第021話 『 』
「ゲームを終了するのか?」
声が響いた。
「確かに、電源を落としてしまえば楽になれるかもな」
聞いたことのある声だった。
「所詮はゲーム。娯楽でしかない。別に誰も責めたりしないさ。ヒロインを救えなかったからって、気に病む必要もないのかもしれない」
力強く、その声は訴えかけてくる。
「でもさ」
心の奥を波打たせるような声音。その正体は──
「お前は信じていたんじゃないのか? ゲームの中に生きる人々を。そこに生まれた絆を。誰に馬鹿にされても曲がることなく、一人ゲームに対して真剣に向き合っていたんじゃないのか?」
「君、は……」
姿は見えない。ただ、よく知る声だけが遠くから聞こえてきている。
「二次元にのめり込んだ可哀想なヤツ──そうやって馬鹿にされるよりも、画面の中に生きる人々を蔑ろにしたくなかったこそ、お前は今日まで自分を貫いてきたんだろ?」
「思いだけじゃどうにもならないことだってあるんだよ……っ」
僕は姿の見えない『彼』に向かって叫ぶ。
「どうにかしようと思った! 手を尽くした! やれることはやったつもりだ! それでも僕は、この物語の主人公にはなれなかった……っ!」
「それが間違ってんだよ」
「……は?」
『彼』は呆れたようにため息をつくと、
「ま、とにかくゲーム終了はナシだ。セーブ地点から再開。これ一択な」
「なっ!? ど、どういうことだよ!? 説明してよ!」
「やなこった。それはお前自身が気づかなきゃ意味のないことだからな」
すると、急速に世界が浮上し始める。エレベーターに乗っているかのような上昇感覚。
「う、うわっ!?」
「向こうに戻れば今起きたことは忘れるだろうが、まあ大丈夫だ。なんとかなる!」
世界が再構成されていく。真っ白で何もなかった虚無に時間が生まれ、空間が生まれ、オブジェクトが生成され、色が付き、身体に五感が宿る。
「諦めるなんて絶対に許さないからな! でもあんまりポンポン死ぬなよ! 仮にも俺の身体で戦ってるんだから! そんで──」
声の主もどんどんと遠くなっていくが……最後にちらりと、そのシルエットが朧げに見えた。
「早く、俺のところまで来い!」
「お、おいっ! ふざけるな、なんだそれっ!? どういう────」
そんな一言を残して、『彼』の声は途絶え。
意識が覚醒する────────。
☆★☆
目を開けるまでもなく、そこがどこかは分かった。
「また、か」
リドラの村前。三度目になるその場所に僕は立っていた。
「やり直し……」
ゲームならばコントローラーを放り出して不貞寝でもしているところだが、この世界は逃がしてくれない。
「どうしたの?」
何事もなかったかのように──いや、実際に何事も起きていないこの世界のアトラが話しかけてくる。
「いや、何でもないんだ」
僕はそう答えることしかできない。
「本当に、何でもないんだ。何も……なかった」
「そう? ならいいんだけど」
さて。心機一転だ。
もう何もかもを諦めるとして、僕はこの世界で第二の人生を歩まなければならない。リドラの村で職を探そうか。弱い魔獣程度なら僕一人でも倒せるだろうし。どこか腰を落ち着けられる場所を探したい……といっても、エストランティアは現在非常事態だから、どこへ行ってもパニック状態かもしれないな。
