白の章 12 空の皇子
ゆきは、その場でへたりとしゃがみこんだ。
一瞬の出来事のように感じ、頭の中がぐしゃぐしゃだった。
ただ、それでも、自分が恐ろしいことをしでかしたような感覚に
震えが止まらなかった。
そこにあるのは、すすぎの重さと、目の前で落ちていった弘樹の残像。
震えが止まらなかった。
「・・・やっぱり。すごいですね。」
不意に聞こえた声に振り向くと、そこには漆黒の長いコートを羽織った成宮が立っていた。
いつものように微笑んでいるはずなのに、ゆきには成宮が笑っているようには見えず、
見上げたまま、手を後ろについた。
「ゆきさん自身のちからで、あそこまで追いやったのですから。」
そういうと、成宮はゆきの真横にしゃがみこんだ。
ゆきが後ずさる。
成宮の手が、ゆきのあたまをそっとなでた。
「やっぱりすごいです。。。ありがとう。」
そのまま、あたまから、頬へ、頬から首筋へ手のひらを下ろしていく。
ゆきは、成宮をみやったまま、そのまま動けずにいた。
「本当に、ありがとう」
成宮から感謝される意味が分からず、そのまま呆然とするゆきの耳元に
成宮は顔を寄せた。
「ありがとう、これで僕は、迷いがなくなった。」
その声は、何故か嬉々としていて。
次の瞬間、ゆきの首筋に当てた手を、そのまま力いっぱい押し付けた。
欄干にゆきの頭がぶつかって、鈍い音が響いた。
「か・・・はっ。」
か細い抵抗の声がゆきの口元から漏れた。
「これで、遠慮なくゆきさんを殺せます。ありがとう。」
不気味なほどの笑みを浮かべて、余裕の表情で成宮はゆきを見下ろした。
ゆきは両手両足をまるで陸に上がった魚のように暴れたが、成宮はお構いなしのようだった。
「暴れる元気のあるうちに暴れておくといいですよ、すぐには殺しませんから。」
首元から、筋肉が裂かれるような、嫌なミシミシという音が響く。
「は、な、し、て。」
首元の成宮の手を引き離そうと、ゆきは必死に自分の手を掛けて、力を入れた。
けど、成宮の手はまったく意に介さず、むしろゆきの手を面白がるように避けて
いろいろな形で首に負荷を掛けていく。
気道をつぶしたり、頚動脈をつぶしたり、そうやって、楽しんでいるのだ。
否、誘っているのだ。
「そろそろ顔を出さないと、本気で殺しますよ、狐さん。」
そのときだった。
「望月ゆきから、離れろ。」
その声は、耳から脳へ突き刺さる声だった。
成宮はその声に「仕方なく」従いゆきから手を離すと、声の主を振り返った。
「なんだ、生きてたんだ。」
そこには、弘樹が立っていた。
全身びしょぬれで、肩で息をしていて。
けど、厳しい表情で成宮を見つめていた。
ゆきは、首元に手をやって、大きく息をした。
何故か、少しだけ安心した。
「望月ゆきに何をした?お前の目的は何だ?答えろ。」
表情一つ変えず、弘樹は成宮にまくし立てた。
「随分、言霊を使うのが上手になったな。」
成宮は笑って弘樹のほうに向き直った。
「最初の言霊は、僕も油断してたから従ったけど。その後のは、弱いよ。」
そういうと、成宮は弘樹に歩み寄る。
「言霊を使うときは、お前、じゃだめなんだよ。安倍の・・・」
「秀一殿、と呼べばいいのか?」
成宮の言葉を遮って、弘樹は成宮の「名」を呼んだ。
成宮の動きが一瞬止まった。顔に浮かべた笑顔が凍りついた。
「お久しぶりです。けど、俺は二度と会いたくなかったですよ。」
弘樹の表情は変わらない。目は成宮の動きを見逃さないと瞬きすらしない。
「へぇ。覚えててくれたんだ。光栄だね。安倍弘樹。」
笑顔を凍りつかせたまま、成宮は低い声を出した。
弘樹の頬が一瞬ぴくりと動いた。
「質問に、答えようか。僕の目的は、彼女そのものさ。」
そういうと、成宮は弘樹との距離を詰めた。
「六家から話は聞いてるんだろ?六家の均衡、というか、全てにおけるパワーバランスを狂わせないように、さ。」
凍り付いていた笑みが、やわらかく溶けている。
成宮は、温かい表情で弘樹に語りかけた。
「けど、状況が変わってさ。僕の大切な「弟」に手を出した。」
少しだけ、眉根を寄せて、成宮は弘樹に近寄った。
「死んだかと思ったよ。私の大切な「地の皇子」弘樹よ。」
「死んでないよ。川に落ちた程度で死ぬわけないだろ。」
その言葉を聞いた成宮は、声に出して笑いを零した。
「嘘はいけないよ。現に、今、まさに。」
成宮の笑いに、身体を強張らせた弘樹の左のわき腹に、成宮は手を伸ばした。
「・・・どんな術を使っても、すすぎには敵わないよ。」
弘樹に触れた手に、力を入れる。
弘樹の顔が歪んだ。奥歯をぎしっとかみ締める。
「確実に、蝕んでる。」
成宮の笑みが、歪んでみえる。
ゆきから、すすぎから受けた傷。
小さく結界を張り、その中だけ時を緩やかにすることで、一時しのぎをしていたのだが。
成宮の手は、全てを壊した。
一瞬で深く侵食された傷、溢れ出た血は成宮の手を黒く染め、
雫となって、地面に吸い込まれていく。
「全ての侵食が終わるのは、いつだろう、なぁ。弘樹。」
そういうと成宮は、爪を立てた。
「がぁっ。。。」
