第014話 燃える街、紅き血、そして
ルルーエンティ。そこは本来、魔獣などの外的要因から国を守るために訓練生が集まる都市だ。部隊の一つ、『白羊宮』が本拠地を置くことでも有名で、その守りは非常に堅固であった──はずだった。
今、目の前に広がる惨状に僕は息を飲むことしかできない。
ゲームでこの地を訪れる時には、既に街は敵の手に落ちている。だがこのタイミングでルルーエンティにやってくると──
「街が、燃えている……」
まさに、激化する戦闘の最中に出くわすことになるのだ。
「どうするんです?」
この光景を見ても動揺を見せないミスティ。僕はそんな少女の姿に、ほんの僅かだが冷静さを取り戻す。
「……手分けしてアトラとハザマを探そう。僕は東を、ミスティは西を頼めるかな」
「りょーかいです。見つけ次第、空に魔法でも打ちますので」
「ああ、ありがとうっ」
この状況で頼れるのはミスティしかいない。彼女がいて良かったと心から思った。
素早い身のこなしで、まるで忍者のように屋根伝いに西へと向かったミスティを見送って、僕も動き出す。
大声を上げて名前を呼ぶべきか迷ったが、ここで目立つような行為をすれば敵が集まってきてしまう可能性があったため、それはできない。
「うっ……」
街は肉の焼ける嫌な臭いが充満している。倒れ臥す人影もあちこちで見える。胃の奥の方から何かがせり上がってくるような感覚が断続的に襲ってきて、冷や汗が止まらない。
(どこだ、どこにいるんだあの二人は……!)
事前知識のないことになると、途端にどう動けばいいか分からなくなる。ゲームのシナリオから外れてしまえば、僕はただの雑魚だ。
「くそっ、いない……」
街中をうろつく黒い外套の敵は、未来視の力で回避できる。しかし、未来視は千里眼ではない。アトラたちの居場所までは伝えてくれない。
「助けて、ぐれぇ……」
「……っ、」
倒れている男が、こちらへ向かって手を伸ばしている。僕はそれに思わず足を止めた。
悲痛な叫びが、僕の鼓膜と心を揺らす。
──助けたい。彼らは僕の愛したゲームに生きる登場人物たちだ。
しかし、ここで時間を使うわけにはいかないのも確かだ。助けていたらきりがないのだ。この人を助けたとして、なら見捨てた他の人たちはどうする?
「ごめん……っ」
きっと今、この街でアトラを助けに向かえるのは僕だけしかいない。
この国の姫様を救うためだから──そう言えば納得してくれる。そんな言い訳で自分を守らないと、僕はどうにかなってしまいそうだった。
僕はブライトのような英雄の器ではない。アトラ一人でさえ、精一杯なんだ。
痛いほどに歯を食いしばりながら、僕は踵を返して再び駆け出した。
その時だった。
「──────」
目の端に、空へ向かって飛んでいく氷の花を捉えた。
「ミスティッ!」
間違いない。ミスティの合図。つまり彼女が二人を見つけた、ということだ。
僕は方向転換し、発射地点と思われる西へと全速力で走った。
「この辺りか?」
正確な地点が分からないため、あとは手探りで探すしかない。こんな時だが、携帯電話のない世界の不便さを痛感した。
「近くにはいるはずなんだけど────」
見回しながら、路地を曲がる。
その瞬間。
瓦礫を破壊するような轟音が、一帯に響き渡った。
「何……が…………、」
すぐにその地点へ向かう。いや、向かおうとすると同時。僕の未来視は、その光景を脳内に直接叩き込んできた。
「や、やめ……」
全身に震えが走った。僕は転びそうになりながら、その路地裏へと飛び出した。
「──邪魔だ」
温度のない声とともに、ベキィ! という硬質な何かが折れるような音がここまで聞こえてきた。
「ぎ、ぃ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?!?」
鼓膜を打つ悲鳴。
眼前で起きている悪夢に、呼吸が止まった。
腕を押さえて倒れ臥すのは赤髪単発の青年。その身体を、まるでゴミ同然に足蹴にしている何者か。
そして、その男が首を鷲掴みにして吊り上げている──────金色の髪を持つ少女。
「………………ぁ」
何者か──いや、僕はその男の名前を知っている。
「……今日は邪魔がよく入る」
破れかけの黒い外套。煤汚れひとつない純白の長髪。まるでエルフのように尖った耳。鱗状にひび割れた顔の右半分が特徴的で、紅色の虹彩が爬虫類のように縦に割れており、髪の隙間からこちらを見据えている。
そして、背に備えるは三対六本の刀と巨大な隻翼。その容姿からも分かる通り、人間離れした特異存在。
人間と幻想生物「竜」を掛け合わせたような、魔術的人工生命──
「ルインフォード・ヴァナルガンド…………っ」
「──貴様、なぜ己の名を知っている?」
ルインフォードは、吊り上げていた腕を下ろし、まるで幼子が人形にするが如く少女を引きずりながら、こちらへ向かってきた。
「まあいい。目的は完遂された」
「そ、その手を離せよ……っ!?」
「──貴様も己の障害となるか?」
「……っ、ぁ」
ルインフォードの眼光が僕を射貫くと同時に、一歩もその場を動けなくなった。
魔法? いや、違う。
ただ単に、それは恐怖。
圧倒的な力を前に立ち竦んだ。それだけのことだった。
ルインフォード・ヴァナルガンド。
