紅の章 5 重い、痛み。
美晴の話を聞いてから、ゆきはただただ怖くて仕方がなかった。
あのときの情景が目に浮かぶことよりも
あの紅い瞳の持ち主が、「力」にすべてを奪われた弘樹自身だということよりも
弘樹が、いなくなることが、なぜかたまらなく怖く感じた。
助けてくれたのに。
まるで、それが災いであるかのように。
そう考えると、ゆきは素直に眠ることができずにいた。
考えが、堂々巡りをしている。
どうして、弘樹は、そこまでしてくれたのか。
もしくは、そうせざる得なくなった要因があるというのか。
ゆきは、深くため息をつくと、布団から身体を起こした。
広い部屋に、一人きり。
先ほどまで、朱音がいた。
その前は、美晴が。
皆、ゆきのことを心配してくれた。
だからこそ、申し訳ないのだ。
(会えないかな)
少しでいいから、弘樹に聞きたかった。
弘樹から、すべてを聞きたかった。
すべての理由を。すべての、ことを。
(・・・ダメもとで)
ゆきは布団から起き上がると、そっと部屋の障子を開けた。
立ち上がった視線の先にある掛け時計は9時を指している。
先ほど朱音が教えてくれた。弘樹が目を覚ました、と。
何も変わったところはなく、ただ、言葉少なげに、横になったままだという。
「・・・行ってみて、ダメだったらそれでいいかな。」
素足に廊下は冷たく感じた。
Tシャツに短パン姿で廊下の奥をみやる。
雨戸が閉められていて、薄暗い廊下の奥
1か所だけ、雨戸が開けられていた。
そこから、すきとおったやさしい風が吹いて、廊下を満たしていた。
肩に、力が入る。
縁側に誰かが座っている。
深く一度息を吸い込む。
弘樹だ、根拠はないが確信した。
そっと、開けられた雨戸のほうへ足を進めた。
手を伸ばせば届くその時、その開かれた廊下に座っていた弘樹が顔を上げた。ゆきを振り返る。
一瞬、瞳がぶつかった。
ゆきは、息をのみこんだ。
目があったのは一瞬で、ふいと弘樹は視線をずらすと、その場から立ち上がり、ゆきに背を向けた。
そのまま、ゆったりとしたペースで奥へ進んでいく。
「ま、まってよ。」
ゆきには、それが避けられているようにしか思えなかった。
避けられるような、心当たりがあるからこそなおさら、心がずきんと痛んだ。
引き留める言葉を震える唇で言うのが精いっぱいだった。
「ねぇ。お願い。」
二言目は、呟くようにしか言えなかった。
引き留めるべき「権利」なんて、ないのかもしれない。
そう思ったとき、弘樹の足が止まった。
けど、振り向いてはくれない。
何も言ってはくれない。
ゆきの頭は、真っ白になった。
何かを言わなければ、何かしなければ、弘樹はまた歩き始めてしまうだろう。
もう、二度と話なんてできなくなる気がした。
何か。
何か言わなければ。
「・・・・・けが、大丈夫?」
言ってしまってから、なんて当たり障りのない幼稚な質問なのだろうと後悔した。
だから、か。
弘樹は、何も言わない。ゆきに背を向けたまま、振り返ることもしなかった。
「ごめん、なさい。」
気の利いた言葉なんか、浮かばなかった。
震える唇で、やっと紡げた言葉は、謝罪だった。
謝りたかった。
弘樹を傷つけたこと。
自分のせいで、弘樹が大怪我を負ったこと。
しかし、それでも弘樹は動かなかった。
ゆきは掌をぎゅっと握った。
力を入れていなければ、がたがたと音をたてて震えてしまいそうだった。
それほどの距離を感じた。泣きたいほどの距離だった。
弘樹は、もう振り返ってくれない。