パニック状態。きっと『誰か』がなんとかしてくれる。それをただ、じっと待つのだ。平民は平民らしく。モブキャラはモブキャラらしく。
「っ、ああ」
僕は濁り始めた思考を振り払いたくて、髪をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
今は考えがまとまる気がしなかった。とりあえず、眠りたい。明日ハザマが来たら、彼にアトラとミスティを託そう。そこまでが僕の役割だ。
☆★☆
炎の海に包まれた街の真ん中に自分がいる。
悲鳴が聞こえる。怒号が胸を打つ。肉の焼ける嫌な臭いがする。建物が倒壊する轟音、炎の爆ぜる音、すす混じりの黒い煙──その全てが、まるで僕を責めているかのように五感を刺激する。
戦場? 否、ここはそんな力の拮抗した場所じゃない。
──ただの地獄だ。
何かに引かれるように、僕の足が勝手にどこかを目指す。やめろ、そこに行かないでくれ。そこには見たくないものがあるから──しかし思いに反して、体は動く。何かの使命か、ただの衝動なのか。自分でも抗えない何か巨大なものに導かれるようにして、僕はたどり着く。
「あ、ぁああ…………っ」
やめてくれ。それを見せないでくれ。
「いやだ、いやだ、いやだ……いや、だ……っ」
血。赤い沼。
一人の竜狼と、金色の髪を持つ少女──だった、ナニカ。
「あ、あ、ぁぁ……ぁぁあああああ、ぅうあっ」
竜狼の腕に胸を貫かれ。
そこから、ドクドクと、血が、溢れて。
項垂れた首──
その首が突如グリュンと動いて、血走った目と視線が合った。
「どうして救ってくれないの?」
「あ、ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
☆★☆
ぁぁああああッ、ぁ……はぁっ、はぁっ……」
僕は飛び起きた。
身体中に嫌な汗をかいている。指先が震えて、視界が揺らぐ。
ここは……宿屋だ。前と同じ部屋。意識が朧げでよく覚えていないが、これまでと同じイベントをこなしてここまで来ていたはずだ。
「……」
隣ではミスティがぐっすりと眠っている。ちょっとやそっとのことでは起きそうにない。
「くそ、なんなんだよ……っ」
こっちは悪夢でろくに寝られないってのに、幸せそうに爆睡しやがって──なんて、八つ当たりすら浮かんでくる。
ミスティは何も悪くない。むしろ彼女は本当に頑張ってくれた。それに応えられなかった僕が、全ての原因だ。
「そんなことは分かってるんだよ……ッ!」
ぼすん、と布団に拳を落とす。
窓の外から鈴虫の鳴く声が聞こえてくる。ちょうど窓枠の中に月が収まっていて幻想的だ。エストランティアの夜空は、星がよく見える。
「……」
眠れないからと、何をするでもなくただ窓の向こうを眺める。
今は……一応、春だったか。日本の暦に合わせて四季が存在するエストランティア大陸は、季節に合わせて様々に色を変える。
春の優しい温もりを残した風が、ふわりと頬を撫でていく。
花の香りだろうか。風に乗ってやってきたそれが鼻腔をくすぐり、気分を和らげてくれる。
「ぅ……ぁ」
なぜだろう。
それだけで、涙が出てきてしまった。
「ぅぐ、ぁああああ、ぇうっ、あああああああああああぁっ………」
なぜ? 僕はもう全てを諦めた。荷が重かった、だから舞台から降りた。荷物を降ろしたのに、何に涙を流す?