魔道士グリムガルドが生み出した特別製の魔術的人工生命。彼が操る者の中でも最上位に位置する集団、『理想郷委員会』に属している。
いや、今重要なのはそんなことではない。
この場でこの男と出会ってはいけなかった。知り合ってはいけなかった。この男と今戦っても、勝ち目はきっと万に一つもない。なぜなら────
ルインフォード・ヴァナルガンドと実際に戦闘するのは、物語中盤であるからだ。
そう。考えるまでもない。物語が始まったばかりで、全くレベルの上がっておらず経験も積んでいない僕たちがルインフォードに敵うわけがない。
ここへ来てはいけなかった。やはり正しかったのは僕だった──だとしても、それは後の祭り。
物言わぬハザマ。だらりと腕の垂れ下がったアトラ。
──昨日まで一緒にいた二人は。
「ぁ、ぁぁぁあ、あ」
──もう、動かない。
「あ、ああああああああああああ、っあ」
全ては。
終わってしまった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」
僕はロングソードを抜き放って、思い切り振りかぶる。
「──煩わしい」
しかし、僕の素人剣術が通じるわけがない。
目にも留まらぬ速さの回し蹴りが、僕の腹を抉った。
「ごぶ、ぶへぇぁっ」
思い切り吹き飛び、背中から壁に激突する。
身体の中からバキバキィッ! という異音がするのを、どこかか他人事のように聞く。
「弱いな、人間は」
ぐちゃ、と地面に崩れ落ちる。一撃で、既に立ち上がることすらできなくなっていた。
膂力が違いすぎる。実力差が大きすぎる。奴は剣も抜いていない。ただ邪魔な虫を払っただけ。それだけでこちらは満身創痍。
「ごぶ、がはぁっ」
……どうしろっていうんだよ。
自分の吐いた血が、路地を赤く染めた。激痛に身体中が悲鳴を上げている。
興味を失ったのか、僕から視線を切るルインフォード。そのまま、アトラを引きずって去ろうとするが──
「待て、よ」
その声は、僕ではない。
「その人を、離せ……クソ野郎、が」
全身を血に染めた赤髪の男が、ゆらりと立ち上がった。
「離せっつってんだろうがああああああああッッ!!!!」
そして、最後の力を振り絞ったのか、ハザマは倒れこむような勢いでルインフォードに向かって駆け出した。そして大剣を直上に構え、振り下ろす──
「しつこいな」
一言。ルインフォードはさして苛立ちも感じていない様子でそう言うと、背に備えた三対六本の刀のうち一振りを抜く。そして──
「ぁ──」
神速一閃。
横薙ぎに腹を切り裂かれたハザマは、膨大な血を流しながら再び地へ落ちた。
その顔が、ちょうど僕の眼前に来る。
「ぁ、ああああぁぁぁあ…………」
「が、はぁっ………………ブライ、ト」
人の死なんて間近で見たことのない僕にも分かるほど、急速に命がこぼれ落ちていく。ハザマの瞳から光が失われていく。
そして。
「ごめん、な……………………」
わずかに動く唇が──最期の言葉を告げた。
「なん、で……」
死。
今、目の前に死がある。
ついこの間まで声を交わしていた男が、物言わぬ身体と化した。
「く、そぉ……っ」
なんでこんなことに。
「離せよぉ……」
どうして僕が。
「アトラを、離せよぉ……っ」
這いつくばったまま、僕はルインフォードの足首を掴んだ。それで何が変わるわけでもない。
それでも、僕は。
僕は──────
ザクリ、と肉を断つ音がした。
それから、自分の体に剣が突き刺さっているのを感じた。
苦しい。呼吸ができない。肺を貫かれたのか。痛い、痛い、痛い。今すぐ叫びたいのに、それすらもできない。ただ無力に、情けなく地に縫い付けられている。
──なんだよ。何も変わらないじゃないか。暗い部屋で一人ゲームを続けていたあの頃と同じだ。僕がいたところで世界は揺るぎもしないし、何も変わらない。こんなちっぽけなオタクが足掻いたところで、大勢に変化を起こすほどの力はない。
──悔しい。
なんで僕は、こんなに弱いのだろう。ブライトと同じ身体能力を得て、途中まで同じ道のりを歩んできたはずなのに。なんで僕にはできないんだろう。
──悔しい。
ルインフォードに力及ばないことじゃない。もちろんそれもあるが、それは本質じゃない。
僕は知っているんだ。ブライトという青年が、アトラを救い、そして国を救う物語を。
だからこそ悔しい。理想の姿を知っているからこそ、そこに届かない自分の情けなさが悔しい。
僕と彼。
現実と理想。
端役と主人公。
学生と英雄。
何が違うかと言われれば、全てが違う。どれだけその背中を目指しても決して届かない。本質的に、僕はブライト・シュナイダーではないのだから。溝が埋まることはない。
──悔しい。
その想いだけが、空回りして。
「終われ、人間」
やがてどこか遠くから、そんな声が聞こえて。
だんだん身体が冷たくなっていって。
視界が狭まって。
──ちくしょう。
あの時──アトラを守るために凶刃をその身に受けた時と同じ感覚だった。
しかし、今度はあの時のような奇跡もない。正真正銘、死だ。
──何もできなかった。
その悔しさだけが強く、強く、脳内を巡っていた。
しかし、その思いすらも分からなくなって。
僕の意識は、決して戻ってくることはできない黄泉の沼の底へと引きずりこまれていき――




