白の章 11 ナミダ。そして、ワナ。
夜風が、まだ冷たい。
弘樹は縁側に立ち、空をずっと見上げていた。
星読みは、苦手分野だ。大体において現代の電気の発達に反比例するように星はこの京都でも見えづらくなっている。
特別何かが分かるはずもなく、弘樹は早々にあきらめて雨戸を閉めようとした。
ふと、庭に視線を移すと、そこには睨みつけるかのように銀妃が立っていた。
気配すら、しなかった。
弘樹は口を開きかけた。ゆきのことを聞いておこうと思った。
けど、それは違うと思った。なぜか、銀妃の雰囲気が、そう思わせた。
厳しい視線を弘樹にぶつけ、それでも銀妃は何かを言おうとも、動こうともしない。
銀妃は、怒っているのかも知れない。
自分が、ゆきのそばにいないことを。
そう思う反面、銀妃だって今の状況を理解しているはずだという思いもこみ上げる。
六家の人間の誰かが、ゆきのそばにいることは、六家の微妙なバランスを崩し、修羅場を見ることとなる。
修羅場を見せろ、とでも言うのだろうか。
そんな堂々巡りに、弘樹も難しい顔を銀妃に見せた。
「・・・・狐が、一匹、目をあけたのじゃ。」
銀妃は、やっと重い口を開いた。厳しい目は変わらない。
けど、弘樹には意味が分からない。
「・・・・分からぬなら、かまわぬ。」
銀妃はすっと目を閉じた。
「あの娘を、救えぬというなら、おぬしの手で殺せ。」
弘樹は耳を疑った。何を、いうのだ、銀妃は。
救ってほしいと願ったのは、銀妃、あなたではないのか。
それを。
何を、言うのだ。
「・・・おぬしに許しは、与えたからな。わらわを言い訳にするでないぞ。」
それは、
場合によっては、その選択をも選ばなければならないというのか。
否、それしか選択できなくなる、瞬間があるというのか。
「どういう、意味だ・・・」
弘樹がやっとの思いで口にした疑問に答えることなく、銀妃は姿を夜空に消した。
夜風が、まだ、冷たい。
心の中まで、からからに乾燥して、凍えてしまいそうだ。
空を見上げる。
真昼のような満月の光が、周りを光に染め上げる。
静かな、空。
なのに、銀妃の言葉が、耳から離れない。
助けてほしいのは、銀妃の願いのはずなのに。
助けるための鍵を握っていると弘樹が思っていた銀妃に、無理だといわれた。
恐らく、そういうことなのだろう。
そして、最後の銀妃の言葉は、
弘樹がゆきを殺さなければならなくなることを暗示ている。
救えばいい。そう思う反面、もう救えない、その思いが弘樹の胸をかき乱す。
握ったこぶしは、不自然なほど汗まみれで震えている。
そのとき、ポケットに入れていた携帯電話が、ぶるぶると震えた。
現実に引き戻された気がした。
握ったこぶしを解いて、携帯を開くとそのまま耳にあてがう。
「もしもし」
しかし相手の声がしない。
ふと、誰からだろうと弘樹は思った。画面を見ずに取ってしまった。
耳からはずして画面を見ても、すでに相手の番号も名前も表示されていない。
つながっていることを示す通話時間表示だけが、時間を刻み続けている。
「もしもし?」
弘樹はもう一度相手に呼びかけた。
神経を尖らせる。
電話を乗っ取って悪さをする、そんな化け物もいるかもしれない。
「もしもし・・・?」
三度めの呼びかけをしながら、弘樹はとにかく相手の僅かな音すら聞き漏らさないように耳に神経を集中させる。
「安倍、くん・・・?」
その声は、とても久しぶりに聞く、声だった。
「・・・望月さん、だよね?」
かすかに、頷くような、肯定の意を示す声が聞こえた。
「いきなり、電話して、ごめんなさい。」
その声は、かすかに、かすれていて。
「ううん、平気。どうしたの?」
どこか、泣いた後のような声のように思えて、弘樹は案ずるようにそっと声を掛けた。
「あのね。」
その弱弱しい声は、怯えすら含んでいて。
まるで、何かに怯える、子どものような声だった。
「・・・」
言葉に迷うように、電話越しのゆきは、沈黙した。
「・・・何か、あった?」
沈黙に耐えかねて、弘樹は言葉を紡いだ。
何に、怯えているのか。
ゆっくりと、手探りで探す。
同時に、マクロの護りのなかにいるゆきの気配を必死に追う。
マクロでは、なにも、起こっていない。大きな変化はない。
「・・・ううん。あのね。」
しばらくして、ようやく絞り出すかのような声でゆきから返答があった。