「っく、しょう……っ」
ああ、そうか。
「ちくしょう……ッ!」
僕は、悔しいのか。
拭うたび溢れてくる涙は止まる気配がなかった。ポタリ、ポタリと床にシミを作る水滴。
元の世界にいた頃、最後に泣いたのはいつだっただろう。
無感情にゲームをプレイするだけの日々。いつしかボスバトルにも一喜一憂しなくなり、心を震わせることもなくなった。ゲームをプレイするということそのものに慣れてしまった。
どれだけ好きな物語でも、一度目よりは二度目、二度目よりは三度目の方が感動は薄れる。初めて見る物語であっても、どこかで類型を目にした記憶があれば、その既知感が感動の邪魔をする。時間が経てば経つほどに、目は肥えていく。
じゃあ、なんで。
なんで今僕は悔しさを感じているんだろう。
なくしてしまったはずの感情が胸に宿るのは、なぜなのだろう──
「ブライト……?」
「っ!?」
控えめな声が、僕を現実に引き戻した。
「何かあったの……っ?」
アトラだった。ちょうどお風呂から戻ってきたらしい。
「な、何もない! 君には何も関係ないことだから!」
僕は慌てて涙を拭って、そっぽを向く。こんな姿を彼女に見せたくない……。
「何もないわけないでしょっ! そんなに目を真っ赤に腫らして……っ」
「来ないでくれっ!」
頬に向かって伸びてきたアトラの手を、僕は払った。
二人の間に一瞬、空白が生まれる。
「──あ、ちが……っ」
我に返って、僕は自分が酷いことをしてしまったのだと気がついた。しかしもう遅い。一度したことは取り消せない。
「……」
アトラは払われた自分の掌を見つめている。彼女が今何を考えているか、想像に難くない。自分の親切をふいにされて、さすがのアトラも心底憤っているに違いない。
もう終わりだ。これ以上僕が墓穴を掘らないためにも、アトラに悲しい顔をさせないためにも──僕は、目の前から消えないと。
「むうーっ!」
ほら、その証拠にアトラは頬をぷっくり膨らませて……。
「えいっ!」
アトラは両手を思いっきり広げると、
「えっ」
僕を、抱きしめた。
「……………………はょぇ?」
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?!?
意味が分からない! なんで!? どういうことだ!? 文脈がない! 脈絡がない! 意味不明だ! バグか!? お風呂上がりのいい匂いが──違う! 究極に柔らかい──これでもない! なんだこれは!?
「大丈夫」
「────ぁ」
「大丈夫だから」
その一言に、熱を帯びていた思考が止まる。
「もう。他の女の子にあんなことしちゃダメよ?」
「は、はい……」
「泣きたいなら、ちゃんと泣いておきなさい」
「……っ、」
なのに、そんなことを言われたら。
「落ち着いたら、ちゃんとお話して?」
「あああっ……」
「だから今は、ね」
そして堤防は、勢いよく決壊した。
「────頑張った。頑張ったんだ! 目の前でみんなが死ぬところを見せられて、それでも諦めずに前に進もうと思って! それなのにあいつがきて、またみんなを殺していった! おかしいんだ、あいつはあそこにいるはずがない! 絶対に平気だったはずなんだ! なのにッ! なんでだよ、なんで僕ばっかりこんな目にあうんだよ! 無理なんだよ、僕じゃ! あいつには勝てない! 僕じゃアトラを守れないんだ! 何度挑んでも、目の前で仲間たちが殺されるのを呆然と眺めていることしかできないッ! 無力なんだ。僕はブライトじゃない……この世界を変えることはできない。君の前にいる資格はない! こんな僕なんか放っておいて、早く……どこか遠いところに、行ってくれよ……頼む……」
気がつけば僕は、アトラの胸に抱かれて、抱えてきた思いをぶちまけていた。
「悔しい……悔しいよ……ッ」
彼女がゆっくりと背を撫でるたびに、僕は吐き出すように黒い感情を言葉にした。
「ブライトみたいに……強く、なりたい……」
やがて。
何分経ったか分からないが、決して短くはない時間が過ぎた頃。
