第043話 少年の核心、あるいは少女の好奇心
時の止まった空間。研究所の前、そのひらけた空間に僕らは集まっていた。
「なあ! お前、強えんだろ!」
「師匠と呼んで」
「なら、俺と戦ってその実力を見せてくれよッ!」
ハザマが前へ出た。大剣を振り抜き、ルナに向けて掲げる。
「……仕方ない。格の違いを思い知らせてあげる」
「ほ、本当にやるのか……」
とりあえず強そうなやつにあったら戦いをふっかけないと気が済まないタチなのだろうか。
まず勝てはしないだろうが……上限を知る、というのは実際にいい機会かもしれない。
「全力でいいの?」
「ああ、もちろんだ! いや、さっきの時を止めるのはナシで!!!!」
「あれは輪廻力の消費が激しいからそう連発できるものじゃないし、安心していい」
「ん、ならいいッ! エイジ、審判!」
「あ、ああ……」
僕は、いつか聞いたあのルールを思い出す。
「決められた範囲を一歩でも出るか、どちらかが降参したらその時点で決着。もちろん大怪我や死亡はご法度──だったよね」
直径15mほどの円を引く。観戦者はミスティとメイ。もちろんそこに、アトラの姿はない。いつかの光景を思い出して、また一つ胸に棘が刺さった。
「男が馬鹿って言うより、これはハザマさんが馬鹿なんですね」
「呟▼[向/ミスティ]やはり理解不能デス」
時が止まった空間に風は吹かない。外界から完全に遮断され、中の人間が誰一人動かない今、この世界は完全なる無音となっていた。
「それじゃあ、ハザマ・アルゴノートvsルナ・アストレアの決闘を始める」
「っしゃ来いッ!」
「一撃で終わらせる」
訓練用に用意されていた木剣を引き抜くハザマ。一方ルナは、腰に残したまま。抜刀術? 僕の半端な知識じゃ剣術のことは分からないが、その所作に一縷の隙も存在しないのは見て取れた。
そして──。
「両者、構え──始めっ!」
「────ッ!」
合図と同時、ハザマが飛び出す。やはり彼らしく、ここは先手必勝か。しかし、対するルナは落ち着いていた。腰に木剣を回し、まるで納刀状態のように手を添えて──。
「月華流剣聖術・春ノ型壱番──『無憑』」
月華流剣聖術。それはルナが操る、無数に型が枝分かれする多種多彩な剣術のことだ。
春ノ型壱番・『無憑』は無色の剣技。「憑き物の無い心で放つ」一撃は、予備動作すら付かない。斬撃の挙動をも省略してしまう。
構えて、振りかぶり、斬り、残心。その一連の流れはこの剣技には存在しない。構えから残心へと一気に飛ぶ──つまり、何が起こるかというと。
斬撃だけが、突然空間に現れる。
「ご、ぉあっ」
ノーモーションで、まるで見えない壁にぶつかったかのようにハザマが進行方向と真逆に弾き飛ばされた。
「がはっ、ぐへ、ごぶぅっ……」
ハザマがうめき声をあげて地面を転がる。しかし──そこはギリギリ、15m範囲内だ。
「……む」
それを見てルナがわずかに眉を動かした。
「──【戦闘狂】か。一撃で決める予定だった。まさか耐えられるとは。なかなかやる」
「……そうか」
ここでも発動、アビリティ【戦闘狂】。格上相手の場合能力値補正。この世界に来てからは大活躍だ。
「一撃で決める、なんて抜かしやがったからな。どうだ、見たかッ!」
僕はその瞬間を見ていた。ルナが何か構えた瞬間、ハザマは直感的に攻撃の気配を感じ取った。それはもちろんハザマにとって未知の攻撃であったが、しかし相手の「一撃で」発言から速攻であると適当に当たりをつけ、前面に木剣を構えて守りの体制を固めることだけはできた。事実その勘は当たった。
加えて言うならば、『無憑』自体の攻撃力もさほど高くない点も今回の結果に現れている。不意打ちなどの用途には最適だが、ガードを固めて突っ込んでくる相手にはさほど意味をなさない。
「ぐぬぬ。むかつく」
空色の長髪を掻き上げて、むすっとした表情でマフラーの裾を持ち上げる。どうやら想定よりも強かったハザマを見て、スイッチを入れ直したようだった。
