのは分かっていたが、ここまでとは……。
そして。
僕は結局、そんな中途半端な状態でゾロアが指定した人質交換、その当日を迎えてしまった。
メイは既にいつもの無表情に戻ってしまっていた。レイノルドは眠れなかったのか、若干やつれていたが……かける言葉が思いつかなかった。それだけ彼とメイナ、そしてメイの関係性は複雑だった。
さて、僕らはこれからゾロアの待つと思われる場所──イヤホンの反応があった地点に向かわなければならない。できる限りの準備はした。あとはもう出発するだけだ。
しかし、ここで一つ重大な問題があった。
僕は研究所を出て、街の中心にある魔法陣で動く噴水の前に立っていた。
そこには、本が無造作に置いてあった。
「……」
言わずもがな、セーブポイントである。
これまで幾度となく僕らをゲームオーバーから蘇らせてくれたシステム。理屈不明正体不明、されど上手く使えば世界を救えるかもしれない、そんな謎に満ち溢れた本。
だが今回この場面において、僕は安易に本を触る《セーブする》ことができなかった。
理由は、ゾロアの読めない行動にあった。
簡潔に言えば、アトラが既に無事じゃない可能性があるのだ。
セーブの仕様については未だに謎が多く残されている。もしここでセーブしてしまって、その後になって取り返しのつかないことになっているのが判明した場合、僕はもう戻ることができなくなってしまうかもしれない。
今死ねば、奇襲を受けたあの瞬間まで遡ることができる。あの時はハザマに止められたが──アトラが既に死んでいたり、グリムガルドの手に渡っていた場合、そんなことも言ってられなくなる。
一度上書きをすると、過去のデータは使用不能になってしまうのだろうか? そうだとすると、セーブのタイミングによっては『詰みセーブ』になる可能性がある。事実、ゾロアの奇襲によってそれになりかけたのだ。
もしセーブをしなければ、死んだ瞬間ここまでの特訓が全てなかったことになってしまう。必死にレベル上げをしたのに一回のゲームオーバーで水の泡になるのと同じ。それも十日分だ。
だが……。
「──ダメだ」
やはりセーブはできない。アトラの命には代えられない。ぶっつけ本番だ。
十分な準備をしたとはいえ、敵はあの『理想郷委員会』。ルインフォードの時のことを思えば、ゾロアに苦戦しないなんてことは考えられない。それに──
『へえ、奇襲成功……ってことは、この世界はまだ一周目ってことかな?』
何度も繰り返されたあのセリフが脳内を巡る。
なぜかセーブ&ロードによるやり直しの仕組みを知っていた。そこを突かれたのか、もしくは偶然なのかは分からないが、セーブ直後を襲われてあわや詰みかという所まで行ってしまった。
話を盗み聞かれた? それとも、どこかで誰かに聞いた?
まさか、僕たちが目的地を変えた時だけルインフォードがマルギット道中に来たのも、その『誰か』が場所を教えたから……?
