狐の章 3 呪詛
3 呪詛
ふと、気がつくと、木目の天井が見えた。
ふと、目を横にやると、畳が見えた。
(ここは・・・)
弘樹はそう思いつつも、目の前の風景に、どこか心当たりがあった。
ただ、思い出せない。
ゆっくり起き上がる。体に痛みはない。
そのまま、朦朧とした意識で部屋を見渡した。
8畳の、普通の和室。
障子からは、淡い日の光がこぼれている。昼間、のようだ。
障子の模様、床の間に飾られた花瓶。
部屋のにおい。
朦朧とした意識がだんだん鮮明になるにつれ、弘樹は今自分がどこにいるのか分かってきた。
見覚えがあるのだ。
ただ、どうして自分がここにいるか、肝心の記憶が抜け落ちていた。
そのとき、障子の向こう、廊下の奥のほうからぱたぱたとかけてくる足音が聞こえた。
「弘樹!」
障子を開けたのと、朱音が叫んだのはほぼ同時だった。
「死んでない?どこか痛いところは?立てる?歩ける?」
青ざめた朱音の口から矢継ぎ早に心配の声が上がる。
「ね、ねえさん。落ち着いて。俺は大丈夫だから」
目の前に正座した朱音は、顔いっぱいに青ざめながら息を切らせている。
弘樹は、そんな朱音を見て逆にびっくりしてしまった。
朱音が、ここまで取り乱したのは、弘樹の記憶の中では「あの時」以来だ。
朱音を安心させたくて、自分も不安になって、弘樹は布団から這い出ようとした。
歩けるか、弘樹自身もそれが何故か不安だったのだ。
しかし。
「やめとけ。お前はまだ完全に回復してない。」
廊下から鋭い声がして、弘樹のその行動は止められた。
弘樹は廊下を見た。
逆光の向こうに立っているのは、
「兄貴!」
弘樹は、布団の端を無意識に握り締めた。
そこにいたのは、安倍高志、弘樹の兄。
朦朧とした意識から、はっきりとした意識に切り替わる。
ここは、安倍の本家だ。弘樹が、幼いころを過ごした場所。
「弘樹、今回の件は、青龍に感謝しろ。」
淡々と、高志はそう告げて、背を向けた。
弘樹は、その高志の背をじっと見つめたまま微動だにしなかった。
「あいかわらず冷たいなぁ、、、」
そういうと朱音は、足を投げ出して「お行儀悪く」すわり、事の顛末を教えてくれた。
川岸にずぶ濡れで倒れていたところを、安倍家の式神が「拾って」くれたのだと。
厳密には違うだろう、弘樹はそう感じた。
あくまでも、朱音にはそう告げただけ。
自分がどういう状況であったか、それは、その場にいる自分自身が一番知っている。
意識が飛ぶ前に、耳に聞こえた言霊は、重く暗く
禁忌とされた、それに酷似していた。
それを行使した術者は、少なくとも、自分よりも下の術者だとも思えなかった。
同等、もしくは、上。
それは、すなわち。
殺されかけた。
そう、言うべきだろう。
「ヒロー、顔怖いよ〜」
その声に顔を上げると、障子から樹里が顔を覗かせていた。
「樹里・・・」
今にも泣きそうなほど、かおをくしゃくしゃにした樹里は
申し訳なさそうに、小さな姿をさらにちぢこませてたっていた。
「お、怒ってる?」
主人の危機を救えなかった、式神に。
おずおずしたその姿に、弘樹は自分が相当怖い顔をしていたことに気づいた。
頭をふる。髪をわしわしといじる。気持ちを切り替える。
「いーや。怒ってない。」
心配するなと、樹里をみやった。
この姿は、ふがいない自分のせいだ。
樹里のせいではない。
「そりゃそうよ。弘樹は樹里ちゃんに重大な任務を与えてたんだし。」
弘樹の言葉から、樹里が「いる」ことを悟った朱音はそういうと
「弘樹、心配かけるな。樹里ちゃんが泣いちゃうし、ゆきちゃんも心配するでしょ?」と続けた。
弘樹は、そのことを忘れかけていた。
樹里は、ゆきのもとにいたのだ。
「樹里、望月さんは?」
弘樹は樹里に問いかけた。
「いるよ。つれてきた。」
むしろ、連れて行けと強く請われたという。
安倍の結界の中であれば、樹里はゆきから目を離しても問題はない。
だから、いまゆきがそばにいない状態で樹里がこちらにいるのだろう。
