狐の章 8 すすぎ
8 すすぎ
・・・頭が痛い。
全身が感電したかのような痺れの中にいる。
そんな中、麻酔が解けたかのように、痛覚がもやのように戻り始めている。
そんな気がして、ゆきは目が覚めた。
ただ、目を開けたはずなのに、目の前は真っ暗で、
頭の痛さも重なって、状況を理解できるまで幾ばくかの時間を要してしまった。
横向きになって倒れている身体は、同じ姿勢を続けていたため痛いのに、
動かそうにもまったくといっていいほど言うことを聞いてくれない。
小さく背を丸めているのは、痛みをやり過ごすため。恐怖をやり過ごすため。
さっきまで重い鎖で拘束されていたはず手足は、気づくと軽くなり、それは「自由」を意味していた。
部屋に鍵がかかっているか、逃げる気も起きないだろうと判断されてか。
確かに、起き上がる気すら起きなかった。
ゆっくりと、右手首を左手で押さえる。
さっきまで、熱かったそこは、今は逆に氷のようにつめたい。
逆も触れてみた。冷たさと、指先の痺れが尋常じゃないことに気づく。
ただ。
出血は確実に止まっていた。
(しんじゃう、かも。)
ふと思った。それほどの出血だった。
悪趣味にも、溢れ出たその血を、深く広いワイングラスに溜め込まれ。
そこまで記憶をたどると、ゆきは小さく頭を振った。思い出したくない。
けど。
あいつの、嘲り笑いがよみがえる。
「かわいいねぇ。ほんと、かわいい。」
そういいながら、睨み付けるゆきを、嘗め回すかのように見つめてきた、あいつ。
「僕に臆しない、その瞳、ほんと、かわいいよ。」
ひょろっとした、ゆきよりも若いだろう「あいつ」は、自分のことを「橘の皇子」と名乗った。
ゆきに、「安倍の皇子」弘樹をここに呼び寄せるように、申し入れた。
否、命じた。
ゆきは、それに応じることを拒絶した。
すでに声を封じられていたから、強く首を横に振る。
巻き込みたくない。これは、自分の罪の形だ。
あいつ”ら”は、弘樹を利用して、殺す気だ。
自分もそうあるように。
けど、彼は残酷なことを言った。
「たぶん、呼び寄せることになるよ。」と。
彼の笑みは、幼くて、あどけなくて、残酷だった。
「きょうゆうし、しってるだろ?」
何を言われたのか、理解したくなかった。
彼の手が、ゆきの首に伸びる。
「痛いって、言っていいんだよ。泣いていいんだよ。苦しいって、叫んでいいんだよ。」
どれだけ、叫べたらいいと思ったか。
しかし、叫べば、泣けば、心を大きく揺らせば、それは、すべて弘樹の目を奪う。初めて共有視を見て混乱した自分のように。
彼の手は本気だった。気道をぎりぎりまで押しつぶす。
しかし、つぶしきらない。そのぎりぎりの一歩手前が、泣き叫ぶために用意された場所。
酸素を確保できないゆきののどは、自然と反り返って高いところの酸素を求めた。
その白く浮き上がったのどすら、あいつはきれいだと賛美した。
「知ってるかい?」
このままだと死んでしまうと思ったのか、橘の皇子はゆきの首からぱっと手を離した。
身体を丸めて、ゆきは咳き込んだ。
短い呼吸で酸素をかきこんだ。
そのゆきの後ろ髪を、橘は鷲つかんで引っ張り、そのまま壁へたたきつけた。
目の前を、火花が飛んだ。
つながれている手足の鎖が、じゃらりと大きな音を立てて、食い込んだ。
「さっき、ちょっと遊んだんだ。安倍の皇子と。」
壁に寄りかかって、短く大きな呼吸を繰り返すゆき目の前に、橘はしゃがみこんだ。
そっと、ゆきのあごをつかんだ。
上を向かせる。目を合わせる。
「きみを殺すビジョンを見せただけで、そりゃもう、ものすごかったよ。怒り狂った。」
狐は、同族意識が強いからね。そういう橘は口だけ笑みを浮かべた。
その時の怒りは、見境のない絶大な力となった。