黒幕がいるのかもしれない。僕らの情報を敵に流している存在が。
もし本当に黒幕がいるとして、そいつは僕と同じ現実世界から来ている可能性もある。僕以外に本が見えない以上、セーブの仕組みは側から見ただけでは分からないはずだからだ。
「僕だけが本が見える」ではなく、「現実世界から来た者だけが本が見える」であれば説明がつくのだ。
もう一つ、僕が一通りセーブ&ロードの説明したパーティメンバーも同じように仕組みを知っているが…………今それを考えるのはやめよう。きっといいことがない。
そういうことで、ルインフォードの時とは違い、ゾロアと僕らとの間に情報格差が少ない、もしくは全くない状態で対峙しなければならない。
もちろん今回の勝利条件はアトラとメイの生還だが、それを満たすためにはゾロアを撃破するのが最適解なのは間違いない。
黒幕についても問い詰めたい。きっと──いや確実に、戦闘になるだろう。
背後に見え隠れする黒幕の存在を確かに感じながら、僕は決意を固める。
間接的に『やり直し』が封じられたこの状況。ルインフォード戦とはまた異なる緊張感に包まれながら、僕は皆とともに舞台へ上がる。
☆★☆
そこは何かの倉庫だった。
マルギットの街はその構造上、広い空間を作りたい場合山に横穴を掘る必要がある。その倉庫も同じく、小さな入り口を潜ると、肌寒く薄暗い室内が広がっていた。
いくつかの明かりだけが室内を照らす無音の空間。コンテナが並び、そこに、僕とメイ、ハザマとミスティが歩み入る。
「ゾロア。いるんだろう?」
張り上げた声が閉ざされた空間に木霊した。僕はどこから出て来てもいいように未来視に意識を向けつつ、構える。
「……」
どこか遠くから、狂笑が聞こえてくる。
「──ィヒ、」
ズズ──、と本来平面でしかないはずの影が、まるで水面のように波紋を打つ。
「あれが、影使い……」
ハザマが後ずさる。それと同時に、ゆらりゆらりと黒い外套を纏った長身の男が影から這い出てくる。
蛇教者、ゾロア・ブラッドロウ。そして、その隣に──。
「アトラ……っ」
「んーっ、──!」
実体を持った影が縄のように少女の身体を締め上げる。口元まで塞がれて、自由を奪われている。
しかし、見た所外傷はない。特に何かをされた様子もない。彼女は、無事だった。
「おいおい、なんだいその疑いの目は? 私は言っただろう? 無事だ、傷一つつけちゃいない──ってな」
大げさに両手を広げてアピールする道化師。ケラケラと笑う姿は、やはり博士から聞いたかつてのゾロアと一致しない。何が彼を変えたのか……それはきっと、彼の物語だ。これはゲームではないのだから、知らない物語があって当然だ。だが、今その空白に迫る余裕はない。
「んじゃ、そこのお人形を頂こうかな?」
背中を押されたアトラはたたらを踏みつつ、前に出る。キッとゾロアを睨みつけるが、当の本人は全く気にしていない様子だ。
「拘束は解くが、あまり喚き散らすなよ? 黙って、静かに、前に向かって歩くんだ」
数十メートル向こう。影の拘束を解除されたアトラが、悲しげな表情でこちらを──メイを、見据える。
その瞳が明確に語っていた。
──ダメだ。自分のためにメイを犠牲になんかしちゃいけない、と。
「……」
一歩、また一歩と二人の少女が歩み出る。メイの背中が遠ざかっていき、代わりにアトラがこちらへと近づいてくる。
「そうだ。そのまままっすぐ、振り向かずに進め」
ゾロアはニヤニヤといやらしい笑みを貼り付けたまま、外套のポケットに手を突っ込んでいる。
こちらも下手に動けない。ゾロアが何か仕掛けてくるかもしれない以上、奴に対する警戒も解けない。
やがて、二人の少女がすれ違う。メイはアトラを見ることすらせず、ただ機械的に歩みを進める。それでいいのだと、言葉なしに主張していた。
「アトラ……」
目に涙を溜めつつ俯く少女。ローブの裾を握りしめて、悔しそうに震えていた。僕と目が合っても、すぐに逸らしてしまう。
「ごめん、私……」
「アトラは何も悪くない。奇襲に気づけなかった、僕らみんなの責任だ」
人一倍責任感の強い女の子なのは知っていた。彼女は皇女で、誰よりも前に立って歩かねばならない──そう考えている部分がある。
抱え込みがちなのも、知っている。今は存在しない、月夜に輝く一筋の涙を見た日。
「いいんだよ、気にしなくて。だから──」
手を伸ばす。彼女を迎え入れてやる。
停止した時間も含めて、僕らが離れ離れになっていたのは二週間に満たない。それなのに、アトラの姿を見ていたら涙が出そうになった。
「ダメなの」
「……え?」
しかし、アトラは途中で歩みを止めた。
「そこには、行けない」
「な、なんで!」
駄々をこねる子供のように、少女は首を横に振った。
意味が分からなかった。メイを見捨てるから? 自分だけ助かるのが許せないと、そういうことか?
