終わりの始まりの章 2
「翁ぁ。」
不機嫌な声がこだました。翁と呼ばれた、白髪白髭の老人はくいっと顔をあげる。
「なんじゃ。やかましい。」
顔をあげると、孫のように可愛がっている藍が頬を膨らませて立っていた。
短い黒髪が、頬にぱさりとかかっている。黒く丸い瞳が、不機嫌そうに翁をにらみつけていた。
「いいんですか?風邪ひかせちゃいますよ。」
ぺとんと足を崩す形で翁の前に座り込んだ藍は、額にしわを寄せて翁に詰め寄った。
藍の言葉には、主語はない。それは、ここ最近毎日のように翁に同じようなことを言っているからだ。
言わなくてもわかる。
「そんなに気になるなら、お主が言えばよかろうに。」
翁は、ここ最近毎日のように同じ返答を繰り返している。
「できるなら、してます!まったく何度言わせればわかるんですか。」
ヒステリックに畳をバンバン叩く藍を尻目に、翁は再び新聞に目を落とした。
「まったく、翁と言いあの青年といい、耳がないのか頭がないのか、両方なのか、わかったもんじゃない。」
そう言い捨てると、藍はすくっと立ち上がりドンドンと大きな音をたてて、台所のほうへ消えていった。
「・・・心配することは、なかろうに。」
藍の後ろ姿を見送りながら、翁はひとりごちた。
「・・・惚れたか。」
その翁の独り言を聞きつけたのは、藍の地獄耳。
ずだだだと翁のもとへ駆け戻ってきたかと思えば、次の瞬間、翁の立派な顎鬚を思いっきり引っ張ってやる。
「ふーざーけーるーなー。誰が惚れたって。あんな無愛想極まりないやつのどこに惚れるって、言ってみ!」
どすの利いた低い声で、藍は翁に食ってかかった。
慌てた翁が口を半開きにしながら「冗談冗談」と繰り返したのを聞いて、藍はやっと手を離した。
育て方を間違ったか、こんな乱暴な娘に育てた覚えはないと、翁は髭を手で整えながらため息をついた。
「冗談は抜きにして。翁。お茶を持っていくから、一緒に説得してよ。」
そういうと藍は、台所にいったん戻り、お茶が乗っているお盆を持ってきた。
外は夕暮れ。
いくら夏でも、晩夏である。ましてやここは京都でも高台に位置している。冷たい風が縁側を吹き抜ける。
そこに座った青年は、隣に翁と藍が来ていることすら気にしないかのように、本を読みふけっていた。
右わきには、大量に積まれた本。どれも、古文書クラスに古い紙・古い文字で書かれている。
藍は、先ほどのまでの勢いを完全になくしてしまっていた。彼に近づくことすら恐れているかのように、距離をとって、彼の背中を見つめている。
「どうじゃ?何かわかったかの?」
翁は彼の左隣に腰をおろした。彼の横顔を見る。男にしては長い睫毛が一瞬上下に動く。
彼がここに来て3週間経とうとしていた。
たった一言、本を読ませてほしいとだけで来た彼は、ほおっておくと昼夜問わず、寝食すら知らないかのように本を読み漁った。
迷い人がこの家を訪れることは珍しいことではない。
拒否することも無論できるが、翁は、彼のことを、ある意味「知っていた」ため、そのまま居座ることを咎めなかった。
京都市中の騒ぎも、翁はそのあとで知った。
1度だけ、捜索をしにきた人間がいたが、翁はあっさりと追い返してやった。
「この老いぼれを尋ねに来るのは、死神だけでよかろう。」
別に、青年をかばったわけではない。面倒は、嫌いなだけだった。
青年は、本を読むだけ読んだ。蔵にある古文書、巻物はほぼ読み漁っているだろう。
しかし、それ以上のことはしようとも、語ろうともしなかった。しゃべらないし、感情すら表に出さなかった。
ただ、翁はそれでも青年の感情が分かるようになっていた。
わずかだが、返答をするのだ。睫毛が動いたり、肩を揺らしたり。
「そうか、そうかの。」
睫毛が動いた時は、順調だ、気分は悪くない的な意味だと、翁は判断していた。
翁は、藍からお盆を受け取ると、足の脇に冷たいグラスに入ったお茶を置いた。
「そろそろ闇になる。家の中に場所を移したらどうかの?」
青年の頭が、かすかに横に振れた。手入れをしていない髪が、肩に触れて揺れ動く。
翁にはわかっていた。大概この質問には、彼はNOをいう。毎度のことだ。
「そうか、駄目かの。」
翁は、さみしそうにつぶやいた。その翁の声を聞いて、藍はパタパタと廊下の隅に足を運んだ。
藍が持って来たのは、ロウソクだった。ろうそく台に刺すと、マッチで火を灯す。
懐中電灯でもいいのにと、藍はいつも思うのだが、翁いわくロウソクがいいのだそうだ。
いつも部屋に入ろうとしない青年に、翁はロウソクを手渡していた。