そう感じたゆきは、ゆっくり息を吸い込んで、震えを抑え込んだ。
言葉を紡ごうとしたとき。
「。。」
かすかに、弘樹のほうから何か言葉が聞こえた。
ゆきは、唇の動きを止めた。顔をあげて、弘樹の背を見る。
「安部君・・・」
「今すぐここから出て行ってくれ」
ゆきが弘樹を呼ぶのと、弘樹が淡々と言葉をつなげたのはほぼ同時。
ゆきは、弘樹の言葉の意味を、つかみ切れなかった。
弘樹の肩が、震えた気がした。
「もう二度と、俺の前に姿を見せないでくれ。」
苛立った低い声は、淡々としていて、そのままゆきの耳に突き刺さった。
弘樹はそういうと、ゆきには振り返ることなく足を進めた。
ゆきは、その言葉の真意がつかめなかった。
わかったのは、弘樹が自分の前からいなくなることだけ。
足もとから悪寒にも似た震えが一瞬で頭まで登りきった。
嫌われているのはわかっている。
私が、すべての元凶だ。
わかっている。
けど。
「待って!お願い!」
気がついたときには、ゆきは弘樹に手を伸ばしていた。
弘樹の右手をつかむ。
「わ、わかんないよ。教えて。どうして私を助けるなんてしたの?」
必死だった。
このまま別れることが、ゆきにとってこれ以上ない恐怖にしか思えなかった。
つかんだ右手は、ひんやりしていて、すぐに振りほどかれるかと思ったのに、弘樹はそのままにしていた。
ゆきは深く息を吸い込むと、祈るような思いで話しかけた。
「教えてよ。」
弘樹が、あそこまで傷を負った理由を。
弘樹が、そこまでのことをした理由を。
しかし。
弘樹の口から聞こえてきたのは、あざ笑うかのような小さな笑い声だった。
弘樹の肩が大きく震えた。
「ふざけたこと、言いやがって。俺が、お前を、助けた?」
聞いたことがない、怖い声だった。
「お前、見たんだろ?」
振り返ることなく、弘樹の低い声だけが廊下に響く。
「それでも、わかんないのかよ。」
ただただ、いらだちを含んだ悲しくも低い響き。
「俺はな、あの時、お前を殺そうとしたんだ。」
吐き捨てるかのように、弘樹は言い放った。
それは暴力として、ゆきの全身にたたきこまれる。
紅の、瞳。
その両手両足は、乾くことのない深紅に濡れていて。
その手は。
「違う!」
ゆきの脳裏によぎったのは、あの夜のこと。
あの時。紅の瞳をした弘樹は、ゆきに手を差し伸べていた。
ぎこちなく笑って、手を差し伸べてくれた。
「違うよ!そんなことない!!」
殺そう、なんてそんなことまったく感じなかった。
「ふざけるな!!」
次の瞬間、弘樹は右手を、ゆきがつかんでいる右手を思いっきり振り上げた。
そのままの勢いで右手をゆきごと地面へ振り下ろす。
バランスを崩したゆきは、大きな音を立ててそのまま廊下に倒れこんでしまった。
「俺は、あの時何をしたか知ってるんだろ?何人殺したか、知ってるんだろ?」
倒れたゆきを見下すようにして、弘樹はゆきに言い捨てた。
やり場のない怒り、悲しみ。
弘樹の顔は、歪んでいた。悲しいほどに。
「俺は、あの時、お前を殺そうとしたんだ。この手で!」
弘樹の右手は大きく震えていて。
ただただ、絶叫だった。
それだけいうと、弘樹はゆきに背中を向けた。
「次は、お前を殺す。」
低い声は、悲しみに満ちていた。
「もう二度と、俺の目の前に、現れないでくれ。」
そういって去っていく弘樹の背中が、悲しいほど小さく見えた。
地面にたたきつけられた痛みよりも、
弘樹の言葉一つ一つ痛みのほうがゆきには重かった。重すぎた。