だとしても、今はそんなことを言ったって仕方ない。メイを助けるにしても、まずは自分が助からなきゃ意味がないのに。
「こ、来ないで!」
一歩踏み出すと、アトラも一歩引く。一定の距離を保とうとする。謎の行動の理由は掴めない。
「何言ってるんだ、アト────」
しかし次の瞬間、思考を駆け巡ったのは警鐘だった。
アトラが何を言わんとしていたのかを理解する。『未来視』──僕らの未来を占うそれは、はっきりと『凶』を示していた。
「まずいっ」
僕は慌てて下がろうとするが──
「ショータイムだ」
遠くから、パチンと指を鳴らす音が聞こえて。
同時、黒の奔流が視界を埋め尽くした。
☆★☆
指を鳴らすと同時に作動したのは、一つの魔法陣だった。
アトラのローブに描かれた黒文字。その魔法陣は任意のタイミングで発動でき、対象の影を操るという魔法だった。事前にゾロアが仕込んだものだった。
アトラはそれを知っていた。わざわさゾロア本人に伝えられたからだ。
しかし、喋ることは許されなかった。口に出そうとしたら、その瞬間ゾロアが魔法陣を起動する。アトラの影は実体を持ち、彼女自身を絞め殺すだろう。
おかしな行動を取るわけにもいかなかった。ただまっすぐ歩くしかない──しかしそれだけで、少女は仲間を危険に晒す。言うなれば、歩く爆弾。
自分の身と仲間の身。どちらが大事か。
死にたくない。そんなのは当たり前だ。それでも、自分一人のせいで仲間みんなを危険な目に遭わせるのだけは嫌だった。それがアトラという少女だ。
だから、ギリギリでアトラは選択をした。仲間を生かすために。
アトラが選択をした瞬間、ゾロアは魔法陣を起動する。そしてそれを予知したエイジが反応をする。ハザマやミスティが呆気にとられているその一瞬に、エイジは勝負に出た。
☆★☆
溢れ出した影が触手のように──あるいは蛇のようにうねり、実体を持って殺到する。
「ぁ……っ」
アトラの短い悲鳴を聞きながらも、僕は体勢を低くして剣を抜いた。
剣聖であるルナの元で、短い期間ながらも全力で戦闘技術を磨いた。素人に毛が生えた程度だが、ブライトの身体は吸収スピードも速い。
魂はまだしも、少なくとも身体は世界を救う英雄の器なのだ。
「──────ッッ!!!!」
刹那のうちに数本の影を斬る。本体から切り離された影は塵となって消えていった。
ゾロアの扱う影が、実際どのような物質なのかは全く分からない。しかし僕の中には知識があった。
火、雷、光属性のいずれかであれば、この影は切断や破壊が可能であるということ。
要は、それ自体が明るさを持っている力ならば、影は斬れる。
そして、エイジはマルギットでのボスがゾロアであることを知っていた。本当はもっといろいろな場所を見て回った後に出会うはずだったが、事前の準備はここに来て効果を発揮した。
『写し身の閃剣』
鏡面のような輝きを持つ剣。
──光属性。
僕は迫り来る影を切り落とし、ひとまずの安全を確保した。しかし、胸をなで下ろすことはできなかった。
「ひゃあ──っ」
影が襲ったのは、僕だけではなかった。背後にいたハザマやミスティにまで魔の手を伸ばしていたのだ。
(ダメだ、自分の身を守るのが限界──)
二人を守るまでは手が回らない。それに、未来視で予見できた僕とは違って二人にとっては正真正銘の不意打ちだ。ゾロアは僕の未来視がどこまで対応できるのかを完全に把握しているとしか思えなかった。
「だ、大丈夫か!?」
安否を確認するが……返ってきたのは、一人分の返事だった。
「俺ぁ大丈夫だ。だが、ミスティが……」
ハザマは、習得したばかりの『覇付』で炎を纏い、影を焼き切って難を凌いだようだった。陽炎のように揺らめくその向こうで、沈痛な面持ちのハザマが膝をついている。
「ミスティ……っ」