「僕は、そのときの彼の力が、ほしいんだ。」
神の力。ひとのちからが及ばない、それは全能のちから。
総てを創造し、総てを破壊することを許されたちから。
ゆきは、目の端に、金色の鎖を見つけた。
このさきに、弘樹がつながれている。
そのゆきの視線の動きに気づいた橘は、あぁと思い出したかのような声を上げ、ゆきとの距離を縮めた。
額と額が、こつんと音を立ててぶつかった。
ゆきはおもわず目をつぶった。
「ぼくは、その力に殺されると思ったよ。だから、お仕置きをしてやった。」
ゆきの耳元にささやく。
「勘違いしちゃいけない。飼い犬は、飼い主を殺しちゃいけないんだ。逆は、ありだけどね。」
ちゃり、と細い鎖が動く音がした。
ゆきは、息をのんだ。
血塗れの、弘樹。
あのときの映像が、鮮やかに脳裏によみがえる。
「たぶん、あいつは来るよ。お仕置きされて黙っているやつじゃない。けど。」
いつの間にか、彼の手にはナイフが握られていた。
それをゆきの頬に押し付ける。すっと引くと、その軌跡に沿ってあかいせんが残った。
「もう一度、彼を怒らせたい。彼の怒りが、尊い天狐の血のちからを呼覚ますなら。」
いたずらにわらった彼は、ゆきの頬の赤い血を、ぺろりと赤い舌でなめた。
…その感覚を思い出して、また、吐き気がした。
そのあと、何があったのか、断片的にしか覚えていない。
覚えているのは、力任せに着ていたブラウスを破かれたこと
記憶と現実の見境がなくなっていた。
振り下ろされた刃を、飛び散る血をなんどもなんどもなんども…
こびりついたかのような金切り声が、なんどもなんどもなんども…
頭が割れるように痛い。あれ程、胃の中のものを戻したというのに、それでも止まらない吐き気。
手首を何十にも切りつけられた。そこから流れた血のせいで、感覚と体温が薄れていく身体。
(共有視…)
たぶん、送ってしまったのだろう。
銀妃の言葉をそのまま取れば、何があっても、その感情を表に出さなければ共有視は封じられると思った。
助けを呼んではいけない。
ないちゃ、いけない。
けど、それが許されるほど甘いものではなかった。
橘は言っていた。泣き叫ぶまでやめない、と。そう淡々と告げた。
助けてほしかった。
限界をはるかに超えていた。
ここは地獄か、死んだほうが楽ではないか。
最後、声を上げてしまった。
封じられた声帯を震わせて。たすけて、もうやめて、と。
その声に、橘は満足げな顔をしていた。「かわいいよ。ほんとかわいい。」
ご褒美と言う名の口付けは、ゆきにとっては絶望だった。
…それからどれくらいたったのだろうか。
共有視をみた弘樹は、この罠にのこのこやってくるのだろうか。
知り合ってから数日でも、なんとなく分かってた。
彼は、優しすぎる。
自分のことよりも、周りを大切にする。
罠だと分かってでも、くるだろう。
止めなくては。
ゆきは、全身に力を入れた。
身体を起こそうとする。
しかし、思うように力が入らず、バランスが崩れる。
目の前がくるりくるりと回っている。
もう一度、と上半身に力を入れて起き上がったとき、
目の前に、あのときの少女、咲が立っていた。
自分にすべてを教えてくれた少女。
コンビニに行く、は口実だった。
「大丈夫」樹里がそう言っていても、ゆきの心臓は冷静さを完全に失ったかのように走り続けている。
落ち着かなきゃ、落ち着きたい。
少し外に出れば、外の空気を吸えば落ち着くかもしれない。
いつものように、出かけて、買い物して、おいしいもの食べて…
けど、目の前の樹里を心配させてはいけない。
だから、コンビニと提案しただけだ。
樹里は、悩んだ末にOKをだしてくれた。ありがたかった。
「早く帰ってくるね。」
そう言って、安倍家の門をくぐったのだが。
その門の前に、彼女、咲がいた。