「……落ち着いた?」
これだけ醜態を晒しても変わらない優しい声音で、アトラが聞いてくる。
わずかに嗚咽を漏らしている僕の背を一定のリズムで撫でる手。彼女の心臓の音。もう長いこと感じていなかった『人との触れ合い』が、逆剥けた僕の心に少しずつ染み渡っていく。
「私が泣いている時、お母様がいつもこうしてくれたの」
返事を待たずに、アトラは一人語り始めた。
「私ね、すごく泣き虫だから。なんというか、抱え込んじゃう癖があって。
皇女だから、とか。みんなの前に立つ存在だから、とか。色々考えてるうちに、自分でもわけが分からなくなっちゃった時があったの。
そうやって押しつぶされそうになるたびに、無駄に広い部屋の隅っこで泣いてた。
生まれた時から、もうすでに私は皇帝の娘だった。それが嫌だったわけじゃないよ? 町に暮らす人々の生活に比べたら、私はとても恵まれた環境にいたことも理解してる。
でも、なんで私なんだろうって思う日もあった。私だってみんなみたいに、町を走り回って一緒に遊びたかった。友達をたくさん作って、学校に行って、みんなと変わらない生活をしてみたかった。お城を抜け出したこともたくさんあったな。
お城を抜け出すたび、お母様は怒ったわ。何度も何度も怒られた。でも決まって最後にこうして抱きしめて、背中を撫でてくれた。
『皇女としてやらなければならないことは確かにある。それでも、あなたらしく生きなさい』──お母様が私にくれた言葉の中で、一番印象に残っているものよ。
あなたに何があったのかは、まだ分からないけれど。それでもここに来るまで、きっととても辛いことがあったんだと思う。
……もしよければ、私に話して? きっと、話し相手になってあげることくらいはできると思うから。抱え込むのはよくないわ」
「……」
あの日、涙を流していた少女の横顔が重なる。
彼女はとても不安定だ。幹はとても力強いが、根元が安定していないからグラグラと揺れる。一人涙を流すアトラもいれば、こうして優しく慰めてくれるアトラもいる。
人間なのだな、と思った。
0と1で記述されたデータではない。感情があって、思考があって、趣味があって理想がある、本物の人間だ。
この世界が現実だと受け入れた。そこに生きる人々が本物だと理解した。でも心のどこかで、自分と彼らを別物と扱っていたのではないか? 僕の事情は僕でなんとかしなければならない。彼女たちに頼ってはいけない。そんな風に考えていたのではないか?
僕は顔を起こして、アトラから離れる。もう大丈夫? と視線で問いかけてくるので、一つ頷いた。
僕は深呼吸をして、心を落ち着かせた。言葉として吐き出したことで少しだけ気が楽になった気がする。
「……どこから、話せばいいんだろう」
──最初からこうすればよかったのかもしれない。全てを話して、彼女たちを頼ればよかったのかもしれない。やはりそれは、プレイヤーとキャラクターという区別をしていた頃の自分からは出てこない発想だった。
「順番に。一つずつ教えて」
ふわりと微笑んでくれるアトラ。
こんな優しくて可愛い女の子、現実にはいないだろ。そんなツッコミを入れたくなるが────ああ、それは無粋だろう。どんな媚びたセリフだって、やりすぎな仕草だって許される。なぜなら彼女は、物語のメインヒロインなのだから。
「……じゃあ、まず一つ目。僕はこの世界の住人じゃない」
いきなりそんな言葉をぶつけられたアトラは、ほんの少し驚いたような顔をしたが、それだけだった。
「ちょっと納得かも」
「ええ……っ?」
「朝の話だけど、私があなたに剣を借りようとしたじゃない? その時先に差し出してたり、そのあとなんか変なこと言ってたでしょ?」
「あ、ああ……」
金髪について、オタク特有の早口が発動してしまったやつだ。
僕の主観ではもう随分前の話だが、そんなこともあった。
「それであなた、この国の人じゃないのかなって思ったの。私のこともあまり聞いてこないし。この国の人ならもう少し、こう……自分で言うのは恥ずかしいけど、畏れ多い! って感じに接してくるかなって」
