終わりの始まりの章 5
あの日の夜から、彼は変わった。
まず、母屋で眠るようになった。とはいっても、翁が与えた部屋の隅に丸まって眠るような状態だが。
そして、本ばかりに目が行くこともなくなった。
翁への恩返しだろう、朝、藍が起きる頃には、庭と玄関を掃除するようになった。
ほとんど口にしなかった食事も、徐々にではあるが縁側で食べるようになった。
そして、何よりも、顔を合わせることが多くなったからこそ、表情が穏やかになっているのが見て取れるのだ。
藍の話にも、うなづいて相槌を打ってくれるまでになった。
「けど、名前とか肝心なことを何も言わないんだよね・・・」
彼が自室に入ったのをみて、藍がため息をついた。
「名前がないと呼べないし、年齢がわかれば・・・あ、翁よりは絶対に若いけど、けどそういうのって大切じゃん。コミュニケーションには。」
「なんじゃ、やっぱり惚れてたのかの?」
炬燵の向かい側に座っていた翁は、わざとらしく目を丸くして尋ねた。
「どうしてそういう発想になるかな、この爺は。」
藍は手もとに転がっていた八朔を翁に投げつけた。
翁はそれを難なくキャッチすると、器用に剥き始めた。
「年頃の男女だからの。そういうのはワシは歓迎じゃが?」
まあよい。翁は八朔の房を口に頬張った。
「ワシは悪かないとおもっちょる。ただ、藍じゃだめじゃな。」
口をもごもごさせながら、翁はそういった。
「何でよ。」
藍は反論した。別に彼に好意があるとかないとかは関係ない。単純に否定されたことに腹が立ったのだ。
「ああいう男はの。お主のように短気な娘よりも、なんだかんだ言ってもそりゃもう長い間待ち続けられる、そういう女がベストなんじゃよ。」
そういうと、翁は茶目っ気たっぷりのウインクを藍に飛ばした。
藍が「キモイ」と一蹴したのは言うまでもない。
その翌日、翁を訪ねてくる人がいた。
ちょうど、彼が日課の玄関掃除を終えた頃だった。
藍が彼を朝食に呼ぼうと玄関へ向かうと、ちょうどその客人が玄関の戸をあけたときだった。
「おはようございます。玄海の老は・・・」
玄海の老、翁をそう呼ぶ人はそう滅多にはいなかった。
訪ねて来たのは、藍も知っている人だった。
「あれ?明日香さんじゃないですか。」
藍が声をかける。久しぶりに会う明日香は、金に近い茶の髪をひとまとめに高いところで結んで、大きな瞳をこれ以上ないほど見開いていた。
視線の先には、きょとんとしている彼。
訪ねてきた明日香が彼を見つめているからだろう、彼の手は止まって、明日香を見つめ返したまま微動だにしない。
「な、な、なんで、ここに?」
引きつった叫び声で明日香は叫んだ。
その叫びに答えるか否かのとき、明日香の後ろから声がした。
「明日香、うるせーよ。てか、さっさと入れよ。おまえ邪魔。」
明日香の後ろには、体格のいい明日香以上に背の高い男性が立っていた。藍には面識がない。
「ちょっと待ったー。あんたはいったん入らない。はい、さがるー!」
明日香は、後ろの男性の声を聞いた瞬間、目にもとまらぬ速さでその男の後ろに回り、思いっきり手を伸ばし目をふさいだ。
そのまま後ろに引きづる。
「お、おまえちょっと待て。何しやがる。待ちやがれ!」
1分経たずして、彼は部屋にひっこんでしまっていたのだが、
当の明日香は、肩で息をしたまま玄関へ戻ってきた。
「騒がしいの。明日香、お前が来ると一瞬でやかましくなる。」
騒ぎを聞きつけ、彼の代わりに翁が玄関へ出てきた。
「老!一体全体これはどういうことなんですか!」
明日香が額に皺をよせ、翁に詰め寄った。
「ほ?何のことかの?」
「とぼけないでください!」
これ以上ない大声で明日香が怒鳴った。
そして、深く息を吸うと、低い声でつづけた。
「まさか、ですが、何も知らないわからないを貫くつもりですか?」
「じゃから、の。」
「なんだかとっても面白い話になっているようだけどよ。」
翁が明日香をたしなめようとしたとき、明日香の後ろから声がした。
「あんたはまだこっちに来ないで。」
明日香が邪険に扱うと、その男は苦笑いを浮かべた。
「おいおい。お前が紹介したい人がいるって連れて来たんだろ。」
そういうと、その男は明日香の横に並んだ。
「はじめまして、沢崎純平っていいます。」
そういうと純平はぺこりと頭を下げた。
「明日香、俺だって仕事とプライベートを分ける。そうじゃなければ、老に対面する権利がなくなる。」
威厳のある物言いとはアンバランスに、幼い顔つきの純平は眉をひそめて精一杯明日香に抗議した。