銀髪の小柄な少女は、痛撃を浴びて地に伏せていた。
ミスティが扱う魔法は、氷属性だ。影に対して有効打にはならない。先の三属性以外ではどうやっても破壊できないとなれば、流石のミスティにもどうしようもなかった。
それでも拘束されるのは防いでいた。エネルギーを失い、魔法陣の輝きが収束すると同時に、無数の触手を伸ばしていた影も地面へと吸い込まれるように消えていった。
「…………ハザマ」
僕はここで決断をしなければならなかった。
「ミスティを連れて、安全な場所へ」
「いいのか」
ここで時間をかけるのは得策でないと分かっているハザマは、一言だけそう聞き返してきた。僕は頷くことでそれに返す。
「……分かった」
ハザマが聞き返したのは、言うまでもなく「戦力が欠けた状態で大丈夫なのか」という確認だった。
もちろん、大丈夫な訳がない。ルインフォードほどの理不尽な強さではないにしても、本来四人で挑むはずの敵に二人も欠けた状態で勝てるのか……。
それでも、今ここでミスティを放置するという選択肢はなかった。
セーブを、していないのだ。
ここで誰かを失う訳にはいかない。全員生存、これが絶対条件だ。
「後は任せた。すぐに戻る」
こういう時に限って冷静なハザマの声を背中に受けて、僕は正面を向く。
ミスティは恐らく意識を失っているだけだ。ここから離れれば大丈夫。ミスティを安全な場所まで運んだハザマがここに戻ってくるまで──僕らで、耐久できるか。
タンク不在のパーティがどれだけ脆いのか、多少なりともゲームを触ったことがある人ならば分かるだろう。酷ければ、速攻で落とされる可能性もある。
ハザマがミスティを連れていき、場には僕とアトラ、そして遠くにメイとゾロアが残されるのみとなった。
「ぁ……ぁ……」
呆然としてうめき声をあげるのは、アトラだった。
「私が……私の、せいで……」
「違う! 君のせいじゃない! しっかりしろ!」
どれだけ言葉を重ねても、アトラには届かない。
「ヒャハハハハハハハハハ! やっぱり人間は脆い! こんな簡単な罠で傷を負う!」
高笑いするゾロア。振り返って、背後で起きた惨状を目にして固まるメイ。
「っ、アトラ様──」
「おっと、暴れないでくれたまえ」
「ぁ、ぐ……っ」
咄嗟に走り出そうとしたメイを、ゾロアが影で捉えた。それはまさにとぐろを巻く蛇そのものだ。全身を這い回るように締め上げて、一瞬で拘束してみせた。
「メイちゃん……っ」
アトラはますます動揺していた。僕から見ても、冷静さを欠いているのは一目瞭然だった。しかし、いくら「落ち着け」と言ったところで無意味だろう。たとえ事実は違ったとしても、彼女がこの状況の責任を感じてしまうのは避けられない。僕には、彼女にかけてやれる言葉が思いつかなかった。
本来アトラには、マルギットの街で高名な魔法使いにヒントをもらい、新たなアビリティを習得するというイベントがある。そこで手に入れる力があって初めて、皇女は本領発揮する。逆に言えば、それまでのアトラは決して強くない。
今回僕らは、レイノルド博士との出会い以降、本来のシナリオから外れた場所を進んでいる。それは必然、アトラの強化イベントにもたどり着けていないという意味だ。
アトラは皇女だ。そんなお姫様に、戦いを強いているこの状況の方が悪いのであって、アトラに負い目は一つもない。
しかしそれを言って「はいそうですか」と分かってくれるような少女ではないこともまた、理解していた。
「エイジ、くん……」
虚ろな瞳が向けられる。膝をついて、震える手をこちらに伸ばそうとして──何かを躊躇った少女は、静かに手を下ろした。
今すぐにアトラの元へ向かうべきだった。僕にできることと言えば手を取って安心させてやることくらいだが、それでも行動を起こすべきだった。
一歩を目を踏み出せなかったのは、警戒。