「奥の茶室で、静瑠と。」
樹里はそういうと、おずおずと部屋の中に入ってきた。
「そうか」叔母である静瑠と一緒にいるなら問題ない。
彼女に余計な心配をかけさせるようなことは言わないだろう。
樹里は、弘樹の枕元に来ると、そっと額に手をかざした。
「ヒロー、少し休もうよ。ものすごく疲れてるよ。」樹里は、心配そうに眉根を寄せた。
「そりゃそうだろうな。あの兄貴にまで要安静を押し付けられたしな。」
弘樹はそういうと、苦笑いをして横になった。
「朱音…声、聞こえるよね?」
弘樹が休んだことを確認すると、弘樹の額に手をかざしたまま樹里は言った。
「え、あ。…というか、樹里ちゃんが声を届けてくれてるんじゃない。聞こえるよ。」
本来、朱音は式神の姿はもちろん、声も聞こえない。
樹里は、たまに朱音とのコミュニケーションと言いながら、声を届けてくれるのだ。
「あのさー、朱音。弘樹は怒るかもしれないけど、けど。お願いがあるの。」
けど、樹里のその声は、朱音が初めて聞くような、硬い、低い、声。
「高志に伝えて。私に会いに来てって。」
朱音は、樹里の姿を見ることが出来ない。
出来ないけれど。
その背中が、小さい背中が抱えきれないような不安を抱いているように思えた。
「呼んだか。」
障子越しに、高志は部屋の中の式神に声をかけた。
「…知ってるの?」
声をかけられた式神…樹里は、強張った声でたずねた。
今の状況のすべてを、いま、弘樹がどういう状況かということを。
「こいつは、死なないだろ…むしろ。殺させないよ、あいつらが。」
するすると音を立てずに障子を開けて、高志は部屋の中に入ってきた。
目の前には、深い眠りについている弘樹と、深い銅のような髪を下ろした樹里の後姿。
「呪詛の話は、青龍から聞いてる。」
そういうと、高志は樹里の脇に腰を下ろした。
「知ってて…」樹里は、脇に座った高志をぎっとにらみつけた。
泣いたのだろう、目元が赤い。
「知ったところで、何が出来る?」
高志は樹里に困ったような視線を投げ、そう問いかけると、弘樹に目をやった。
「多分、こいつが目を覚まして、動けるようになったら、自分がどういう状況か、分かるだろ。
そのとき、こいつがどうするかは、こいつが決めることだろ。俺に出来るのは、それを助けてやることだけだ。」
「もうちょっと、分かりやすく助けてあげればいいのに。ヒロ、感謝できない子じゃないよ。」
「嫌いなんだよ。そういう馴れ合いは。」
高志は、樹里の言葉に、かすかな苦笑いと共に返した。
「あと。このことは、奴らもお見通しさ。殺させやしないよ。」
試練にはするかもしれないけどな。
そういうと、高志は樹里の頭をくしゃりとなでた。
立ち上がって、部屋の障子に手をかける。
「それよりも、樹里。彼女…望月ゆきだが、かの方の考えが見えない以上、用心に越したことはない。」
「分かってる。ヒロもそのことを一番気がかりにしてた。」
どうして、銀妃は彼女を助けたのか。
どうして、弘樹の結界を破って、彼女が襲われたのか。
どうして…
「ヒロに怒られそうだけどさ。当面はこっちのお世話になったほうがいいと思うんだ。」
樹里は、高志を見ずにゆっくりとした口調でそうつぶやいた。
高志は、それを聞くと、軽くうなずき部屋を出た。
弘樹が次に目を覚ました時は、部屋の障子越しにに日の光がやわらかに差し込んでいた。
日付が変わって、昼間だろうか。
弘樹はゆっくりと半身を起こした。寝すぎだ、これは。
「お、起こしちゃった?」
ふと、声をしたほうへ振り向くと、両手にタオルを抱えて部屋の隅のほうで、恐らく片づけをしてくれていたのだろうゆきが、半身を起こした弘樹を見つめていた。
「気分はどう?後でなんか食べるものもってこようか?」
栗色の髪を一つにまとめて、柔らかな笑みを弘樹に向けた。
しかし、弘樹の頭の中は混乱状態だ。
「ど、どうして」
動揺した上ずった声で弘樹は、ゆきを見上げた。
どうして、ゆきが自分の部屋で片づけをしている?
