第009話 月夜に一雫
リドラの村でのイベントは宿屋で一泊することで発生する。その日は疲れも溜まっていたのですぐに宿屋へ向かったのだが、そこで一つ問題が発生した。
「ごめんなさいね、今残っている部屋は一つしかないの」
宿屋の女将さんが言うには、エストランティア城襲撃の件でリドラの村にも人が押し寄せており、宿屋はどこもこのような状態だということだ。
(うーん……仕方ない、よな)
女性陣が文句を言うかと思ったが、
「別に何も問題ないでしょ」
「お風呂付きの宿屋はここだけですしー」
と、あっけなく了承を得てしまった。というよりお風呂が勝った。
ということで宿屋の一室を三人で使うことになった僕たちは、ようやくたどり着いた細やかな安息にため息を漏らした。
「私たちはお風呂に入ってくるわ」
「覗いちゃダメですよー」
「の、覗かないよ!」
アトラとミスティは一刻も早く汗を洗い流したいのか、連れ立ってお風呂へと向かってしまった。この宿には裏に露天風呂があるのだ。
「……」
僕は二つ並んだベッドに体を投げ出した。
ここまでくるだけでも、相当な時間がかかった。ゲームなら半日もかからずに通り過ぎる地点だ。
(現実へ帰りたいという思いがないわけじゃない。でも……)
当たり前の話だが、この世界の人々は僕の好きな『エストランティア・サーガ』の物語に真剣に向き合ってくれる。分かりやすく言うならば──言い方は意味不明だが、全員ガチ勢ということだ。
学校のクラスメートは誰もこのゲームを知らない。ブライトの旅路を知らないし、アトラの未来を知らないし、この物語の結末を知らない。
そんなやつらと会話することなんてないし、話が合うわけがないのだ。たまにゲームをするというクラスメートがいても、せいぜい有名なパーティゲーム止まり。こんなマニアックなゲームの細部まで付き合ってくれるような人は、一人もいない。
(あの空虚さをもう一度味わうくらいなら、もう──)
そんなことを考えているうちに眠気がやってきた。身体能力は高くなったが、疲れがなくなるわけじゃないらしい。僕は睡魔に抗う気力も湧かず、誘われるまま夢の中へと落ちていった。
☆★☆
そうして僕が目を覚ましたのは、真夜中だった。
なぜこんな中途半端な時間に目を覚ましたのか、その答えはすぐに分かってしまった。
「ぅう……っ、お父様……お母様ぁ……っ」
そんな掠れた涙声が、暗がりの部屋に響いていたのだ。
「私、どうすればいいの……」
弱音、だった。
見れば、ミスティはとなりのベッドでぐっすりと眠っている。幸せそうな笑みをうっすらと浮かべながら毛布にくるまっている。
しかしそのベッドにアトラの姿はない。
皆が寝静まった夜に、彼女は誰にも聞かれないように泣いていたのだった。
「無理だよぉ……突然、こんなことになって……」
部屋の隅で膝を抱えてうずくまる少女の姿は、昼間の活発な様子からは想像もできないくらい小さく見えた。
考えてみれば、無理もない話だった。世間を何も知らない姫が突然外界に放り出されたのだ。どうにかここまでたどり着いたものの、この先どうなるのかは全く分からない。それに彼女はグリムガルドに追われているのだ。
隠していたのか、我慢していたのか。それは定かではない。なぜなら、ゲームの中の彼女はこんな姿を見せないからだ。
僕は物音を立てないように身じろぎをした。月明かりの下、風に揺れて月明かりにきらめく金髪。大部分が切り落とされても、未だその輝きは健在だ。しかし今だけは、雅びやかさよりも物寂しさが勝ってしまっていた。
──こんな時、どうすればいいのだろう。
黙って寝たふりをするべきか。それともブライトなら、「大丈夫だ」と慰めてやるのだろうか。でも、僕は泣いている女の子を慰めたことなんてない。どうすればいいのかなんて分からない。
(……知らなかった。アトラが夜な夜な泣いていたなんて)
ゲームの宿屋なんて、泊まった瞬間に朝になっているものだ。その夜に何が起きたのかなんて、いちいち教えてくれない。楽しく談話したのかもしれないし、喧嘩していたのかもしれない。プレイヤーの預かり知らない物語が、きっとそこにはあったはずだ。だがやはり、そのシーンに描写がないというだけで、ゲームの世界では『なかったこと』扱いになるのだ。
だとすれば。
ゲームの中のブライトでは、絶対にアトラを慰められないのではないだろうか。
彼らには語られない物語がない。裏を返せば、彼らの物語はゲーム内で語られた部分しか存在せず、残りはプレイヤーが脳内で補うことしかできないということだ。
つまり、何百何千というプレイヤーがこのゲームをプレイしても、「夜な夜な泣いているアトラ」を慰められるブライトはどの世界にも存在しなくて。
彼女は一人でその孤独や恐怖と戦わなくてはいけなくて。
今もアトラは震える肩を両手で抱きしめていて。
ならば、目の前で泣いている彼女の気持ちは、誰が救ってやるんだ?