大きく息を吸い込む音が、受話器越しに聞こえた。
「・・・いまから、あえないかなぁって。」
泣いているのに、笑っている声に聞こえた。
どこか、無理しておどけている。
「・・・いいよ。」
弘樹はゆきにあわせるように、すこし笑ってそう答えた。
「ちょうど、話したいことあってさ。」
弘樹だって、ゆきに話さなければならないことがある。
ゆきからの連絡を待っていたのは、弘樹も同じだ。
「いま、どこにいるの?どこで待ち合わせる?」
そういいながらも、弘樹は、いまゆきがいる大体の位置を掴んでいた。
極力、ゆきが動かなくてもいいように待ち合わせたい。
「三条大橋とか、それでもいい?」
ゆきが言ってきた場所は、ゆきの今いる地点から近い。
夜道を彼女が一人で移動する、その距離は然程ではないだろう。
その上、そこは夜でも交通量が多い。
「OK。近くにいい店知ってるんだ。」
弘樹はそういうと、楽しそうな笑い声を受話器に乗せた。
電話を切ったあと、弘樹は軽く目を閉じた。
どうして、ゆきが怯えていたのか、泣いていたのかが分からない。
マクロで探した限りでは、何もなかった。
なのに、腹のそこから這い上がってくる底冷えのような震えがいつまでたっても消えない。
(罠、なのか。)
高志が言っていた。彼女の周りにある、悪意のない膜。
六家が彼女から手を引いている今、察するに、それを仕掛けたのは、キョウトの誰かだろう。
けど、それは、あくまでも
(彼女を、保護するため、だろ?)
だから、悪意はなかった。
無論分かっている。それが未来永劫に続かないことくらい。
けど、それも時期尚早だ。
とにかく、彼女に、ゆきに会えば分かる。
話をすれば、一気に解決の方向に持っていけるはず。
そう強く考えて、弘樹は待ち合わせに間に合うように走り出した。
待ち合わせの場所に弘樹が着いたときには、
すでにゆきは橋の欄干部分に寄りかかるように立っていた。
深夜近いというのに、車の行き交いは頻繁で
そのヘッドライトに何度も照らされる。
弘樹は近くまで寄って、うつむき加減なゆきに声を掛けた。
「待たせた?ごめん!」
その言葉に答えるようにゆきは軽く首を横に振る。
しかし、ゆきは顔を上げようとはしなかった。
「どっか店入ろうか?やっぱ、春になったって言っても寒いや。」
弘樹は、ゆきが泣いている気がした。
電話のときは、想像だったが、実際に会って、間違いがないという気がしてきた。
ゆきが纏う空気が、見ているほうが辛いほど、痛々しかった。
弘樹はゆきの手を取ろうとした。場所を変えようとした。
しかし、ゆきは弘樹のその手を無造作に振り払った。
強く首を横に振る。
「ここでいい。」
そう小さな声で、けど力のこもった声で言い切った。
とても、泣いている声には聞こえず、弘樹は一瞬びくりとゆきを見やった。
かたかたと、縮こまったゆきの肩がかすかに揺れた。
「・・・分かった。」
弘樹はそういうと、ゆきの正面に立ち、
視線をあわせようと、少しだけ腰を落とした。
「・・・何か、あった?」
地面を向いたままのゆきの顔を覗き込むように、弘樹は顔を傾けた。
ゆっくりとやさしく、言葉を紡ぐ。
「・・・・安倍君こそ。話って、何?」
うつむいたまま、顔を見せずに、ゆきは言った。
その声は、か細くて、かすかに震えていた。
「先に、聞かせてもらっても、いい?」
先ほど一瞬見せた強い口調は、今のゆきには微塵もなく。
どこか怯えた、涙を堪えたような声だった。
「・・・あのさ。」
弘樹は大きく息を吸い込むと、意を決して話しはじめた。
「なんか、変わったことなかった?かわったっていうか。不思議なこと、っていうか。」
ゆきは顔を上げなかった。
「・・・なにかに、後をつけられた、とか。」
敢えて、弘樹は口にした。
ゆきは、そのままの姿勢でいて、
ふた呼吸置いたあと、かすかに首が上下させた。
「・・・あの時、君が手にしていた刀、それが狙われているんだ。」
極力ゆきに目線を合わせるように弘樹は低くしゃがみこむと、うつむくゆきの長い睫毛が目に映った。
「知ってるかもしれないけど。「すすぎ」っていう、ちからの強い、妖刀なんだ。」
氷の刃であるそれは、持ち主の意思を汲み、氷の冷たさで任務を遂行する。
橘の呪詛を無効化したのは、ゆきが、強くそう願ったからに他ならない。