ゆきは、客人じゃあ、ないのか!?
「あぁ。昨日は夜遅かったから、泊めていただいたの、静瑠さんがそうしていきなさいって。」
ゆきの返答は、弘樹が望んでいる答えではない。
パニック状態の弘樹をよそに、ゆきは持ってきていたタオルを、床の間に置いた。
「替えのタオルはここにおいて置くよ。」
そういうと、ゆきは部屋の障子をさっと開けた。
朝、というよりは昼間に近い太陽の光が部屋に溢れ入った。
「静瑠さーん。弘樹君起きましたよー」
ゆきは、パタパタと別の部屋へ出て行った。
まるで、一瞬の幻…弘樹は、そう思いたかった。
「残念ながら、幻じゃないよ。何呆けてるの?バカヒロ。」
「おわっ!じゅ、樹里?!」
いつの間にか、弘樹の脇には樹里が呆れ顔で座っていた。
「いってなかったっけ?彼女の身の危険が去るまで限定でここに滞在するの。そんでもって弘樹もここで暮らすこと!」
「はぁ!?」
樹里があまりにも、それはあまりにも、弘樹の知らない、想像できないことをさらっと言うものだから、弘樹は、素っ頓狂な声を上げた。
「だって、私がめんどくさいから。彼女の守護しながら、バカヒロの護りなんて出来ないし。」
一緒に行動してもらえば、もしくは、他の守護者がいれば問題ないじゃない?
そう笑顔で言い放つ樹里を、弘樹は唖然とした表情で見つめた。
た。確かに。
弘樹とゆき、別々に行動をしてしまうと、いくら樹里でも護りきれない。
なら、2人が一緒に行動、もしくは、他の守護者がいれば…
本家なら、他の守護者なんてたくさんいる。結界も強い。
だが。だが。
「本家はそれでOKなのか!?っていうか、彼女はそれでOKなのか!?」
「だから。決定事項だってば。」
ため息と、冷めた目で樹里は言う。なんでも、史学を専攻するゆきは、本家のいたるところにある歴史的なものが
そうとうお気に召したらしく、二つ返事でOKだったらしい。
「そんなに嫌なら、さっさと解決しちゃえばいいのよ。解決しちゃえば、弘樹はここから出られるよ」
そういわれて、弘樹は、はっとした。
「なんで、俺も巻き添えで本家に縛られるの?」
病院での一件が原因だとしても、だ。
あの時は、自身の油断が原因だ。今ならあんな、「失敗」はしない。
「弘樹、寝ぼけているのか幸せボケか平和ボケか、どれ?」
呆れ顔で樹里は、弘樹の左胸に手をかざした。
弘樹は、その樹里の手のひらをまじまじと見つめた、その瞬間
全身を締め付けられるような、悪寒が走った。
なぜ、樹里が弘樹から離れられなくなったのか
なぜ、本家から出ることを禁じたのか
一瞬で理解できる。冷や汗が伝った。
「弘樹が聞いた真言は、その身を蝕む呪詛ってことで、高志とも意見一致。
本家の力で弘樹の中の時間を遅くして、一時凌ぎだけど、出てきた呪詛の毒は私が浄化するとしても、たぶん、持って1週間かそこらだと思う。」
樹里の言葉を聴かずとも、弘樹はあの一瞬ですべてを悟った。
やはり、あの時自分は「殺された」のだ。
時間をかけて、ゆっくりと。
「で、本家はなんて?」
「本家、っていうか、キョウト。自分で解決しろってさ」
そっけなく、樹里は返した。
「期限は1週間。それまでに、呪詛返し、もしくはそれに準ずる術式を持って
自分にかかった呪詛を無に返せ、と。その間の、ゆきちゃんの身の安全は本家が護るってさ。」
期限オーバーは、すなわち自分自身の死を意味する。
「ただし。」
そういうと樹里は弘樹の頬を両手で挟み、自分の真正面に向けた。
「この件は、恐らく、いえ、間違いなくゆきちゃんが絡んでくると思うから
ゆきちゃんか、弘樹かという選択になった際は、迷うことなくゆきちゃんを捨てるっていうのがキョウトの意向よ。」
真剣な瞳の樹里を、弘樹は一瞥し舌打ちした。
「倒れたって聞いたからびっくりしたんだけど、体調大丈夫?」
半刻たったのち、ゆきが遅い昼ごはんのお盆をもって、弘樹の部屋を訪れた。
(倒れた…っていうか、倒れてたんだけど、な)
果たして、静瑠はどういう説明をしたのだろうか…もしくは、
ゆきはどういう解釈をしたのだろうか…まぁ、この際どうでもいい。
「ごめん、心配かけて。」
半身を起こすと、弘樹はゆきからお盆を受け取った。
「ううん。これもなんかの縁だから。」