「……そうか。あなたたちはルインフォードを倒してる。この段階でこれだけ強いのも納得」
何やらブツブツと呟きながら、今度はまた別の構えを取るルナ。そして──
「ほんきもーど・れべるわん」
刹那、圧が全身を駆け抜けていった。
それはルナから発せられたものだった。風の無い時の止まった空間なのに、何かに押されているような感覚すらある。
何を──と身構えようとした時、それに気がつく。
ルナの髪。その毛先。澄み渡るような空色の美しいそれが、赤銅色へと変色していく。まるでそれは、夜空に揺れる神聖な月が皆既月食によって姿を変えるようだった。
陽炎の如く空間が歪む。明らかに異常、確実に危険。彼女が敵でなくてよかったと心から思う。それでも、ハザマは──。
「いいねぇ!」
木剣を構え、身体を揺らす。機を見て始動。禍々しさすら感じさせるルナに恐れを抱くこともなく──いやむしろ、笑みを浮かべて突っ込む。
しかし。
「月華流剣聖術・死姫ノ型零番──」
瞬間、世界が暗転した。
「──『無明新月』」
暗闇に包まれた世界、そこに赤銅色の一閃が疾る。流星のように駆け抜けた一撃が、この世界に再び光をもたらす。
視界が取り戻された時、そこにあったのは結果だけだった。
ルナの納刀モーションと同時に、空を舞うハザマ。
「お、大人気ない……」
『無明新月』はルナの扱う技の中ではトップクラスの性能を持つものだ。
発動すると固有演出が入る、技の中でもさらに特殊な『秘技』に分類されるもの。臨壊とは異なるが、第二の必殺技と言っても過言ではない強烈な技。
「負けるのはきらい」
ルナの秘技、『無明新月』は単純明快だ。
距離無制限・必中。ただそれだけ。
どんなに離れた場所にいようが関係なく、ロックオンした相手単体に対して確実にヒットする斬撃。
完全なる『無憑』の上位互換。『無憑』が斬るモーションを省略する技であるならば、『無明新月』は移動すら省略する。
ゲームでは「そういうもの」として処理されていたので、現実でそれを目にするともう何が何だか分からない現象になっている。
ただ、間違いなく言えるのは、今のハザマに秘技をぶつけるのはあまりにも酷であるということ……。
「……こりゃ……師匠と……呼ばざるを……えな、い……世界一の剣士は、遠い、な……」
くたり、と力無く地面に崩れ落ちたハザマに合掌。落ち込む必要はない。たぶん今のルナの強さを端的に表すとしたら、4ルインフォードくらいだ。
「うーん、やっぱり自分の刀じゃないと本来の力が出ない」
ルナがコンッと木剣の刀身を手で叩くと、そのまま真っ二つにへし折れてしまった。ルナの技に木剣の方が耐えられなかったらしい。
「ハザマさーん、生きてますかー」
地に伏せたハザマを人差し指でつんつん突くミスティ。治癒魔法持ち、回復をしてやるという考えはないのか。
「呟▼[向/無]……」
メイは無表情。変わらずだ。
「いつ見ても惚れ惚れする剣術じゃのう!」
ルナと博士が旧知の仲なのは何となく察しがついていたが、どこで知り合ったのだろう? 博士の存在はゲームには登場しなかったはずなので、交友関係も謎だ。
「ふー、またつまらぬものを斬ってしまった」
ふぁさっ、と髪を払い若干ドヤ顔のルナ。これで自慢げなのはだいぶ性格が悪い気がする。『始まりの村から出た瞬間ゲームクリア目前のプレイヤーに狩られた』みたいなものだもんな……。まあ、彼女の性格的に負けず嫌いなのはよく分かるが。
あと、見ればその髪はすでに美しい空色に戻っていた。こんな危機的状況じゃなければ、封印解除で髪色が変わるというゲームの演出そのものな光景に感動の一つでもしていただろう。
……ということで。
「ハザマ、気にするなよ」
聞こえているかは分からないがそう口にしつつ、僕は決着を宣言した。
決闘──というより、ハザマがルナにボコられただけだが、勝者はルナということになった。さすがの強さだった。