「今まで行方知れずだった「すすぎ」が突如現れたんだ。ほしいとおもう人間は、たくさんいるんだ。」
弘樹はそういうと、地面に目を伏せた。
嘘ではない、自分がしていることは、たんに、一つのことに焦点を当てただけだ。
ゆきを、「自由」にするために。
意を決して弘樹は顔を上げた。
ゆきは、まだ、顔をあげてくれていない。
「望月さん。「すすぎ」を僕に預けてくれないか?」
そういうと、弘樹は一旦口を閉じた。
うつむいたゆきの、睫毛が震えた気がした。
しかし、それ以上のゆきからの返答はなかった。
微動だにせずに、しかし顔を伏せているため、ゆきが何を思っているかは図れない。
「預けてくれるだけで、いいから。」
沈黙に耐えかねて、弘樹が口を開いた。
ゆきにとっては、突然の話だ。弘樹は可能な限り、語りかけるようにゆっくりと言葉を並べた。
「そうしてくれたら」
もう怖い思いはさせない。弘樹はそう約束しようと言葉を続けようとした。
しかし。
一瞬だけゆきの頭が横に揺れた。
かすれた声が聞こえた。「・・・・・なの?」
弘樹は、言葉を止めた。
「嘘だって、言って。」
ゆきの二言目は、かすれた甲高い声で弘樹の耳に刺さった。
弘樹はゆきの言葉の真意をつかめなかった。
「え・・・」
弘樹が聞き返そうと言葉を紡ごうとした瞬間、ゆきが顔を上げた。
弘樹は、絶句した。
真っ赤に腫れ上がった両目は、怯えたように、それでも弘樹を真正面に捕らえていて。
「嘘だって、言ってよ!」
いらだつ感情をそのまま言葉にぶつけて。
そして、乾いた涙が、頬を伝った。
「ちょ・・・」
弘樹は目を見開いた。状況を理解できないまま、しかし状況は暴走している。
ゆきは、瞳に涙をためたまま、いらだったかのように右手が上から下へ宙を切った。
その瞬間、ゆきの手許には、小刀ほどの透き通った刀が握られていた。
「狙いは、これなんでしょ。」
泣き声にも、鼻にかかった甲高い声にも聞こえた。
「これがなければ、簡単だもんね。」
ゆきの口元がかすかに上ずった。自嘲するかのように、口元だけつりあがって笑った。
「わたしも、殺すんでしょ?」
ゆきが、いま、なんと言ったか。弘樹は理解できなかった。
なのに、勝手に全身の血が凍りついて、身体中の筋肉がいうことを聞いてくれない。
聞きなおしたいのに、くちびるが、動かない。
「この、人殺し。」
そういうと、思いがけず俊敏にゆきが一歩前に出てすすぎを弘樹に振り下ろした。
弘樹が回避できたのは、修行の賜物と防衛本能だろう。
よろけるように数歩下がる。
しかし、ゆきは出鱈目にすすぎを振り回してきた。
なりふり構わず、だ。
顔をくしゃくしゃにしながら、目を真っ赤に腫らしながら、
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
「ちょ、ちょっとまて。落ち着け!」
「うるさい!」
弘樹は、とにかくゆきを落ち着かせようと、振り回す刃を止めようと手を伸ばすが
闇雲に振るわれる刃を相手に上手く届かない。
「触るな、来るな、あっちいけ!」
近づく弘樹の腕を遠ざけるかのように、ゆきはくしゃくしゃの顔で力任せに右へ左へ刃を叩きつける。
動きが読めず、弘樹はぎりぎり間合いの外でゆきの動きの隙を見つけようとする。
「何があったんだよ!おちつけ!」
「人殺しの話なんて、聞きたくない!」
悲鳴にも、怒号にも聞こえたゆきの叫び。
その声、その言葉は、凍りついた刃のように冷たく、弘樹の耳に突き刺さった。
一瞬、弘樹の動きが止まった。まるで、弘樹の中だけ時がストップしたかのように。
その瞬間、ゆきは弘樹との間合いを一瞬で詰めた。
弘樹の中の時が動き出したとき、自分の胸めがけて飛び込んできたゆきと、
左わき腹に、尋常じゃない熱さを感じた。
瞬間、僅かに身体をひねってゆきとの間合いを取り直す。
はたと、ゆきを見ると、すすぎが黒く汚れていた。
無意識に右手で熱の部分を押さえた。
串刺しは免れたが、しかし、確実にわき腹を数センチ服ごと裂かれた。
一旦ゆきとの間合いを多めに取り直す。
ゆき自身もかなりの運動量だったのだろう。肩が上下に動いている。
赤く酷く腫れた瞳が、憎しみの感情を持って弘樹を見つめている。
状況は、最悪だ。