**
純平は、翁に挨拶をするとそそくさと帰ってしまった。
むしろ、明日香が帰らせたに近いのかも知れない。
「彼は?」
翁は明日香に尋ねた。部屋には二人のみ。障子を閉じているため、日の光が半分しか入ってこない。
「今の私のパートナー。まぁ、名目上は私がトレーナーなんだけど。実際はたぶん逆。」
明日香は自分の首筋を掻きながら、そう答えた。
「逆?とは。」
翁が眉をひそめる。
「前回の仕事でとちっちゃってさ。一応年齢とかを考慮して、上層部が私をトレーナーにって話らしいけど。
・・・・彼、ああ見えて一応、近衛得業生なんだよね。どっちかといえば、見張られてるのは私ってやつ。」
そういうと、明日香は大きくため息をついた。
「成程。それでお主はあそこまで慌てた、と。」
先ほどの玄関での大騒ぎを指して、翁は言った。
「・・・ってことは、知っててやってる確信犯ですよね?」
翁は知っている。明日香が慌てたわけを。すなわち、さっきはとぼけたことを、今まさに証明した。
「じゃから、何だというのだ?」
「彼のこと、どこまでご存じで?」
翁がまたとぼけようとしたとき、明日香がすかさず追及の視線を翁にぶつけた。
「彼かの。わしの息子じゃて。」
しかし翁は、明日香の追及をさらりと受け流した。
「ちょっとまて、何が息子だ!」
翁の受け流しは、爆弾を投げたとも、とれた。
くわっと、明日香が食ってかかった。
「人んちの子どもを勝手に息子にすんな!」
「そうかの?」
暖簾に腕押し、だ。翁の受け流し攻撃に、明日香は白旗を揚げ、大きなため息をついた。
「強ち、間違ってはおらんよ。あれくらいの年じゃと、息子と考えたほうが楽なんじゃよ。」
そういうと翁は、畳におかれたお茶を手に取った。
「お主こそ、彼を知っておるのかの?」
明日香は髪の毛をくしゃと握ると、ため息をついた。
「以前ね。パートナーを組んでた。あいつの修行の一環で。覚えてない、みたいだけどね。」
最後のため息は、翁へではなく、彼に対してのため息だった。
「覚えてないわけではなかろう。今はの、心の整理をつけている最中だからの。」
翁はそういうと、お茶に口をつけた。
「・・・市中は、大騒ぎよ。」
明日香はそういうと翁を心配そうに上目づかいで見つめた。
「しっちょるよ。」
翁は、障子のほうにめをやった。
「知ってて、そのまま居座らせておるんじゃ。居たいだけ、居ればいいとな。」
明日香は、翁をじっと見つめた。
「・・・・ごめんなさい。何の事情も知らなかったとはいえ、近衛生なんて連れてきてしまって。」
明日香はそういうと、視線を下におろした。
翁は、彼が居たいだけ居られるように、自分にできることをすべてやっているのだ。
なのに、それをぶち壊しにするような人間を、明日香は連れ込んでしまった。
「なに、気にしておらんよ。そもそも、ここまでもつとは思わなんだ。あと、彼も言っていたからの。仕事とプライベートは分けるとな。」
近衛特業生は、明日香たち一般の得業生とは違いキョウトの王直轄だ。
おもに、キョウトの王の目となり耳となり、手となり足となりと、隠密行動をとっている人間だ。
翁がしていることは、キョウトからすれば背信行為に近い。年頃の皇子を世間から匿っているのだから。
それを、近衛生を介してキョウトに報告されれば、皇子だけではない、翁も処罰される。
「それとな。暖かな巣の中で丸くなってばかりじゃと、心も身体も弱くなる。そろそろ旅立ちを促さねばと思っておったところじゃ。」
そういうと翁はおもむろにたちあがり、障子を開け放った。
部屋に光があふれこむ。
その光の中、翁に背を向け縁側に座る、彼がいた。
「聞き耳を立てるのは、いかんじゃろ?別にお主が聞いて悪いことは話しておらん。入って来。弘樹。」
そう呼ばれて、振り返った彼、弘樹は、少しばつが悪そうな顔をしていた。
あの時と、まったく変わらない。明日香は、そう思い頬をゆるめた。
***
「びっくりした。」
弘樹のいつもの特等席の隣に、明日香が腰をおろした。
昼下がり。雲が空を覆い始めている。そう遠くない時間、雨が降り出すだろう。
「どうしているかは気になっていたけど。まさかここで会うとはね。」
弘樹は何も言わなかった。しかし、耳を傾けていることは明日香にもわかった。
「老から大体聞いた。・・・老をなめちゃダメよ。何でも知っているからね。」
そういうと、明日香は腕を空に上げて大きく伸びをした。
「・・・最低、か?」
弘樹がぽつりとつぶやいた。
「別にいいんじゃない?逃げる隠れる傷つく傷つける。どれもこれも、人間の本性だし。」