「お、おっしゃる通りです……」
ゲーム内のブライトのセリフを借りるならば、「あ、アトラ様と共に戦えるなんて恐悦至極であります!」なんて訳の分からないことを口走ったりしなきゃおかしかったのだ。
「ごめんなさい。話を戻しましょう」
「う、うん。ええと、僕は別の世界の住人。別の世界っていうのは文字通りの意味で……この世界よりもう少し文明の発達した、日本っていう国に住んでた。そこでは、このエストランティアって国で起きた物語が──ゲームになってる」
「げーむ? 札遊びとか、そういう?」
「いや、違う。もっと高度な技術が使われてる。なんて言ったらいいのかな……魔法で、水晶球の中に未来を映し出すものとかがあるよね」
「占術師が使う古典魔法ね」
「そう、多分それ。その水晶球の中の映像をコントローラーって言われる装置を使って操作して、世界を楽しむというのが、ゲームかな」
──それから。
僕は、ここまで起きた出来事を簡潔にまとめて話した。
こことは違う世界、日本という国に住む学生が本当の僕であるということ。
「ニホン……何が二本なの?」
「ち、違うよそういう意味じゃない……」
目が覚めたらなぜかここ、エストランティア皇国にいたこと。
「起きたら突然?」
「そう。目が覚めたらもうこの世界にいた」
「向こうの世界で最後に寝る前は何をしていたの?」
「え、なんだっけな……あれ、思い出せない」
僕はゲーム『エストランティア・サーガ』をそれなりにやり込んでおり、その知識を使ってアトラを助けたということ。
「私も気づかなかった。あの時は本当にビックリしたわ」
「いや、ビックリしたのは僕の方だよ。なにせ、死にかけたからね……」
ブライト・シュナイダーとはこの身体の持ち主の名前であり、僕という人格は『安藤影次』という全く別の人間であるということ。
「アンドウ・エイジ……それがあなたの本当の名前?」
「……そう。僕はあんまり好きじゃないけど」
「なんで? 耳慣れない響きだけど、いい名前だわ!」
アトラを守って凶刃を受けた際、ユグドミスティアと邂逅を果たし、神の化身をお助け役として派遣されることになり、それがミスティだということ。
「あの子、不思議ちゃんだとは思ってたけど、ユグドミスティア様の化身だったのね……どうりで強いわけね」
「あの子に関しては僕も分からないことの方が多い……」
この世界のアトラが知らない世界で、僕はハザマの怒りを買い、彼らを死地に追いやってしまったこと。そこで僕も死に、『セーブ地点』と思われる本の前で目が覚めたこと。
「死んで、戻る……セーブ? ロード?」
「絵本にしおりを挟むのを想像してみて。僕はページをめくった先で失敗をした。そうしたら、強制的にしおりを挟んだところまで戻されるんだ」
そして────同じ失敗を二度、繰り返したこと。
「……」
アトラは時折質問を交えながらそれを聞いていた。こんな突拍子もないことなのに、彼女は真剣に聞いてくれた。
やがて僕が語り終わったと見ると、飲み込みが早い少女は顎を押さえながら「ふむ」と一つ唸った。
「……エストランティアで起きた物語がゲームになってる、っていうことは」
「──そう。僕から見ると、君はそこに登場した『キャラクター』なんだ」
「私が、物語の……」
「……ショック、だよね。いきなりこんなこと言われて……」
「そんなことないわ!」
「え?」
「もっと聞きたい! その世界の私は、どういう私なの?」
「い、いや、それは……全く同じだよ。ここにいる君と、ゲームの中の君。姿形も、声も、喋り方も性格も、何もかも同じ」
「あなたは?」
「ぼ、僕?」
「そう。向こうの世界のあなたは、どんな人だったの?」
「僕のことなんて、話すことはないよ。ただ部屋でゲームをしてただけだから」
「そ、そうなのね……」
ちょっと気まずそうに咳払いをしてから、アトラは仕切り直した。
「でも、すごいわね。一体どういう理屈なのかしら」