侵食面に突き立てられた成宮の指が、弘樹の脳天までキーンとする痛みを伝えた。
成宮の手を避けるように、弘樹は崩れ落ちた。
「皇子は、生殺与奪の期間は、皇子以外のものに殺されることはない。」
地面にひれ伏す弘樹を見下ろし、成宮は淡々と言葉を紡いだ。
「万が一、それが崩されたときは、キョウトは、手を下すことを惜しまない。」
弘樹が、痛みで重くなった頭を上げた。
出血を、侵食を食い止めるように、右手を傷口に押し付けながら。
視線の先には、さっきとは打って変わって真っ青になっているゆきがいる。
「弟分である「地の皇子」をここまでの状況にして、黙っている兄貴もいないですよ。」
成宮の視線がゆきに向いた。
「違う。お前が、嵌めた、のだろ?」
成宮の足が、ゆきに向く。
弘樹の声は、成宮に届かない。
「僕は、「空の皇子」。僕の声は、キョウトの意思。」
まるで歌でも口ずさむような声で、成宮は言った。
「彼女に、何を吹き込んだ!何を仕掛けた!」
痛みと出血でふらつく足を叱咤しながら、弘樹は成宮の背を追う。
「ゆきさん。そういうことです。」
成宮の手が宙を舞う。瞬間、手には鈍く光る刃が握られた。
血の気をなくしたゆきの瞳が、成宮を震えながら見つめる。
視線を外せず、外すことを許されず、ただただカタカタと震える。
「やめろ!手を下ろせ!空天楼の皇子・秀一!」
弘樹はありったけの声で叫んだ。ありったけの言霊の力を込めた。
言霊が最大の力を発するのは、相手の本当の名前を織り込んだとき。
ただ、弘樹は成宮の本当の名前を知らない。「秀一」は、皇子になる前の名前だ。
弘樹は賭けた。成宮が思わず口にした「ヒント」を頼りに。
成宮の足が、はた、と止まった。
刀を下に向ける。
弘樹の言葉に従った。
賭けに、勝ったのだ。
「弘樹、どうして、お前は、こいつにこだわるんだ?」
弘樹に背を向けたまま、成宮はつぶやいた。
その言葉には、何故か笑みが含まれていて、弘樹は耳を疑った。
「そうか。そういうことか。そうだよな。」
振り向いた成宮の唇は、にやりと上を向いていて。
その不気味さに、弘樹の足が凍りついた。
そして、成宮は刀の柄を弘樹に向けた。
「弘樹、お前は生きてるんだ。別に僕が「敵討ち」しなくても、弘樹が制裁すればいい。そうしたいんだよな?」
それは質問ではなく、命令。
「安倍弘樹よ。彼女を、望月ゆきを、殺せ。」
言霊が、弘樹を縛る。
抗うために、弘樹は強く両手を握り締めた。
爪を立てて、身体を強張らせた。
自分に向けられた、刀の柄を、成宮は握らせようとする。
それを握れば、間違いなく言霊は弘樹の意志とは無関係に暴走する。
ぎゅっと、目を閉じた。
「弘樹よ。兄のいうことが聞けないのか。」
言霊がよりいっそう強くなる。抗う全てが、悲鳴を上げた。
このまま、言霊に従ってしまえば楽になる。
傷の痛みも消えるのだ。誘惑が脳裏にちらつく。
「弘樹よ。キョウトの意思すら、無視をするのか。お前に、それが、出来るのか?」
悲鳴を上げた抗いが、ぶちぶちと音を立てて切れていく。
一層力を増した言霊が、弘樹の全身に食い込んだ。
握り締めたこぶしが、力なく開かれ下に落ちた。
これが、「空の皇子」との実力の差。
たかが、「言葉」ひとつだけでも、ここまでも重みが違うのだ。
残された道は、「従う」しか、ない。
悔しさで、頭を垂れた。
脳裏に蘇るは、銀妃の言葉だった。このことを予知していたのか、弘樹は力なく笑った。
弘樹は、成宮と視線を合わせず、己の血で濡れた手を、そっと柄に伸ばした。
「我が兄上、空の皇子よ。」
震える唇で、弘樹は成宮に声をかけた。
「ひとつ、願いを聞いてもらえないか。」
柄に手をかけず、宙に止めたまま、弘樹は細い声で続けた。
「時間を、貰えないか。彼女と、望月ゆきと、話をしたい。」
その申し出に、成宮は困ったような笑いを浮かべた。
「辛くなるのは、お前のほうだぞ。」
「しかし。誤解されたまま、別れを告げるのは、余計辛くなります。」
弘樹はそういうと、頭を上げた。見上げるように、成宮を見る。
すがるように、成宮を見上げた。
その目をじっと見つめた成宮は、深くため息をついた。
「構わないよ、それくらいなら。」
それは、苦笑いとともに告げられた。
ちらりと右腕の時計を見る。
「日の出まで待つよ。それでいいかい?」
差し出されていた柄を、弘樹は手にした。
そっと自分に引き寄せる。
言霊の暴走がないのは、「時間」を明示したから。
「今」である必要がなくなったから。
「場所は、インクライン。死体は重いから、首だけでいいよ。」
殺した証拠さえあればいい。その言葉とは裏腹に、成宮は笑みを浮かべた。
「あと、これは忠告。」
成宮は、自分を見上げる弘樹の横顔に唇を近づけてつぶやく。
「期待を、裏切らないでくださいね。」
あまりの近さに、無意識に弘樹は身体を引いた。
距離をとって、成宮をみやる。
「僕は、君の事を信頼して、「待つ」ことを「許し」ました。」
柔らかな笑みとともに、成宮は告げる。
「その信頼を裏切ったときは、弘樹、君にも罰を下さなければならない。」