☆★☆
「あなたたちは魔法を十分に使いこなせていない。今回は、それを知ってもらう」
ルナ師匠による魔法講座、その第一回は魔法の仕組みから始まった。
「この十日間での最終目標を決める」
ルナが提示した最終目標。それは、技の習得だった。
僕は春ノ型壱番・『無憑』の習得。
ハザマは秋ノ型八番・『覇付』の習得。
「え、僕も使えるの!?」
「やり方を理解すれば誰でもできる」
「師匠! 俺はあの暗くなってズバーってやるやつを使いてえ!」
「それは無理。2000年早い」
いつの間にか師匠呼びになったものの、すげなくあしらわれるハザマ。ハザマは悪くない、ルナがおかしいだけだ……。
ちなみにミスティは「私は特訓などしなくても強いので平気です」と、バルコニーでサボっている。まあ、実際パーティ内では現状彼女が最強なので文句はない。加えて言うなら、ルナも「ミスティには何も教える気はない」と言っていた。ルナから見てもミスティは強者であるということだろう。
「あなたたちは、まだ魔法の持つ力のうち半分しか引き出せていない」 ルナが言うには、魔法にはさらなる深淵があり、それを知れば飛躍的に技の性能が伸びるという。
「『輪廻力』の話は聞いた?」
「博士から軽くだけど」
もう半分、それは輪廻力の扱いに慣れることで手に入れられる力だそうだ。だが、ゲームにもなかった概念、輪廻力とは一体……?
「私がこの空間の時間を止めたのも輪廻力を使った技術。慣れればそういうことができるようになる」
「暗くなってズバーってやるやつも!」
「2000年」
「ンだよ!」
無明新月は諦めるんだ、ハザマ。
「でも、輪廻力なんてどうやって使うんだ……? 魔力ですらよく分からないのに……」
僕からすれば、魔法を使う感覚そのものが謎だ。臨壊も炎が出たりする訳ではないので、超常現象を引き起こしているような実感がない。
「【英雄の眼】は輪廻力を使って動いてるはずだけど」
「え」
「未来視なんて芸当、概念に干渉できる輪廻力じゃないと説明がつかないから」
言われてみれば確かに、「物理法則の延長線上にある現象を引き起こす」という魔力では説明がつかない。僕はどうやら自分でも気づかないうちに輪廻力を使っていたらしい。
となればハザマの【戦闘狂】は魔力で動いているということか。あれは単純にステータスが上がるだけだ。
「人にはそれぞれ得意不得意がある。エイジに魔力の扱いは向かない」
「うっ」
それはつまり、ファンタジーの定番である四属性の魔法などが使えるようになることはないという宣言か。この世界に来て魔法を実際に目にして、もしかしたら自分も使えるんじゃないかと期待していたがそれは叶わないようだ。
「裏を返せば、輪廻力の扱いは際限なく伸びる可能性を秘めてる。何せ、常時輪廻力を使用して眼を起動しているくらいだし」
「俺は!?」
「あなたは脳筋魔力バカだから輪廻力の伸びは最悪」
「アァ!?」
まとめると、僕は輪廻力が得意。ハザマは魔力が得意なので、それぞれの特性に合わせた技を身につけろ、ということだった。
「……まあいいや。その覇付って技がカッコよけりゃ、なんでもいい!」
「とてもカッコいい。これを習得すればあなたは不動の要塞と化す」
言うとルナは、早速実践とばかりにその技を起動して見せた。
「月華流剣聖術・秋ノ型八番──『覇付』」
剣術という括りにありながら、『覇付』は直接攻撃する技ではない。己の魔力を爆発させ、普段なら発散されてしまうその現象を自らの周囲に留め続ける。
簡単に言えば、オーラを纏うということ。
「こ、これは……」
ハザマが唸り声を上げる。
ルナの身体、その全身を覆うように揺らめくのは水色の光。無風の空間にあって髪は靡き、時折バチバチと黒い火花が舞う。
「……基礎能力の向上。全行動に対する属性付与。発動中のノックバックやのけぞりの無効、いわゆるスーパーアーマー状態」