すすぎに裂かれた身体、それは、たかが数センチでも油断できない。
すすぎは持ち主に忠実だ。それがすすぎの最大の「恐怖」となる。
侵食。
殺すもしくはそれに準ずる感情を持った主より、すすぎを用いて攻撃を受けた傷は
それが僅か数ミリであっても、確実に主の命を果たそうとする。
数ミリの傷は、数時間あれば致命傷になるまで傷が侵食される、大きくなる。
弘樹の傷は数センチのかすり傷だ。しかし、すでにそのかすり傷を上回る出血で、押さえた右手から血が滲み出している。
痺れに近い痛みと熱が、少しずつ身体を侵しはじめている。
これを止めるには、ゆきの感情を落ち着かせなければならない。
「望月さん。どうしたの?何があったの?俺に話聞かせて、そうじゃないと、わかんないよ。」
弘樹はそういいながら、ゆきとの距離を少しずつ縮めていく。
ゆきは、ぎっと弘樹をにらみつけた。
両手ですすぎの柄を持つ。
「・・・そうやって、とぼけるの?逃げるの?それとも、私を油断させてるの?」
ゆきのその姿は、全身の毛を逆立てて威嚇する猫、そのものだ。
弘樹の話を聞く姿勢すら、見出せない。
「俺は、何もしないから。ほんと。いま、望月さんが何に対してそんなに悲しんでるのか、怒ってるのか。」
弘樹はゆきをまっすぐに見つめた。
赤くはれ上がった瞳を、涙でぐしゃぐしゃの顔を、震える両腕を。
一歩ずつ、ゆきとの距離を詰める。
「話を、聞かせてくれないか。」
ゆきが、すすぎを振り回せば刃が届く距離まで歩み寄ると、弘樹は一旦足を止めた。
ゆきの両手は、震えながらも、爪と指先が真っ赤になるほどの強い力ですすぎを握っている。
絶対に手放さないといわんばかりの、両手。
その両手に、弘樹は手を伸ばそうとした。
しかし、
「・・っ」
伸ばしかけた弘樹の手のひらを、すすぎがなぎ払った。
僅かに、弘樹の手のひらに赤い線が走った。
「近寄るな、と、何回いえば分かる?」
低いゆきの声が聞こえたかと思うと、ゆきは、すすぎを握る手を大きく薙いだ。
弘樹は、縮めたゆきとの距離を一旦開けざる得なかった。
そうしている間にも、わき腹の傷の侵食が進んでいく。
「痛いだろう?殺された人は、もっと、それ以上の、痛みなんだ。」
そういうと、ゆきは、弘樹との距離を少し縮めた。
「それとも、もっと痛みを感じないと、分からないか?」
淡々と低い声で語りながら、ゆきはすすぎを頭の上に振り上げ、そのまま弘樹に叩きつける。
間一髪でよけた弘樹に対して、右から左から、流れるかのような太刀筋ですすぎを叩きつける。
ゆきの動きが、微妙に変化している。
そして、耳元で鳴き続ける耳鳴りのような音が、次第に耳障りになってきていた。
何者かの手で、結界が張り巡らされているのは途中で気がついていたのだが
それがおかしな方向へゆがみが生じ始めているのだ。
明らかに、わざと。
ゆきの太刀筋をよけながら、弘樹は小さく悪態をついた。
時間がない。
この結果のゆがみは、弘樹に味方をするはずがないのだ。
次の瞬間、ゆきの太刀筋をよける反動を利用して弘樹は大きくジャンプした。
ゆきの頭上を越えて、橋の欄干に足をかける。ゆきの背中を取った。
弘樹が実力行使に出ようとした瞬間、すすぎがゆきを中心に180度半円を描いた。
その思わぬ鋭いなぎ払いに、弘樹は反応できなかった。
足元を掬われた。そのまま橋の外へ落下する。
一瞬の判断で、右手だけ欄干に残せた。
しかし、それ以上は厳しかった。
右手のひらは、思った以上に血で濡れていて。
左腕を伸ばそうにも、左わき腹の傷が悲鳴を上げた。
上を見上げると、赤い目のゆきが、すすぎを弘樹の右手に添えていた。
赤い目には、あふれそうなほどの涙がたたえられていて。
そのまま、すすぎを弘樹の右手に振り下ろそうとした。
そのときだった。
ゆきの頭上を、黒い鳥が旋回しているのを、弘樹は見つけた。
カラスではない、否、
トリじゃ、ない。
瞬間、弘樹はありったけの声で叫んだ。
「やめろ!すすぎを今すぐひくんだ!これは、罠だ!」
怒鳴りつけるかのような、形相を変えた弘樹の声は、しかし、ゆきには届かず
ゆきは目をつぶると、すすぎを弘樹の右手に振り下ろした。
涙があふれて、落ちた。
弘樹の手が、欄干から、消えた。
少し間をおいて、水面を叩き割る音が、川の流れる音に混じって響き渡った。