「それは僕にも分からない。でも、だからこそ僕は、この世界で目覚めた時──エストランティア城で事件が起きたあの日よりずっと前から、君のことを知っていた」
「ねえ」
そこでアトラが、ずいっと顔を寄せてきた。
「あなたは、この世界が物語だって言ったわよね」
「う、うん」
「ってことは……あなたは、結末を知ってるのね?」
「それは──」
まさか、アトラ本人にそんなをことを聞かれることになるとは思わなかった。だけど僕は、しばらく迷ったのち、首を縦に振った。
「……そう。その世界では、私たちは──この国は、どうなっているの?」
当然の疑問だろう。一国の姫として、この国を救うと誓った者として。目の前に未来を知る者がいれば、この国の顛末を聞かないわけにはいかない。
信じてもらえるわけがないと思っていた。なのに今こうして、ゲームについて語っている自分がいる。そのことが、不思議で仕方なかった。
「──花が咲くんだ。国中に、満開の花が。脅威を排除したエストランティア皇国に春が来る。それに合わせて、君が仲間を集める過程で植えた花が、一斉に咲き乱れる」
「ああ……」
僕はただ、それだけしか言わなかった。しかしアトラはそれを聞くと、そっと天を仰いだ。
「そっか。あなたの世界の私は、頑張ったのね……」
夜空に浮かぶ月を見上げて、ほう、とため息をつく。
「ご、ごめん。私も人のこと言えないな」
ほんの少し潤んだ瞳が、月明かりにきらりと反射する。アトラは慌ててごしごしと擦り、こちらへ向き直った。
「それも、あなたのおかげなのよね?」
「え?」
突然のことに、僕は疑問系で返すしかなかった。
「物語の主人公であるあなたが、私を助けてくれたのよね?」
「ち、違うんだ。ええと、あんまり伝わらないかもしれないけど……僕はゲーム機のコントローラーを握ってブライトを操作してるだけで、確かに知識とかはあるかもしれないけど、実際に剣を振って戦っているのはブライトで、登場人物である君目線だとアトラを救ったのはブライトということに……」
「そうなの? うーん……」
納得いかない様子のアトラは、首を傾げて唸る。
「あなたの世界のことはよく分からないんだけど、話を聞いてる限りだと、私にとってあなたは神のような存在だと思うんだけど?」
「だ、だから! 現実の僕は寝転がってコントローラーを握ってただけで! 僕の世界では、ゲームをやることなんてただの娯楽だから、そんなことをしてても全く褒められることじゃないんだ! それに、『エストランティア・サーガ』なんてマゾゲー、プレイしてる人は誰もいなかったし、あんなの単なる自己満足だよ! 家に引きこもって有り余った時間を使ってただけだ!」
あんな怠惰な生活を送っていただけの自分が褒められるのなんて、おかしい。褒められるべきは僕ではなく、ブライトだ。
「現に、さっき言っただろ? 僕がこの世界に来たせいで、全てが狂ってしまったんだ。ブライトなら乗り越えられたはずの試練も、僕なんかが来たせいで全部失敗。君たちを二回も殺したんだ。そんなの、許されるわけがないだろ……ッ」
純粋に物語の主人公に憧れを抱いていたあの頃とは違う。多少なりとも成長して、時間が経って、現実というものを知って、できることとできないことを理解した。だから分かる。分かってしまう。この世界に僕が来たところで、ブライトのような活躍はできな──
「私を救ってくれた人を悪く言うのはやめてッ!」
突然、だった。
「……は?」
ばちんっ! と思いっきり両頬を挟まれて、顔を固定される。
「いッ、何を……っ?」
「なんであなたは、そんなに自分が嫌いなの?」
「ぇ……?」
「どうしてあなた──エイジくんは、ブライトにならないといけないって思ってるの?」
「だ、だってそれは、この世界に来て、この身体になって、ブライトにならないと、どうにもならないから……」
「……ああ、そっか」
厳しい口調だったアトラは一転、疑問が氷解したかのように表情を和らげた。
「エイジくんは、ブライト・シュナイダーという殻で自分の身を守ろうとしていたのね」
