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曇天、故に目が覚める

作者: 湯納


 雨が降り出しても、私は走り続けた。

 仕事の悩みとか、彼と別れた事とか、将来の事とか。そんな高尚な(ありがちな)理由などは生憎(あいにく)持ち合わせていない。

 理由を挙げるとすれば、それは至極単純。

 

 曇天だったから。



 惰眠を貪り、学生時代からの友人とSNSで他愛のない話をし、勧められたアメリカンドラマを消化する。学生の頃、とりわけ大学生を語っていた頃では想像もしないほどに、今の私は"そんな休日"を何よりも愛している。毎日が、四捨五入してしまえば"休日"だったあの頃とは違うのだ。

 学生身分を失い、いわゆる大人として生きていくというだけで、これほどまでに休日の有難みを実感する事になろうとは思ってもいなかったものだ。土日を安息日と取り決めてくれた、まぁ誰かは知らんが神のような所業を残した偉大なる英雄様には感謝してもしきれない。そう、今夜のビールの一本くらいなら分けたっていい。欲を言えば水曜日辺りにもう一つ増設する事を提案したいところではあるが。

 これほどの苦行に何十年も身を投じるなんて正気の沙汰じゃない。どんな覚悟があれば、好きに生きる事を諦めてまでそんなマゾになれるのか。お金は大事だが、もっと大事にしていきたいものだってあるだろう? なら大事にしていこうよ。

 ……それを守るために働いているのか。ああ、私はまた一つ世界の真理に辿り着いてしまった。我が父は、世の働く人々はなんて偉大なんだ。人類は素晴らしいな、涙が止まらない。そして奴らは変態的だ。

 

 人類の尊さを再認識できたところで、社会人2年目にしてまだまだひよっ子なのに一人前の仕事を押し付けられる私の現状は変わらない。

 よもや社会人というものがこれほど忙しいとは、白状すると認識が甘かった。

 大学時代はダンスサークルとスキーサークルに顔を出し、講義はほとんどサボってバイトに明け暮れていた。充実した日々ではあったが、毎日がたいした苦も無く流れるように過ぎて行くだけのモブキャラの日常。意欲的に何かに取り組むという事もなく。大した目的もなく。何も残せず。人並みの、可もなく不可もない日々。それが私の学生時代。


 社会が厳しいなんて、知っていた。その辺の虫ですら知っている事だ。

 そうは言ってもこれが今後、いつまでも続くと考えればそれはもう嫌気の十や百、千や万が鋭く煌めいては全身を絶えず刺してくるのも無理はないのではと思う。自分だけなのだろうか。

 覚悟が足りなかったのか。大抵は持ち前の要領の良さで労せずとも乗り越えてきたから。

 これといった自分の理想像があるというワケでもない。夢もない。


 漠然と私は、私によって生かされている。そんな日々がこれからも続いていくのか。


 二十七℃の室温のようにやや不快な煮え切らない中途半端さを、私は自覚している。

 それは今の私であり、今の状況であり、私が抱き悶えている感情でもある。


 会う機会も減った彼は自然と合わなくなり、やがて消滅した。自分でも驚くほど大した感情も起こらなかったが、何かを失うのは寂しいものだった。

 職場の不満はない事もない、というよりも語りだせば決壊したダムのように溢れ出るので淑女として、遠慮させていただく。


 そうこうあって、学生時代はストレスなど無縁に近かった私が、今や奇声を上げて暴れたいと思うような湧き上がる激情をふつふつと腹部に溜め込んでいる。この衝動もいつか解放してやらねば、いつまでも腹の内で飼ってやることはできないのだ。残念ながらうちはペット禁止だから。


 他人のなんと頼りないことだろう。良くも悪くも、結局は他人で。世界はよくよく見てみれば孤独だ。

 助かるのは自分で、助けるのも自分。問題も、問題の解決も、自分の内にある。

 ああ、これ以上のキャパシティはないのでどうだろう、保健所に収容してはもらえないだろうか。 


 分かってる。分かっている。私は理性的だ。これは一時的な衝動。

 どうせ明日になれば、こんな虚しさもなくなる。


 仰向けにベッドに倒れこむ。やれやれ。

 ため息の一つも付きたくなる。たまの休日だってのに。

 気怠い朝に、冴えない食事。

 無気力な昼に、自堕落な私。


 近くのコンビニへアイスでも買いに行こうと玄関から出た時、ふと見上げた空は、灰色だった。


 曇天。


 温い風が私の体を包み、鉄臭い匂いを漂わせ露出した首元と足を撫でていく。

 低く滑空していく(つが)いの鳥の遥か上、鈍い銀色を思わせるどんよりとした雲が空を覆って、それは今にも落ちてきそうだった。

 私の心象を映したような、重たく、だるい色。

 

 思わず、私は空を睨み付けた。

 その時から、ふつふつと何かが内側から沸きあがる感覚が生じた。


 こんな曇天の日に、私は何をしようか?

 

 背筋がぞくりとした。

 体が解れ、意識が冴え渡る感覚は野生になった気分だ。

 溜まっていた欲求が鼓動を始め、それは次第に大きく激しくなっていく。


 どうしたって、今日は抑えられない。


 気付けば私は、家に戻り押し入れから引っ張り出してきたウィンドブレーカーを着こんで、運動靴を履いていた。

 嫌な事も、めんどうな事も、全部忘れて、ただ走る。

 

 走る。


 走る。息が上がっても。

 走る。足が棒になっても。

 走れ。我を失ってしまえ。

 苦しい。今は、その苦しさすら、愛おしい。 

 こんな程度でまだ私は満足していない。もっとだ。もっと寄こせ。


 一時間が経ち、頭上から雨がポツリポツリと振ってきた。

 世界は灰色に染まり、道行く人々の姿は消えた。音が掻き消され、フラットな世界が広がる。


 私には、ちょうどいい。

 

 限界が近いのか不意に足から力が抜け、思わずその場に座り込んでしまった。久々の運動は老いた体に応えたらしい。

 歩道の真ん中でへたり込んだまま、私は息を荒げたまま顔を上げ空を臨んだ。

 空から落ちるソレは火照った体を冷やし、全身を浸した。口を開けて、はしたなく下を出してその液体を享受する。


 ああ気持ち良い。快感だ。 

 雨に濡れる私は、自嘲気味な笑いを浮かべる。

 これからどうやって帰ろうかとか、どうだっていい。

 

 軋めく骨の音も、逆さまに映る私の姿も。

 どうでもいい。


 クリアになった頭で、私は私に問いかける。

 些細な事だ。私のストレスなんて。悩みなんて。

 

 この行動に意味はない。初めから求めてもいない。ただの衝動だ。

 何かが解決するとも思っていない。何かが変わるとも思っていない。


 それでも私は、走って良かったと思った。


 いい日だったと。


 それに。

 ランニング後のこんな気持ちのいいシャワーが浴びれるのなら、さしあたって何かを複雑に考えずとも生きていけるだろう。

 衝動に、身を任せればいい。


 5月のある日。曇天の夕刻にて。

自分もたまに走ります。健康のために。

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