なんどもなんども、ゆきの前に現れた少女。
咲は、泣いていた。目が真っ赤だった。
外の暖かな空気が遮断された、気がした。空気の流れが止まった。
ゆきの足が止まった。
「たすけてよ。」
泣きながら、まるでゆきに抗議するかのように、咲はつぶやいた。
「もう、いやだよ。」
咲の足には、白い鎖が巻き付いている。ゆきはそれに気づくと、慌てて咲に駆け寄りしゃがみこんだ。
白い鎖にふれようと手を伸ばすと、その手を咲は引っぱたいた。
小さな手からは想像できない、強い力だった。
「触れたらしぬよ。」
呪いだよ。そう咲は続けた。
ゆきは、息を呑んだ。
「覚えて、ないの?」
咲は、疑念を込めてゆきにたずねた。
ゆきが答えられずにいると、咲は少し残念そうな、悔しそうな顔をした。
「ねぇ。生きるって、楽しい?」咲は質問を変えた。悔しそうな顔をしたまま、ゆきにたずねた。
「・・・楽しいことばかりじゃ、ないよ。」
ゆきが悔しい顔をしたのは、自分のせいで咲をがっかりさせてしまったから。
けど、嘘は言っていない。逃げるような生活、母親の死。楽しいこともあったが、辛いことが多すぎた。
「じゃあ、同じだね。」
咲は、そうゆっくり言った。
「わたしも、同じ。人柱の巫女なんて、悲しいことも辛いこともたくさんあるけど。」
それだけじゃない。暖かいと思ったことだって、たくさんある。
咲はそういうと、下を向いた。自分の足をみやる。
「けど。ここには来ちゃいけないんだ。だめなんだよ。」
そう、独り言のようにつぶやいた。また、涙がこぼれた。
ゆきは、咲の涙を拭いてやる。
人柱の巫女。
ゆきには、その言葉に覚えがあった。
何度も何度も多くの大人たちにそういわれていた。
その言葉から、母親とともに逃げていた。訳も分からずに。
幼き日の記憶。その言葉には、恐怖しかなかった。
「私は、あなたと同じ。あなたと生きた場所は違うけど。」
咲は、その姿こそ3歳かそこらの女の子だったが
声やしゃべり方は、ゆきと変わらぬ歳のようなきがした。
咲は、教えてくれた。
ゆきが生まれて、咲が育った場所は、同じ場所。
そこの言い伝えで、何十年かに1度だけ神様にお仕えしに行かなければならない、という慣わしがあった。
行くのは、3歳の女の子。そうすれば、その神様は災厄から町を護ってくれるという。
そのとき、いくべきは咲ではなかった。別の女の子だったという。
「けど、その子が別の神隠しにあったって大騒ぎで、でね私が行ったの。」
けどね。そう、咲は、絶望と自嘲を込めて言葉をつむぐ。
「そんな神様なんて、いないんだよ。」
咲は、悲しそうに笑った。
言い伝えなんて、慣わしなんて、恐らく伝承されるうちに内容が変わっていったのだろう。
けど、咲を哀れに思った別の神が、咲にある条件を出した。
「私はもうこっちの世には戻れない。戻っちゃだめだよって。それで、私はその神のもとで暮らしてたの。」
暖かいということを、咲はそこで覚えた。
「これは、こっちに来てしまった、約束を破った罰。もういやなの、帰りたい…」
咲は足の鎖に触れながら、ゆきにそう話した。
ゆきは、愕然とした。
自分が知ろうとしなかった事実がそこにはあった。
咲の話は、ゆきが小さい時から散々言われていた話。
咲のいう「神隠しにあった子」は、まちがいなくゆきのこと。
そして咲の話は、要は災厄から町を護るために生贄として殺された子供の話だ。
咲は、自分の身代わりに殺された。
「…めん、なさい。」
そういうのが、精一杯だった。頭の中が真っ白だ。
しかし、咲は、ゆきのその反応にきょとんとしている。
「なんで、謝るの?」と。
ゆきは、その質問に咄嗟に言葉が出てこなかった。
自分のせいで辛い思いをさせた。
