第002話 夢か現かチュートリアルか
エストランティア・サーガ。
膨大な設定とシビアなゲームバランス、莫大な選択肢による無数のマルチエンディングなどの点がコアなゲームファンに評価され、「マゾ御用達」「ある意味化け物タイトル」とカルト的人気を得た。
中身はごくごく王道のファンタジーRPG。
しかし、その正体は謎に包まれている。発売元のゲーム会社はこのゲームを発売すると同時に倒産し、空中分解。シナリオの中にも理解不能で不可解な点が数多く残されており、攻略サイトなどでは物好きたちによって日夜考察がなされていた。
オタク受けの良い可愛いヒロインをメインに据えているにも関わらず、一度死亡したキャラクターは復活せず、メイン級のキャラクターが死ぬと進行不可となりバッドエンド直行、加えて蘇生呪文も存在しないというシビアさ。
そのエンディングの多さに、「人間一人では人生をかけてもこのエンディングを回収しきれない」とまで言われた。
謎多き怪作、それがエストランティア・サーガ。
安藤影次が人生で初めてプレイしたゲームである。
☆★☆
そうだ。
何も焦ることはない。
これはチュートリアル戦闘。何十回とプレイした、必ず勝てる戦闘だ──
そんな固定観念が通用しない世界だということは、薄々気が付いていた。
「──『レイズドファイア』」
魔道士の一人が杖を構えると、先端に紅色の火線が舞う。魔法陣が描かれると同時に、その中心から小さな火球が飛び出してきて──
「──っ、あ」
咄嗟に避けようとするも、体がついてこない。右肩に掠めた。ジュッという肉が焼ける音が、どこか他人事のように聞こえてくる。
その数瞬後。信号を受け取った脳は、それを激痛へと変換した。
「ぃ、ぎぃあッ!? あつ、熱い、痛い、痛い……ッ!?」
右肩広範囲に広がる熱傷は突き刺すような痛みを放ってくる。日常生活では感じることのない激痛。
「ぐ、う、うううううううううううう!」
こんなの聞いてない。数値で言えば2や3くらいのダメージのはずなのに、こんなに痛いなんて……。
「──」
もう一人の魔道士が杖を構えている。何度も見た攻撃モーション。その後に来る攻撃も、その避け方も知っている。
知っているのに。
(体が、動かない……っ!)
ガクガク震える足。涙の滲む視界。右肩は今もなお強烈な痛みを発している。
チュートリアル? 馬鹿を抜かすな。この痛みも、皮膚の焼け焦げる匂いも、画面の向こうで起きている他人事じゃない。
ここまで来れば、もう嫌でも理解できてしまう。
この世界は、現実なんだ。
「ど、きなさい……っ」
背後から声が聞こえてくる。その声は掠れていて、喋るだけでも辛いだろうと分かるのに──意志だけは、国と民を守るのだという意志だけは強く宿している。
ああ、その姿はまさに、勇気ある青年ブライトと旅を共にするに相応しい。グリムガルドに奪われた民の平穏を取り戻すべく、姫という身分を捨てて戦場へとその身を投じた戦乙女。
僕なんかより、よほど勇気がある。
「私は……負けない、から!」
魔道士二人の杖先には魔法陣が描かれている。再び魔法が来る。震えるだけの僕には、どうすることもできない。
僕は勇者じゃない。剣の握り方も知らない僕じゃ、悪の魔道士を倒すことすらできない──。
「あああああああああああああああっ!」
アトラは切れかけの魔力を振り絞り、最後の大魔法陣を描き出す。美しく気高き彼女の髪と同じく、黄金に輝く円環だ。
そして、ぶつかる。火球と彼女の放った雷撃が正面衝突し、閃光と火花を散らす。
「──────────────」
耳をつんざくような轟音。閃光によって白く消失する視界。
「やった、か……」
アトラが杖を下ろす。目を擦って見れば、魔道士二人は雷撃によって焼き尽くされて黒いモヤとなって空へと消えていくところだった。ゲームと同じ、撃破エフェクトだ。
「よかった。私、あなただけは守れたのね」
辛いはずなのに彼女はこちらにニコリと笑いかけてくる。
「どこでもいい。今のうちに、逃げなさい。一人でも多くの、皇国民を、守らなきゃ……」
だが、その言葉に僕は頷くことができない。
彼女が向かう先、その路地の曲がり角。
そこに、潜む者の存在を知っているから。
だが。
「ま、待っ──」
アトラは止まらない。持ち前の意志の強さが、今だけは彼女の命を脅かす。
(ダメだ、間に合わない──!)
アトラはこの世界になくてはならない存在だ。この後、彼女は世界中を旅してグリムガルドを倒す方法を探し当てる。そして再びこの地へ舞い戻るのだ。この物語になくてはならない存在。決して死んではいけない。彼女はメインキャラクターに数えられ、死亡した瞬間にバッドエンド直行、ゲームオーバーだ。
必ず、守り抜かなければならない。
僕がもっと早く彼女を呼び止めていれば。いやそれ以上に、彼女に無理をさせず僕が魔道士たちを倒していれば。結局一度も剣を振ることすらできなかったじゃないか。情けない。
呼び止める僕に、ゆっくりと振り返るアトラ。まるで走馬灯のように時間が延長された感覚の中で、僕は彼女の背後に暗殺者の影を見る。
どうすればいいか──そんなことは分かっている。でも恐怖が、弱い心が顔を覗かせる。
本物のブライトが取った行動が脳裏をよぎる。
彼がどうしたのか。覚えているんだろう、僕は。自分に嘘をつくんじゃねえよ。
細部は違えど、この展開はやはりゲーム通り。ならば僕が取れる行動も、一つしかないだろう。
覚悟を決めるんだ。
僕は勇者じゃないけれど、今だけは偽物の勇者になろう。この場で彼女を救えるのは、僕しかいない。
だから。
なけなしの勇気を胸に。
衝撃と痛みと覚悟して。
僕はアトラの腕を掴み、強く後ろに引いた。
「何を──────っ」
フラフラの少女はあっけなく後ろに倒れる。それと同時に、体を入れ替えるように僕が前に出て。
そして。
ザクリ、と。
冷たい金属が、僕の体内に侵入してくる感触があった。
痛みを感じる余裕もなかった。その傷からドクドクと命がこぼれ落ちていく感覚だけが、鮮明だった。
生きるために必要な力が体の中から抜け落ちていく。代わりに濃密な死の気配が、背後から忍び寄ってくるのが分かった。
遠くの方から、少女の声が聞こえる。
お願い死なないで、と。
平民でしかない『ブライト』に声をかける少女の姿が、おぼろげに見える。
ああ、この後の展開はなんだったか。知っているはずなのに、脳はもはや思考能力を持っていない。
思考が、感覚が、命が、闇へ落ちていく。
この世界、死んだらどうなるのだろう?
今度こそ僕の住む日本へと返してくれるのだろうか?
それとも、ゲームはゲームらしくコンティニューができるのだろうか?
その答えが出ることもなく。
僕は死の淵へと沈んでいった──