そして、彼は、それを持って蔵へ姿を消すのだ。蔵の中でろうそくの火を頼りに、本を読んでいるのだという。
いつの時代の勤勉青年だと、藍はあきれながらも、翁にロウソクを手渡そうとした。
が。今日は違った。
「そろそろ、聞かせてはくれぬのかの?」
翁は、差し出されたロウソクの火を手であおぐように消すと、まっすぐ前の森を見つめながら、はっきりと言った。
「わしとて、穏健な人間じゃないからの。藍も、いらいらしちょる。」
青年の本を繰る手が、止まった。
藍には、すべてが止まった気がした。空気も、風も、水の流れも。
「お主の、本当に知りたいことは、知れたのかの?」
翁は、彼をみやることなく、前に広がる真黒な森に視線を投げている。
その声は、まるで、孫に語り聞かせるかのような温かさすら感じられた。
翁は、いつでも穏やかだった。青年が、自分の名前すら語ろうとしなくても、よく見れば、両手両足に治りきっていない傷があっても、だ。
「わしとて、教えられることはたくさんある。たとえば。」
翁は言葉を止めた。首だけをかれのほうへ向ける。
本に目を落としたまま、彼は動きを止めていた。空気でわかる。彼の眼は、文字を追っていない。
「人を殺めたときの、罪悪感から逃れる方法、とかの。」
ぴくりと彼の肩が揺れた。それは、藍でもわかるくらいの大きな揺れだった。
翁は、その肩の揺れを確認すると、すいっと目線を黒い森に移した。
藍は、この場にいてはいけない気がした。
反面、翁の話を聞いていたい自分もいた。
あの話をするのだろう。滅多に人前ではしない、あの話をするのだろう。
藍は、一度だけ聞いたことがあった。けど、それは翁の口からではないし、本当に端っこの部分だけだ。
翁は、藍がいることを知っている。そのうえで、藍に下がるようには言っていない。
(聞いていいってこと、なんだ)
藍は、お盆を抱え込むと、翁と青年の背中を見つめた。
「ま。逃れられないものじゃがの。」
翁の声は、何も変わらず、優しい風のようだった。
「お主は、知を欲しているというよりは、逃れられぬ痛みからどう逃げ切るかを必死に考えているようにおもうのだが。老いぼれの考えは、間違っているかの?」
彼の肩が、小さく小刻みに震えた。
「お主は、その痛みを本当に理解しているかの?」
藍は、翁のその言葉の意味をつかみかねた。
それは、彼も同じだったのだろう。初めて、彼が頭をあげた。わずかに、翁のほうに向けた。
「痛みは、重みじゃ。」
低い声で翁はいう。
「押しつぶされても、誰も助けられぬ。だが、一人で抱えておっては、押しつぶされるのを待つだけ。」
翁はそれでも、彼のほうを見ようとはしなかった。藍も彼の表情を見ることはできなかった。
「どうしても、その痛みから逃げたいというのであれば、聞かせてくれぬか?お主の痛み。この老いぼれ、まだお主の悲しみを背負う程度なら余裕がある。」
風が吹いた。冷たい風だった。二人の間をさあっと駆け抜け、藍にぶつかった。
「それとも。押しつぶされて消えるのを、望んでいるのか?」
そういうと、翁は、深い息を吸い込んだ。
そのまま、深く息を吐き出す。
「・・・んです。」
藍は、その音自体が空耳かと思った。けど違う。翁でも藍でもない声が、かすかに聞こえた。
「重すぎる、んです。」
次ははっきりと聞こえた。低い声。彼の肩がふるえていた。
彼の痛みが、悲しみが、溢れた瞬間だった。
「そうか、そうかの。」
翁はようやっと、彼を振り返った。そっと彼の肩に手を載せて、ゆっくりとした調子で優しくたたいてやった。
そのまま彼は、翁の肩に顔をうずめた。
彼の肩は、ずっとずっと震えていた。
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ああ、あの件?
知ってる、都落ちの老のところらしいじゃん。
治外法権もいいところよね。手だし出来ないってやつ。
あはは。誰も好き好んで負け犬のところに行くもんですか。
そ、だから治外法権。むしろ地図から消えた場所?
・・・たぶんね。六家のお偉方は知ってるんじゃないの?
ははは。無駄な努力だって、わかったらキレるんじゃない。
で、そう、その件だけど。
面白い方法を考えちゃったんだけど。
ちょっとだけ、罠を張って遊ぼうかと。
だって、つまんないんだもん。だし、正々堂々はまずくない?
結界は結ばないと、途中で他の犬どもに乱入されたら嫌だし。
でね・・・・
「私たちが殺すんじゃなくて、自殺してもらおうと思うの。」
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