覇付の持つ力を列挙する。この使い勝手の良さ、汎用性の高さ。どんな相手だろうと関係なく、とりあえず使っておけば間違いがない性能。ルナの持つ剣術の中でも圧倒的に使用頻度の高いものだ。
そして──ハザマには抜群の相性を誇る技でもある。
「この技は、使用者の魔力傾向に応じて色を変える。私が使うと空色──虚数属性になる」
虚数属性。説明すると非常に長くなるのだが、要はめちゃくちゃに強いルナ専用属性だ。
「じゃ、俺が使ったら……」
ハザマの得意属性、すなわち炎。
もし完璧に習得できれば、纏う力は熱を帯び、燃え滾る──それが覇付という技らしい。
「そういうこと。十日で習得して」
斬撃の軌道を消し去る武技、無憑。
発散する魔力を体に纏う武技、覇付。
習得に向けた特訓が今、始まった。
☆★☆
特訓一日目。この空間は日が傾かないので、空で大まかな時刻を知ることはできない。バルコニーでタオルを携えたメイが、「告▼[向/皆]十八の刻を回りましタ。本日の訓練終了予定時間デス」と教えてくれて、初めて僕らは今日一日が終了したことを知った。
「だぁはっ、ぁあー……」
ハザマがその場でぶっ倒れる。僕も地面に腰を下ろして、荒い息を整えた。
「この程度で根を上げていたら一生成長しない」
僕らが疲れ果てているというのに、一人で二人を相手に戦い続けていたルナはなぜか息一つ上がっていない。年は僕らと変わらないくらいの女の子なのに、どうしてここまで差が出るのか。
「今日はこのくらいにしておいてあげる」
「あ、悪役みたいなセリフだね……」
そんなやりとりを経て僕らはようやく解放された。直接の怪我は救護班(しぶしぶ付き合ってくれるミスティ)が直してくれるが、精神的疲労は自分たちで回復するしかない。
「呟▼[向/エイジ]……」
研究所前の階段に座り込んでいた僕だったが、視線を感じて振り返った。
「ん?」
「呟▼[向/エイジ]何も言ってまセン」
「いや、めちゃくちゃ何か言いたげだったよ今?」
完全にこちらへ向けられた視線だったと思う。
「呟▼[向/エイジ]……タオル」
「あ、ああ、ええと……ありがとう」
メイは相変わらずの無表情のまま、手に持っていたタオルを差し出した。僕のために持ってきてくれたのだろうか。それを受け取り、汗だらけの顔を拭う。
「……」
「黙▼[向/無]……」
沈黙が気まずい。生来のコミュニケーション能力の低さが露呈する。これまであった人物は基本的に『ゲームで知っていた人物』だから人見知りを発動することもなかった(まあミスティは例外として)。だが、メイは完全に初見だ。いくら機械だと言おうと、どこからどう見ても同い年くらいの美少女なのだ。それに、あんなことがあって後では……。
「そ、そうだ。朝はごめん。君に当たるなんて、僕は最悪だ……」
「答▼[向/エイジ]いえ、詳しい事情は分かりかねますが、ワタシの配慮が足りなかったのだと推察しマス。気にしないでくだサイ」
「そんなことない。悪いのは全部僕だ。僕を責めてくれ」
「答▼[向/エイジ]責めるつもりはありませんが……あの時のエイジ様は、確かにそれまでのエイジ様とは少し様子が違いましタ」
「そう……だよな」
会って間もないメイから見てもそうなのだ。あの時の僕はよほどおかしかったのだろう。自分でも分かっている。
「問▼[向/エイジ]不調の原因は何ですか? アトラ様の誘拐で、思考ルーチンに不具合が生じたのですか? 重大な不具合は発見次第すぐに報告をすべきデス」
「不具合、か。うん……確かにこれは、不具合なのかもしれないな」
メイの言葉に合わせるなら、アトラがいなくなった後の僕は欠陥品だった。
この世界に来てまだそれほど時間は経っていない。でもループを繰り返し、日本にいた頃とは比べ物にならないほど密度の濃い時間を過ごす中で、僕の中のアトラ・ファン・エストランティアはとてつもなく大きな存在になっていた。