「……」
「──多分だけどね。突然こんな世界に来て、事件が起きて、混乱して。すごく不安だったあなたは、自分のよく知る『英雄』の姿を自分に当てはめようとした。そうするしかないと思い込んじゃったのよ。それはきっと、あなたが『ゲーム』というものを続けていくうちに自然と芽生えてしまった考え方」
視線をそらすことは許されない。優しく頬を触られているだけなのに、金縛りを受けたように硬直してしまう。
「あなたは失敗続きだ、なんて言うけれど。そんなことないわ。だってあなた、あの時私を守ってくれたじゃない!」
あの時。それはきっと、エストランティア城での一幕だ。アトラを狙うナイフを、身代わりとなって受けた『シーン』。
「あれは、僕がその展開を知っていて、ブライトがそう選択したことも知っていたから、その通りに動いただけで──」
「違う」
僕の言葉を遮って、アトラは微笑んだ。
「いい? 知識があったのはあなた。その行動を選択したのもあなた。あなた自身が私を助けようとしてくれなかったら、あの日あの瞬間に私は死んでいたわ」
「──────ぁ」
「ブライトの勇気じゃない。あなたの勇気が、私を救ったの」
「ぁ、ああ、あ……」
「それに、あなたに知識があるのは、ずっと私たちと向き合っていたからなんでしょう? 周りに誰も仲間がいなくてもたった一人、あなたが戦い続けてくれたから、私たちは救われたのでしょう?」
「僕はただ、ゲームをしてただけで……」
「それでも本気で取り組んだからこそ、あなたの中にたくさんの知識があって、私も助かった」
有無を言わせず言葉を紡ぐアトラ。
「だからね──」
そんな僕らの間を風が吹き抜けて、夜風が二人を優しく撫でた。
「ありがとう」
揺れるアトラの金髪。水晶のように透き通った瞳の中に、月明かりが瞬いている。
「僕は……」
頬に添えられたアトラの手を、思わずぎゅっと握る。
「僕は……っ」
視界が潤んで、まともにアトラを見れなくなる。
「僕の人生なんて何の価値もないって! きっと誰に評価されることもなく終わるんだろうって!」
「うん」
「友達もいなくて、ずっとゲームばっかりして……誰もこんなオタクのことなんて認めてくれないんだって、思ってて……」
「……うん」
「特技もなくて、長所もなくて、何をしても誰かに劣ってて、泣き虫で……」
「泣き虫なのは、今も変わらないね」
「ううううううっ……」
「ほら、男の子でしょ! しっかりしなさいな!」
アトラの細くて綺麗な指先が、僕の涙を拭い去っていく。
「……弱くてもいい。泣き虫でもいい。それも含めて全部エイジくんなんだから」
誰かに感謝されたことなんて一度もなかった。
「人間たまには失敗することもあるわよ。あなたの言うブライトみたいな完璧超人になんて、誰もなれないわ」
ゲームをやったって褒めてくれる人なんていない。当たり前だ。ゲームは娯楽で、遊びで、他にやることがあるのにそればっかりにかまけているやつが褒められるわけがない。
「あなたが自分を信じられないと言うのなら、私があなたの自信になってやる。私があなたの支えになってやる。だから──もし倒れそうな時は、寄りかかっていいのよ。あなたは弱い。私も弱い。だから、二人で頑張りましょう?」
だけど今、こうして。
他でもない僕の大好きなゲームのヒロインが、その人生には意味があったのだと認めてくれた。たった一言で塗り替えてくれたんだ。
「いつかあなた自身が、あなたを信じてあげられる日が来るわ。あなたにしかできないことがきっと見つかるはず。だからそれまでは、あなたに救われた私を信じて────」
そしてアトラは、まっすぐ僕を見つめながら言った。
「あなたは間違っていない」
「──」
何の曇りもない綺麗な瞳だった。その美しさが、その在り方が、何よりも彼女の高潔なる魂を表していた。
──僕は僕が大嫌いだ。何をやってもうまくいかない、運動もできない、目立った長所もない、ましてや誰にも負けない何かなんてあるはずがない。