死ななくてもよかった。なのに、辛い思いをして、自分の身代わりで死んだ。
「さっき、あなたいったじゃない?楽しいことばっかじゃない、って。」
こちらの世界にあこがれてはあったけど、あっちの世界も楽しいことも辛いこともたくさんあったから同じ。
立場が逆でも、経験する辛さとか痛みとかは、同じ量。
「だって、私とあなたは、同じだから。私は全然後悔してない。あなたをうらやましいとも、思わない。」
そう、咲は続けた。毅然としたまっすぐな瞳だった。
「けど、帰りたいの。もういやなの。」
咲はいう。無理やりつれてこられたのだと。
咲の死に怒り、ゆきが生きていることに怒りをもった人がいる。
ゆきを殺して、その命を以て咲を蘇らせたいと願う人がいる。
けど、それを咲はまったく望んでいない。
「こっちの世界に、来たいって思ってない!どうして…」
自分に刃を突き立てるように、咲は悲鳴のような絶叫をした。
・・・せめて、咲の望みをかなえることはできないのか。
どうしても、どうしても、かなえてあげたい。否かなえなければならない。
かなえてくれそうな人を、ゆきは知っていた。
弘樹に、相談しよう。彼ならもしかしたら術を知っているかもしれない。
「ねぇ。もしかしたら・・・」
ゆきは、咲を見た。
咲は、ゆきの頭の上を指差したまま、目を丸くしている。
何事かと、ゆきは咲が指差した先を見ようと、顔を後ろに向けようとした。
しかし、向けられなかった。
向ける前に、後頭部を大きく硬い何かで強打されたのだ。
泣きそうな目をして、咲はゆきのそばに駆け寄ってきた。
その涙は、あの時鈍器で殴られて気絶したことを心配してか
…いまの自分の姿が、あまりにも凄惨だから、だろう。
「ごめんね。」
ゆきは、咲に、震える右手を差し出した。
「わたし、あなたのことを、救ってあげられない。」
弘樹の元に連れて行ってあげられない。
彼なら、どうにかしてくれる。そう思ったけど。
「まだ、痛いよね。ごめんね。」
咲の足は、ほんの数時間前よりも、白く石のように硬化してしまっていた。
細く白い鎖は彼女の足に痛々しく食い込んでいる。
咲は、首を横に強く振った。
大丈夫痛くなんかない、そう言っている。
そういう彼女の目には今にもこぼれそうな涙が光っていた。
あなたのほうが、痛そうだよ。大丈夫?大丈夫?
そういうと、咲はゆきの頭を抱きこんだ。
大粒の涙をこぼして、泣き始めた。
あぁ。
どうしてこうも、無力なんだろう。
こうしている間にも、弘樹は来るだろうし、咲の足は砕け散るだろう。
「そなたなら、助けられる」そう言い放った、銀妃の顔がよみがえる。
嘘ではないか。何もできない自分しか、ここにはいない。
ゆきは、咲の背中をそっとなでた。
泣かないで。泣かないで。わたしのためになんて、泣かないで。
咲をなでていた、右手首が、かすかに光った。
ゆきの目にその淡いブルーの光が映りこんだ。
思い出す。「おまじないじゃ。すべてを無にする。」
願わくば。
咲の足の呪縛を無にしてほしい。
自分の共有視を無にして、弘樹がここに来ないようにしてほしい。
そして、咲の人柱の巫女としての役目を無にしてほしい。自分が代わる、それが歴史を曲げない正しい形だ。
強く願った。願うことしかできなかった。
気が付くとゆきの右手には、一振りの刀が握られていた。
青白い氷のような、細い刀身。指先からひじほどの長さの小ぶりの刀だ。
ゆきは、その刀を地面に突き刺して、その刀によじ登るようにして身体を起こした。
使い方を、知っている気がした。
この存在を、ずっとそばに感じていた。
「ごめんね。痛いかもしれない。」
願わくば。
まず咲の足の呪縛を、開放して。
そう瞳を閉じ念じると、白く硬化した足の、白く細い鎖を二つに切り裂いた。