深い栗色の髪を、右側に一まとめにしたゆきは、軽快に微笑んだ。
「けど面白いと思うよ。京都に来てから、なんかこう、すごく歴史的で神秘的なことばっかだし…あ、ごめん。そういう場合じゃあないよね。」
弘樹の沈んだ顔をみて、ゆきは自分の言動がまずかったと反省した。肩をすぼめて下を向いた。
「あ、そういうわけじゃないんだけど…」
弘樹は慌てて、自分の沈んだ顔を取り消した。
たしかに、ゆきにとって、この数日は「神秘的」なことばかりだっただろう。
間違っていない。弘樹はそう言い聞かせた。
自分の感覚が、普通じゃないだけなのだと。
そんな自分に、苦笑い。だ。
普通になりたいと願っても、身にしみた「経験」はなかなかそうはさせてくれない。
頭でわかっていても、態度が、表情が伴わない。
「えっと・・・」
弘樹は、言葉を詰まらせた。
話したいことはたくさんあった、と思ってた。
けど、いざとなると、言葉が見つかない。
思えば、二人できちんと会話をするのはこれが始めてだ。
「あのさ。怖く、ないの?」
聞いた後、なんて間抜けな質問なのだろうと弘樹は思った。
怖い。
確かに、超常現象を間近で見ているわけであって、それは本来ありえないことだし。
けど、彼女がどこまでこの数日のことを「超常現象」と理解しているかも分からない。
もしかしたら、状況をまったく理解していない可能性もある。
あの時、千鶴を連れ込んだときのように。
弘樹が、この間抜けな質問を言い換えようとしたとき、ゆきが口を開いた。
「怖いって言うか、よく理解できてないって言うか。けど、安倍君に聞けば分かるってあの人が…」
「あの人?」
「私を助けてくれた人。」
弘樹は唖然とした。やられた。だろうとは思っていたが、まさか先手を打ってくるとは。
すべては銀妃のやり逃げだ。
「けどね。幽霊とか、いわゆる生物じゃない、って言うのかなぁ。そういうのは初めてじゃないし。」
そういうと、ゆきは布団の脇にちょこんと正座した。
神妙な顔をする。
「信じる信じないって言ったら、信じる方。」
ゆきは、言葉の一つ一つを確認するかのように、ゆっくり告げた。
弘樹は、そんなゆきの横顔を、瞳を見つめた。ゆきの瞳は、真剣なまっすぐな瞳だった。
「まぁ、信じなきゃいけないのかもしれないけど。現に命拾いしているし。」
そういうと、ゆきは弘樹のほうに向き直った。
「あのね。私、あのときに声が聞こえたの。川べりでのときも、お風呂場のときも。助けて助けてって。女の子の声。」
弘樹は目を丸くした。川べりのとき、それは、彼女が大怪我で運ばれたときのことだ。
そして、風呂場での一件。あの時弘樹はそばにいた。
そんな声は、弘樹は聞いていない。
「その声に混じって、低い男の人の声が聞こえるの。ただ・・・なんていっているかまで思い出せなくて。」
そういうと、ゆきは申し訳なさそうに下を向いた。
恐らく、その声は、術者の思念の可能性が高い。
ただ、2名の声が聞こえたというのであれば、2人の術者か、もしくは
(生贄…)
今の段階では、断言できないが、女の子の声から察するに、後者の確率が高い。
そして、男の声が、呪である可能性も高い。
「もしかしたら、安倍君の怪我に関係するのかもしれないし、早く言えばよかったかも…ごめんなさい。」
ゆきはそういうと、おでこを畳につける勢いで頭を下げた。
「そんな、そんなことはないよ。関係あるとも言い切れないし、今は。」
弘樹は慌てて声をかけた。落ち込ませるつもりはない、むしろ、何もなかったところにやってきた大きな手がかりだ。
むしろ。
「もしかしたら、あんまりよくないことかもしれない。その場だけではなく、今後の影響。」
ゆきが聞いたその言葉は、呪詛の可能性もある。何かのきっかけで、呪が発動する可能性もある。
ただ、怖がらせてはいけない。
彼女はただの人なのだ。悪い意味ではなく。
もっとも、彼女を呪詛に晒したら、銀妃が怒り狂うだろうが。
「ちょっとだけ、失礼。」
そういうと、弘樹は彼女の右手をそっと自分の左手に乗せた。その上に自分の右手。
全神経を集中させる。
弘樹の周りから、蒼い清廉な空気が舞い上がった。