それはあの日の月夜もそうだし、これまでの道のり全てにおいてそうだ。もともと大好きなゲームのヒロインだったアトラという少女は、この世界で実際に触れ合うことで文字通りかけがえのない存在へと成長していた。
それこそ、いなくなってしまうなんて考えられないほどに。
自分でも驚きだった。だからこそぐちゃぐちゃな感情を制御できなくなってしまったのかもしれない──なんて言えば、少し気取りすぎか。
「問▼[向/エイジ]アトラ様がこの国にとって重要なのは理解していマス。それでも、一個人であるあなたがそこまで取り乱す理由には足りないように感じますガ……」
「そうだけど、そうじゃないんだ。アトラは、僕にとって『皇女』ってだけじゃないから」
「問▼[向/エイジ]では、何があるト?」
「そうだなぁ……メインヒロイン、って言って分かるのかな」
「答▼[向/エイジ]物語における主役の女性。主人公に対応する存在、デス」
「……うん。そうだね。僕のいた世界では、彼女は決められたセリフを喋る、データで表現された存在だった」
「呟▼[向/エイジ]それは、ワタシのように機械の存在ということですカ?」
「いや、もっと実存性が低い……って言うのかな。その世界の技術では、簡単に言えば画面の中の絵が動いたりそれに合わせて音声が再生されたりするんだ。僕ら──プレイヤーは、コントローラーを操って画面の中に指示を出して、そこに描かれたキャラクターを操作して物語を楽しむ。それがゲームなんだ」
いつかレイノルド博士に説明したことを、さらに詳しくしてメイに話す。この世界の人々にゲームの仕組みを解説するのにも、少しずつ慣れてきたかもしれない。
「問▼[向/エイジ]ではエイジ様から見て、この世界の住人は全て──」
言いかけて、何かをためらったのかメイは口を閉ざした。
「作り物に見えるのか、って言いたいの?」
「いえ、ワタシは……」
「いいんだ。普通に考えたらそうなるよ」
少し動揺したようにも見えたメイに、僕は笑いかけた。
「日本でも──ああ、面倒だからこの記憶が偽物である可能性は捨てて話すけど、日本でもこんな話をしたような気がするんだ」
それから話したのは、僕の中にある記憶のかけら。偽りかもしれないが、それでも確かに僕の中にある残滓の一つ。
「ゲームの登場キャラに恋をした──なんて言えば、いくら日本でも馬鹿にされること間違いなし。でもそんなこと、小学生の頃の僕は知らなかった」
小さい頃、『エストランティア・サーガ』と出会った。両親が「一人でも長く遊べると聞いて」買ってくれたものだったと記憶している。
何もない人生を歩むだけの何もない僕はその日、明確に人生の分岐点に立っていた。
ゲームをプレイするたびに、その世界観にのめり込んだ。シナリオと展開に驚愕した。そして、キャラクターに思い入れを抱いた。
特に、メインヒロインのアトラという少女は特別だった。とても可愛らしく、時に凛々しく、儚く強く美しく。様々に色を変えて表現されるその華に、僕は心を奪われていた。
もともとオタクだった、という訳ではない。それまでは「物語を見て泣いたりするヤツは恥ずかしいヤツだ」と馬鹿にする側だった。
でもそのゲームと出会って、まるでスイッチが切り替わったように僕の人生は変わった。エストランティア・サーガ……ひいては、アトラという少女との出会いこそが運命だった。
小学生の頃の自分からすれば、その恋愛は少し大人に見えたけど。
それでもあの日、僕は間違いなく初めて心を奪われた。
それ以降、僕は高校生になるまでひたすらゲームをプレイする毎日だった。何十、何百というゲームを遊び倒した。それでも、自分の胸の中からアトラの存在が消えることはなかった。
だがそんな深く重いアトラへの思いは、ゲームなんかに興味のない人からすれば気味の悪いものでしかない。