やってきたのは、ただひたすらゲームだけ。来る日も来る日も、懲りずにコントローラーを握り続けた。
いい加減やめろと何度も言われた。それでもやめなかったのは──何も難しいことはない。好きだったからだ。
好きだから続けた。楽しいから続けた。今思えば、やりたいことだけやるなんて最悪な生き方だけど。
でもそんな僕を──僕自身が大嫌いな僕を、間違っていないと言ってくれる人がいるのなら。
恥ずかしいところを見せてもいいんだと、受け止めてくれる人がいるのならば。
「僕、なんかで……いいの、か……?」
「私を救ってくれたのは、他でもないあなただもの」
にっこりと微笑んで、ただそう返してくれるアトラが──どうしようもなく愛おしくて。
「かっこいいところ見せてね、男の子」
ブライトじゃない、安藤影次に投げられた言葉が、こんなにも嬉しくて。
「なんでそんなに、優しいんだよ……」
「誰かが辛そうにしていたら助けてあげる。当たり前でしょ? まあでも、君はちょっと特別かな」
かっこ悪いところばかり見せたのに、彼女は愛想を尽かさず僕に向き合ってくれて。
出来過ぎだ。こんな人間はいない──でもそれが許されるのが、彼女という存在なのだ。
「……アトラ」
「なに?」
「これからも、いっぱい情けない僕を見せると思う」
「うん」
アトラは静かに首肯をする。腰かけたベッドの隣、わずか数十センチ先に彼女はいる。
「今日みたいに、君を傷つけることになるかもしれない」
「うん」
たどたどしい口調の僕なのに、アトラはじっと待ってくれる。
「たくさん寄りかかるかもしれない。むしろ、君に迷惑をかけることになるかもしれない」
「うん」
そんな、どうしようもなくメインヒロインな君に……僕は惚れたんだ。
「それでも僕は……君を救いたい」
それを聞くとアトラは、幸せそうに微笑みを返してくれた。
「私、何も知らない君を巻き込んじゃったんじゃないかってずっと不安だったの。でも安心した。君と出会ったのは、きっと運命だったのね」
アトラはいきなり立ち上がると、月明かりをバックにして僕に向き直った。
「こちらこそっ! あなたはもう知ってるのかもしれないけど……きっとこれから数多の困難が待ち受けているのだと思う。私一人では超えられない壁もたくさんあるはず。それでも、私はこの国を救いたい。この国を、幸せの花でいっぱいにしたい! だから────」
そう言ってアトラは、僕に手を差し伸べた。
「この国を救う私を、救ってくれる?」
──もう迷わない。
そして僕は、その手を取った。
「ああ。僕がきっと──君の夢を叶えてみせる!」
──きっと何年経っても、僕は今日という日を忘れないだろう。
自分の人生に意味が生まれた日。僕という名の物語が本当の始まりを迎えた日。
弱さも情けなさも、悔しさも流す涙も全部が僕なんだと知った日。
ここだ。
ここが始まりだ。
無意味な人生はここで終わる。代わりに始まるのは、安藤影次という存在を認めてくれた彼女への恩返しだ。
ずっと考えていた。僕がこの世界に呼ばれた理由。その意味。
今の僕にできること。僕にしかできないこと。ようやく見つけた気がする。
僕にしかできない何かがある。ならば僕は──僕なりの英雄になろう。大嫌いな自分に背を向けるんじゃない。情けなくてもいい。僕が僕のまま、自分の弱さを受け入れて。誰かにとっての英雄になるんだ。
あの頃の弱い自分に向き合う。だってそれも、変わらず僕であって。今まで積み重ねてきた人生は、間違ってなんかいなかったんだって。
理想の英雄にはなれない。彼のように光り輝く人生は歩めないかもしれない。
だけどせめて、彼女の影として役に立てる自分であろう。僕にしかできないことがあるんだって、彼女が教えてくれたから──。
あの日憧れた彼の背中を追いかけるだけの物語は、もう終わりだ。
さあ、始めよう。再び生まれ出ずる者として。
第21話 『英雄になりたい、英雄になれない者たちへ』
勇気の在り処は、この胸に。