彼女のどこかに呪が残っていないか、あわよくば、相手の残り香が残っていないか。
静の術は、弘樹の十八番だ。探索、守り、だから、よろずやめいたこともアルバイト感覚でこなせる。
しかし、数十秒もたたずに弘樹は、乗せていた右手をだらりと下ろした。
「どうしたの?」
弘樹は顔を下に向けたまま、荒い呼吸を繰り返している。
額には、わずかな間ででたとは思えない、玉のような汗。
弘樹の術に、弘樹の中の呪詛が反応したのだ。
心臓を鷲掴みにされるような圧迫感、肺を押しつぶされたような息苦しさ。
内側からすべてを破壊されるような、恐怖。
初めてだった。こんな感覚。
ほぼ無意識に、防衛本能で術を解除した。
そんなに難しい術ではない。術自体は術者の素質があるものが最初に学ぶ手習いの一つだ。
卓越した、弘樹のような術者が使えば、当然精度は格段にあがるが、それだけだ。
そんな弘樹の姿を見たゆきは自分自身の事かと思い若干青ざめながら、たずねた。
「なんか、まずいことに…?」
次の瞬間、弘樹が横に激しく吹っ飛んだ。
「バカヒロー」とものすごい怒号と共に。
樹里である。
樹里は弘樹をおもいっきりふっ飛ばすと、強引に布団に寝かせ、自分はその布団の上に仁王立ちをした。
「そんなに死にたいの?死に急ぎたいの?あんた馬鹿?」
下から見る樹里の顔は、鬼か悪魔かという形相だ。
「せっかく私が呪詛を発動する気配を察知できるように外に目を配っているのに、自分から呪詛の暴走を呼ぶとはなにごと?
なに?私に外も内も目を配れって言うの?
そういうこというなら、大明神様に頼んで、ヒロの術を凍結してもらった方がいいかしら?」
凍結…怖い樹里を横目に、思わぬことを思いついた弘樹は樹里にたずねた。
「なぁ、いま俺の術を凍結したら、呪詛も凍結とかならない?」
「ならない。」
即答だった。
「むしろ、暴走すると思うけど?術凍結は、ヒロのチカラを拡散させて、大暴れよ。暴れるチカラに共鳴して、呪詛も暴れて、ジエンド。」
樹里はかわいい顔して、怖いことを顔色変えずさらさら口にする。
「あえて言うと、暴れたチカラに負けるか、呪詛に負けるか、その差じゃない?死ぬことに変わりなし。」
そう、淡々と樹里は続けた。
怒ってる。完全に怒ってる。樹里の目は、今まで弘樹が見たことがないくらい、冷ややかだった。
「大丈夫。ゆきちゃんには呪の類はありません。干渉はあった形跡があるけど、それは高志が消したから問題ない。」
樹里は、深くため息をつくと、ゆきに心配するなと笑顔を向けた。
「そういえば、樹里。望月さんにも天孤の…」
言いかけた弘樹の口を仁王立ちから降りた樹里の手がふさいだ。
「ねぇゆき。ゆきをたすけてくれた銀色の神様…神様なんだけど。なんかゆきに言ってた?こいつに聞け、以外に。」
ゆきは力なく首を振った。
「そっか…あのね、ヒロがとろくさいから言うけど。死んでしまいそうなゆきを助けるために、その神様の血を分けてもらったんだ。
本当はしちゃいけないことなんだけど。」
樹里はゆきの目を見て、たしなめるかのようにやさしく話しかけた。
樹里は、銀妃が血を分ける瞬間を見ている。もしかしたら、血を分けた理由も知っているのかもしれない。
「ただ、その副作用っていうのがあって。たとえば、見えるはずのないものがみえちゃうとか、ね。
もちろんその血が、毒になる可能性もある。ゆきちゃん自身が死ぬってことだけじゃないくてね。」
樹里の話を、ゆきは神妙に聞いていた。
「けど、こいつみたいに、無茶はしなければ、何の問題もないから。」
ま、ゆきちゃんはバカヒロより断然優秀そうだから問題ないだろうけど。
樹里は弘樹にとどめの一言を吐き捨て、けど、ゆきにはにっと歯を見せて特大の笑みをみせた。
*
「ヒロには内緒にしていてほしいのだけど、あとゆきちゃんにも。」
あの時、高志を呼び出したとき、そう切り出した樹里は、一つの話を高志に聞かせた。
高志は、それが気になって仕方がなかった。
それは、決して核心には触れていないが、これからを暗示しているようにも思えた。
そうだろと樹里に聞いても、樹里は苦笑いを浮かべるだけでそれ以上の話をしてはくれなかった。
「ただね。高志には知っててほしいと思ったから。」
何を暗示しているのだ?