ゲームの登場キャラにガチ恋? あり得ない、信じられない。現実と二次元を混同しないでくれ──と、嘲笑の的になる。小学生の純粋な自分は、周りのみんなも同じように思っているものだとばかり考えていた。しかし、違ったのだ。
もちろん、そんな自分が異常なことはすぐに理解した。中学に上がる頃には一言も口に出さなくなった。それでも胸の内にある思いが変わることはなかった。
アトラは自分の人生を変えてくれた存在だ。主人公ブライト・シュナイダーと並んで、僕にとっては単なるゲームのキャラクターの枠を超えた存在だった。
この世界に来た時、それほど違和感を覚えることなく没入できたのかもしれない。
「──だから、おかしいのは僕なんだ。普通は作り物の命を、そう簡単に受け入れられるはずがない」
「……」
「でも、僕は今でも信じてるし、これからも変えるつもりはないよ。作り物の命だって、偽物と決まった訳じゃない。あの日、薄暗い部屋の中で見た画面の中の輝きが、僕を救ってくれたから」
「……だからエイジ様は、ワタシのことを人間だとおっしゃるのですカ?」
「うん」
「腕が取れるのニ?」
「そこはまあ! ちょっとアレだけど! そういうのは関係ないんだ!」
本当は、この世界の人々が本物の人間であることを否定して欲しくないだけなのかもしれない。彼女の存在一つで波が立つほどに、僕とこの世界の関係性は不安定だ。
だが、たとえそうだとしても。ゲーマーとしての譲れない思い、作り物の物語に本気になる自分の感情に嘘はつきたくなかった。
「僕がこの世界に来てからずっと縋ってきた、ちっぽけなプライドなんだよ。これは」
僕を構成する最も大きな柱。そこが折れれば全てが倒壊するであろう、心の中心地点。
メイは、この特殊な考えにどんな感想を抱いているのだろうか。
今は少しだけ、それが気になった。
☆★☆
「……」
黙り込むエイジの背中を見つめながら、メイは限られた思考アルゴリズムを駆使して、その感情に答えを探していた。
エイジにとってアトラの存在が唯一無二であることはおおよそ把握ができた。それは例えば、メイにとってのレイノルド博士のようなものだ。いなくなられては困る。メンテナンスを行ってくれる存在がいなくなってしまえば身体に不調が出てしまう。きっとそういうことなのだろう、とメイは理解した。
それに、エイジがメイのことを人間だと言いたくなる気持ちも、ようやく見えてきた。
彼にとって、創作物とは単なる創作物以上の意味合いを持っているのだろう。機械であるメイという存在もまた然り。ゲームで見た世界を現実だと信じてここまで走ってきた彼にとって、その道半ばにいた機械一人を例外とすることはできなかった──そういうことだろう。
「呟▼[向/無]ゲーム、キャラクター……」
やがてエイジも部屋へと戻っていき、日の傾かないバルコニーにはメイ一人がぽつんと残された。
「呟▼[向/無]ワタシは……人間……?」
メイはエイジやハザマ、ミスティのように複雑な感情を持ち合わせていない。合理非合理、その明確な判断基準でこれまで物事を決めてきた。だからこそ、『人間』という曖昧な価値基準が理解できない。
特に、エイジという少年。彼の言うことは何も分からない。非合理的だし、理屈も通っていないし、メイにとっては意味不明の塊みたいなものだ。
だが、なぜか。
なぜか、気になるのだ。そんな自分にはないものを持っている少年を知りたい。それを知れば、もしかしたら『人間』が分かるかもしれない。今まで見たことのない何かを、得ることができるかもしれない。
それは単に、不明な点を解き明かす必要があるという機械なりの本能だった。メイは不確定要素を嫌った。それは数値の計測に異常をきたすからだ。
安藤影次を知りたい。それはメイにとって初めてかもしれない、自分自身の気持ちだった。
そのこと自体が既に『第一歩』であることを、メイはまだ気づいていない。
──今はまだ、少女は殻の中。