人間は基本弱い。
どんなに力を誇示していても、一瞬で崩れ落ちるもの。
それを明日香は身をもって知っていた。
「・・・もう繰り返さないと、決めたのにな。」
目を伏せる弘樹の声は、そのまま地面に吸い込まれる。
「あれが、俺の本性というなら、あと何度繰り返せばいい?」
同じ過ちを。
償えない罪を。
「重く、考えるな。」
明日香はそういうと、弘樹の頭を軽くはたいた。
「やっぱり、あんたは優しいよ。」
あのときと変わらない。たとえ「権利」だとしても、仮に「義務」だったとしても、「弘樹」は他人を殺すことが出来ない。
その姿を見るたびに、明日香の本心はちりりと痛んだ。
特業生にならなければ、明日香は死んでいた。
わかっているのに、特業生の本質を見るたびに、彼の優しさが痛みとなって思い出される。
自分が生きるために、他人を殺す。
パートナーでトレーナーだった時、彼はたった一度だけ明日香に反抗した。
「なぜ、何もわるいことをしていない人間を、殺す必要がある?」
それが、上層部の命令だから。そういっても、彼は結局納得をしなかった。
綺麗事を並べるやつと、明日香は一度彼を非難した。
けど、その非難自体が間違っていることは、明日香は当の昔に気づいていたのだ。
ただ、言えなかった。
「その優しさ、忘れてほしくない。けど、自分を苦しめるのなら、いったんその感情を手放せ。」
さもなくば、弘樹の持つちからはそのまま、自分自身を傷つける。致命傷として。
現状がそうだろう。翁がいなければ、彼は己を傷つけて死んでいる。
それほどに、彼は、自分を追い込んだ。
「・・・・許されるなら、このまま消えたかった。」
ぽつりぽつりと弘樹が話し始めた。
「傷つけたくないと願っても、本質が変わらないのなら、たぶんその願いは届かない。」
今でも消えないのは、手に残る人を殺めた感覚。
「消えてなくなりたかったんだ。」
自分の存在が、誰かを傷つける。ならば、自分がいないほうがいいに決まっている。
けど、弘樹はわかっていた。それが、自分の立場故、許されることではないことを。
「・・調べ物は、それ?」
自殺することすら許されない、皇子の生殺与奪の期間。彼が捜していたのは、皮肉にも己を殺す方法。
「怒られるの覚悟で言いますけど、姿をくらませたのも、理由はそれです。」
自分が行方をくらませば、六家の皇子たちに「殺害命令」がでることを、弘樹はきちんと読んでいた。
「老の、「老婆心」は、あんたにとってはむしろ邪魔だったと。」
明日香は、その話を聞いてすべてに合点が行った。
弘樹が、頑なに母屋に入ることを拒んだのは、殺しにくる皇子に自分が見つかりやすいようにと
母屋を自分の死体で汚したくなかったから。
寝食を忘れて本を読んでいたのは、「寝ること」「食べること」という人間の基本欲求を封じれば、己自身も封じられると考えたから。
「・・・老に感謝、しなきゃね。」
いまは、笑って話せる。
重いものは、背負い続けなければならないにしても、翁はそれを軽くしてくれた。
決して出しゃばることなく、無言で、優しく。
「・・はい。」
弘樹は深くうなづいた。
「で。これからどうするの?」
明日香は尋ねた。空が重くなってきた。雨が降り出すのは時間の問題だろう。
「・・・正直わかりません。」
弘樹は、明日香に顔を向け、困ったといわんばかりの表情を浮かべた。
「翁の優しさに甘え続けることがいいことだとは思ってません。けど。」
そこまで言うと、弘樹は口をつぐんだ。そのまま下を向く。
明日香は苦笑いをした。おそらく弘樹は答えを出している。
言いかけた言葉の先を、自分から言い出すきっかけと勇気がないだけだ。
「ねぇ。キョウトに来ない?」
明日香は自分でも突拍子もないことを言っている自覚はあった。
誰かを傷つけることにここまで臆病な人間がキョウトに行ったら、それこそつぶされる。
ただ、明日香は見てみたいのだ。ここまで誰かのために心を砕くキョウトの、空の皇子を。
そして、彼になら追従する、彼のためなら何でもすると、明日香は不思議と即断できていた。
・・・無論、「冗談」と弘樹に一蹴されることはわかっていた。
けど、弘樹は、それには何も答えなかった。
一瞬驚いた表情を明日香に向けたきり、視線を地面に向けた。
雨が、降り出した。
パタパタと、降り出した。
弘樹がそのあとつないだ言葉が、降り出した雨の音にかき消された。
ただ、明日香の耳にはその言葉が確かにとどいたのだ。
信じられずに、目を丸くして弘樹を見やる。
目を合わせた弘樹は、ただ、穏やかに笑っていた。