彼女に、他にも何か仕掛けられているとしたら。これ以上距離を詰めると、未来視をもってしても対応しきれない可能性が高かった。
距離にして約五メートル。
僕とアトラの間に生まれた、見えない溝。
「私は何度も言ったよなァ? そのお姫様には傷一つつけちゃいない、と」
ああ、嫌になるほど正しかった。
アトラは一切の外傷を負っていない。代わりにゾロアが傷つけていったのは、心だ。
爆弾の運び手に仕立て上げることで、その責任を背負わせる。アトラは何も悪くないのに、彼女の真面目で責任感の強い性格がそれを許さない。
「ィヒヒヒヒ! どうしたんだ? せっかく助かったのに、膝をついてしまうなんて?」
ゾロアは、人間の弱い部分を知り尽くしている。どこを突かれるのが弱いのか、どこを攻撃されるのが痛いのか。それはかつて多くの戦に勝利をもたらした軍師だった名残か。
「いやぁ、悪いね。彼女について、まだ調べ足りないんだ。要らないってんなら、もう少し貸してくれよ」
「……」
自らの影で縛り付けたメイを空中で揺らしながら、ゾロアがゆっくりこちらへ歩いてくる。三日月のように弧を描いた口元から不気味な笑い声が響いた。
「…………」
僕は、何をしていたのか。
捕らえられたメイ。涙目で震えるアトラ。怪我をしたミスティ。
たった十日そこらの努力を守り抜くための保身。「死にたくない」──あまりにも一般的で、しかし今の僕には必要のない感情が、かつての誓いを反故にする。
「……ごめん」
決断力がないことは、知っていた。
ルインフォードとの戦いの時だって、僕は何度も間違えて、道を誤って……それでも正解を探して、やり直してきた。
間違えて、やり直す──きっと、僕はそういう人間だ。
だからこそ、『セーブ』と『ロード』が与えられたのかもしれない。
「……アトラ」
僕は無警戒に、少女へ歩み寄った。
「……ダメよ、まだ──」
まだ、罠がある。知っている。
「へえ、いいのかァ?」
これでいい。
僕は、首を横に振って後ずさろうとするアトラの前に、膝をついた。
そして──
「ぁ…………」
優しく、抱きしめた。
うめき声なのか、短い悲鳴なのか、そんな吐息が漏れて。
「おかえり」
最初に言うべき言葉は、きっとこうだったんだ。
分からないことや、解決しなければいけないこと。新たな出会いと、新たな物語。知ったからこそ抱えた問題。
今やるべきことを見つめ直す。僕がやるべきは、『死なないこと』じゃない。
アトラを、みんなを救うことだ。
「そうか。次の自分に託す、か。ならばご希望通りに──」
それを見たゾロアは笑う。
魔法陣が一つなはずがない。二重、三重に罠を張り巡らせているに決まっている。ゾロアはそういう男だ。僕はそれを分かった上で、行動に出た。
餌に飛びついてきた哀れな獲物を見るような、愉悦に満ちた表情を浮かべたゾロアは、再び指を鳴らそうとして──しかし、止まった。
「つまらないな」
トラップ式の魔法陣が作動し、再びあの黒き蛇が空間を侵食する。
無数の蛇が僕の体を貫き、激烈な痛みとともにあの闇に飲み込まれていくような感覚を味わうのだと──そう、思っていた。
だが、襲ったのは体を貫通する感覚ではなく、締め付けるような苦しさだった。
「エイジくんっ!?」
「なっ、に……を──」
実体を持った影は全身に巻きつき、捕らえた獲物を逃がさないと言わんばかりに締め上げてくる。アトラから半ば強引に引き剥がされて、蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のように空中に釘付けにされる。
全く身動きが取れない。自由に動くのは首から上だけ。だが……命が奪われた訳ではない。
目的が分からなかった。なぜわざわざ捕らえるなんて、回りくどいことを──?