どうしてそんな話を、今更、そう今更のように彼女はするのだ?
彼女は、彼女自身は望んでいない。
「そうだろ?」
思わず、口に出す。
「えぇ。私じゃなくて。」
私は、望んでないよ。
そうじゃないの。
樹里の笑顔が、これほどまで痛々しいと思ったことはなかった。
…樹里が口にした、高志が慄いたその話は
死者を蘇らせる、禁呪の話だった。
(確かに)
高志は、目の前の文机の上の紙をくしゃりと丸めた。
弘樹がそれを知ったら、それがどんな罪になるか分かっていても、どんな犠牲を払おうとも、自分の手を染めるだろう。
彼には、それを成す力がある、どんなに難しいものであっても。
あのとき。
あのときの、弟の発狂を、忘れることが出来ない。
天孤の血の恐ろしさを、目の当たりにした。
あのとき。
自分がどれほど無力か、思い知った。
どんなに手を伸ばしても、どんなに努力を重ねても、手に入らないものがあることを思い知った。
ただ。
樹里は、自分に「何かを」託した。その事実だけは本当だ。
自分にできることがあると、道を示したのではないのか。
あのときの、後悔を二度と繰り返さないためにも。
*
本家、といっても別にものすごいお屋敷というわけではない。
庭は若干広い気がする。立派な日本庭園だとも思う。
ただ、自分が育った家も似たような日本庭園があった。あれは、祖父の趣味だったが。
(京都だと、めずらしくないのかもね)そう解釈した。
あとは普通の平屋の一軒屋だ。
ゆきは自分のいる場所を冷静に判断した。
朱音が「本家」というから、どんなところか若干ビビッていた部分もあるのだ。
朱音から聞いた「話」
現実味離れしているなぁと思った反面、不思議なほど冷静に受け入れられた。
自分が置かれた現状、も。
樹里の話も不思議なほど冷静に受け入れられた。
反面、そんな自分が不思議でならなかった。
「それは、どっかで似た経験をしたことがあるから、ではないですか?」
目の前の婦人…静瑠がそう告げた。
「私もそうでしたから。」
彼女は、妖とか霊とか、いわゆる「普通じゃないもの」を幼少のころから見てきたという。
それで嫌な思いもたくさんしてきたという。
人外のものが見える、それだけで、差別される。忌み嫌われる。
「けどね、あの人にそれを言ったら、決して馬鹿にしなかったの。」
それだけではない。自分が見てきたものは、ほんの一部に過ぎないと教えてくれた。
本当に力のある妖のみしか、自分には見えてない。
だから、大きな問題もなく生活できたんだと。
「たくさん、そういう、余計なものが見えてしまうと、その世界ともかかわりを持つことになるから
当然…よくないことがたくさん起こるのよ。」
静瑠はそういうと、目の前のお茶を口に含んだ。
「こういう話自体、そのとき私は初めて聞いたけど、すごく冷静に受け入れられたの。
オカルトっぽいとか思わずにね。」
それは、自分が経験しているから。
否定すれば、自分の経験自体も否定することになるから。
「弘樹さんは、大丈夫。」
その言葉は、伏せ目がちに考え込んでいたゆきの顔を前に向けた。
「あなたも、大丈夫。根拠がないように感じるかもしれないけど。」
そういうと、静瑠はやさしく微笑んだ。
「私のこういうカンは、陰陽師並みにあたるって、あの人から太鼓判をもらってるの。」