そう思ったら、止められなかった。
「あ、アトラ」
「なっ!?」
声をかけた瞬間、バッ! と勢いよく顔を上げたアトラ。
「あ、あ、あ、あ……っ」
そしてあわあわと手を振り、顔を背けて涙を拭き始める。
「い、いつから起きてたの?」
「え、ええと……ついさっき」
「そ、そう……」
曖昧な返事をしてごまかす。目元を赤くしたアトラはずずーっと鼻をすすると、何事もなかったかのように立ち上がった。
「今見たことは忘れて」
「そ、そんな。でも」
「お願い」
ベッドに腰掛け、真剣な表情で窓の外を眺めるアトラの横顔は有無を言わせないものだった。
「大丈夫。明日になればきっと、いつも通りの私に戻ってるから」
「……」
その言葉に、僕は黙るしかない。
何かを言わなきゃ──そう思って声をかけたんじゃなかったのか。
結局僕は、彼女に慰めの言葉一つかけてやることができなかった。それでもアトラは気丈に空を見上げている。
明日になればきっと。そんな言葉が本当だとは、とても思えなかった。
「ねえ」
その一言で我に返り、彼女を見つめる。僕は素早く数十センチ距離をとって、ベッドに腰掛けた。
「あなた、全然事情を聞いたりしてこないのね」
「そ、そういえばまだ聞いてなかったね」
知っているので忘れていた。『ブライト』はアトラがなぜ追われているのかも分かっていないのだった。
「話してもいい?」
ぷらぷらと足を振りながら、アトラは問いかけてくる。
「な、なんで僕に聞くの?」
「だって、愚痴みたいじゃない」
苦笑いするアトラ。それは涙のごまかしだったのかもしれない。そう思うと断ることもてきず、僕が一言「聞きたいです」と返すと、少女はぽつぽつと話し始めた。
「グリムガルド……あいつの目的は、私の血」
アトラ・ファン・エストランティア。大精霊ユグドミスティアの血を引くと言われる王族の中でも、近年稀に見る才能を持つ少女。
グリムガルドがこの国にやってきた理由は一つ、エストランティア皇国が所持する聖遺物『大霊杯』を奪取するためだ。
大霊杯は、この国全域に渡る祓魔の力を持っている。エストランティア皇国は大霊杯の力によって凶悪な魔獣や怪物から皇国民を守っているのだ。
もちろんそんな代物を野ざらしにしておくわけにはいかない。大霊杯はエストランティア城最深部に厳重に封印されており、誰一人動かせないようになっている。
しかしそこに例外を生み出すのが、『巫女』の血である。
巫女の血で杯を満たすことで現世との繋がりが蘇り、『霊世』という別位相の空間に固定されていた大霊杯が実体化するのである。ちなみに霊世というのは、僕が一瞬だけユグドミスティア様と会話したあの空間のことらしい。
つまり、巫女の血が大霊杯の封印を解く最後の鍵となっているのだ。
「普段は城の最深部で厳重に管理されてるんだけど、今年はエストランティア皇国建国300周年記念式典があった。本当はあの後、皇国民に大霊杯をお披露目する予定だったの。そこを狙われてしまったのね」
グリムガルド本人が城を動かない理由は、奴が大霊杯の封印解除を試みているからだ。代わりに直属の組織が追っ手として仕向けられる。
「私は絶対にグリムガルドに捕まっちゃいけない。でも私があいつを倒さなきゃいけない」
手のひらを空に浮かぶ月に掲げる。まるでそこに流れる血潮を意識するかのように、手を握って、開いてを繰り返している。
──そう。巫女の血を持つアトラは絶対に捕まってはいけない。しかし、巫女の血を持つアトラでなければ、大霊杯の力を手に入れたグリムガルドを倒すこともできない。
このジレンマに、少女は立ち向かわなければならない──
「ごめん、やっぱり長くなっちゃったわ」
「いや、全然!」
アトラ本人から語られる物語は真に迫っていて、当たり前の話だが僕がゲームで見ていた時とは比べものにならない臨場感とリアリティを持っていた。
気がつけばもう、彼女の頬に涙の跡は残っていない。
「あまり驚かないのね。この世界の危機だっていうのに」
全てを知っている僕の様子に疑問を感じたのか、すっかり元の様子に戻ったアトラが意外そうにこちらを見ている。
「親とも離れ離れになってしまったのに。あなたは辛かったり、寂しかったりしないの?」
「──、」
その一言に、今度は僕の息が詰まった。
『ブライト』に向けられた言葉のはずなのに、まるでその向こうにいる僕自身に届くような一言だった。
親と離れ離れ。知り合いは一人もいない。それどころか自分のいた世界じゃない。
……だけど、僕は。
「寂しくは、ないよ」
いつの間にか、ブライトではなく安藤影次としての言葉で話してしまっていた。
「親と仲が悪かったわけじゃない。でも、友達と呼べるような人はほとんどいなかった。だから……あんまり未練はないんだ。あの場所には」
「……」
静かに耳を傾けてくれるアトラに甘えて、僕は言葉を重ねた。
「誰も僕を必要としてない。親から悲しむとか、そういう一般論じゃなくて。僕の主観論で考えて、僕があの場にいる意味はなかった。僕一人がいなくても、あの世界は成立したんだ」
「そんな……」
悲しそうに顔を歪めてくれるこの少女の優しさが、今だけは僕の心を逆撫でした。
「……むしろ、この世界の方が僕にとっては居心地がいいのかもしれない」
「ダメよ、そんなの」
「──え」
突然の強い否定に、僕は面食らってアトラを見た。
その碧色の瞳と、視線がぶつかる。
「ちゃんと家族の元に戻らなきゃダメよ。それで平和に暮らさなきゃダメ」
その言葉から目を背けたくなる衝動に駆られる。
「──今はまだそう思えなくても、いつかね」
その太陽のような笑みを僕に向けないでくれ。
それは本来ブライトに向けられるべきもので。
僕にとっては、あまりに眩しすぎるから。