「お前が今抱いている疑問に答えてやろうか?」
ゾロアは、嘘くさい笑みを顔に貼り付けて人差し指を立てた。
「残念ながら原理は教えてもらえなかったが、私はお前が死ぬとある一定のポイントから再び人生を再始動させることを知っている。ああ、非常に厄介だ。何度殺しても意味がない──という以上に、知識を持ち帰ることができるというのがな」
瞬間、僕はゾロアの言わんとしていることが理解できてしまった。
「なら、簡単だァ。殺さなきゃいい」
硬直する一同に対し、ゾロアだけは肩を揺らしてくつくつと笑い声を漏らしている。
「お前は既に一度、ループを経て私の奇襲をやり過ごしたことがあるだろう? 私の主観ではいきなり反応されたように見えるが、間違いなく違う! お前は、私に何度か殺されているはずだ」
立てた人差し指をゆっくりとこちらへ傾ける。
「『奇襲された』という知識を引き継ぐ。相対する上で最も厄介なのはここだ。なるほど『ゲーム』……遊戯と呼ぶに相応しい。君には、諦めない限り敗北や失敗という言葉が存在しないのだから」
セーブとロード。それは僕らゲームのプレイヤーにとって当たり前の機能だった。何も疑う必要がない、あって当然のシステム。ゲームがゲームであるための大前提。
「君の世界にあるという『ゲーム』の中で、私は敵役らしいな? なァ、どうにも不公平だと思わないか? そのゲームに、私たちが勝つ可能性は存在しないんだ。あらかじめ、主人公が勝つように設計されている。こんなのは、ただの茶番じゃないか」
「違う……」
「アァ? 何が違う? 絵と文章と機械の動作で組み上げられた箱の中で、倒されるために用意された私たちを切り捨て、なぎ払い、蹂躙するだけの紙芝居だろうが?」
「違うッ!」
それは、僕らが大切にしてきたものを踏みにじるような発言だった。それなのに、僕は拳一つ振り上げることができない。
「こんな不公平な力を有した圧倒的な存在を、機転を利かせて倒す。ヒヒ、こっちの方がよっぽどドラマチックじゃないか?」
まあこの場合は封じるが正しいが、とゾロアはコンテナに寄りかかった。
ゾロア・ブラッドロウ。博士から過去を聞いたことで、今までより鮮明に彼のやり方が見えてくる。
思い返せば、僕らはゾロアと真っ向から戦ったことが一切ない。これまでの衝突も全て、側面から狙い撃つような搦め手で攻めてきている。
どこからか聞き及んだ知識を利用し、システムの間隙を縫うような攻撃をしかけてくる。そしてそれは、ことごとく有効なのだ。
セーブとロードの弱点──死ななければ戻れないということ。僕ですらきちんと意識していなかったそこを、ゾロアは狙ってきた。
「このままお前には私の実験台になってもらおうと思ったのだが…………どうやら、お前自身にその『セーブ』などという力が宿っている訳ではないらしい。つまらないことにな」
何が目的なのかペラペラと喋り続けるゾロアは、不意に懐から短剣を取り出した。
「殺す訳にもいかないのだし、永遠に眠っていてもらおうかと思ったが──ひとつ、面白い余興を思いついた」
ゾロアはその短剣を地面に放る。からん、からんと音を立てて滑り、ちょうどアトラの目の前で止まった。
「ぇ……?」
「さて、英雄一行を名乗る皆さん。このままじゃ詰みだなァ。どうにかしないと『ゲームオーバー』、なんじゃないか? だからよォ──」
ゾロアはこれまで以上に歪みきった笑顔を見せる。その視線の先には、恐怖と困惑に表情を硬ばらせるアトラの姿があった。
そして。
「殺させてやるよ。アトラ、お前にな」
恍惚とした表情を浮かべたゾロアの、狂ったような高笑いが閉鎖空間に響き渡った。




