白の章 6 夢幻と現実と
この近辺にはたくさんの喫茶店がある。学生街だから、というのもあるだろう。
成宮が案内したのは、その中でも、裏路地に面した小さな喫茶店だった。
店の中に入ると、客はいなく、
一番奥の席に二人で向かい合うと
やさしそうな男性が水を運んできた。
成宮はコーヒーを頼んでいた。何も頼まないわけには行かないだろうと、ゆきはジンジャーエールを頼んだ。
「べつに何も頼まなくていいのに・・・」
成宮は困ったような顔をした。
「ううん。なんかさっぱりしたものが飲みたくてさ。」
ならいいけど。そう成宮が首をかしげる。
「気分はどうですか?」気遣う成宮の声は、少し低くて、とても温かい。
「もう、大丈夫。・・・まだ青い顔してる?」
逆に心配そうな顔をしたゆきに、成宮は目を丸くして、そして顔をくしゃりとさせた。
「そんなこといえる様子なら、大丈夫そうですね。さっきはびっくりしました。
具合が悪いというよりも、何かに怯えているようで・・・。」
そういうと、成宮はコーヒーを一口、口にした。
その言葉に、ゆきは顔を強張らせた。思い出してしまった。
「あ、ごめんなさい。無粋なこと、言いました。」
ゆきは大きく首を振った。横に結わいた髪がそれにあわせて舞う。
「・・・ありがと。あの時、声かけてくれたから、すこし、気が楽になった。」
そういうと、ゆきはジンジャーエールにストローを差した。
「それにしても、災難続きですね。うわさ、聞きました。」
無粋なこと聞きましたか?と続けて聞いてきた成宮に、ゆきは思わずふきだした。
「成宮くんってさ、姿はばっちし日本人なのに、なんか言葉の言い回しが、面白いね。」
ゆきの笑顔に、成宮は笑って答えた。
「長いこと外国にいたんです。両親は日本人ですが、過ごしたのは上海です。・・・やっと笑ってくれましたね。」
笑ったほうが、似合ってますよ。成宮は目じりにしわを寄せてそういった。
そういうと、テーブルの上においていたゆきの右手にそっと成宮の左手を乗せた。
「階段から、転げ落ちた、とか。」
あぁ、そっちか。そうつぶやくと、ゆきは眉尻を下げたまま、頷いた。
「まぬけだよね…ほんと。」
「嘘ですよね?」
成宮は笑顔のままだ。
ゆきは、笑顔を凍らせた。
息を呑む。指先から、血が引いていく感触が手にとるように分かった。
成宮はゆきの右手をそっと裏返す。手のひらを上にすると、手首の大きな絆創膏が痛々しく見える。
「階段を転げ落ちただけで、両手首にこんな傷は、無理ですよ。」
片方ならいざ知らず、両方に、しかもほぼ同じ場所に。
「・・・何があったかは、聞きません。けど、話したほうが楽になることはあると思います。」
一瞬だけ、ゆきの心が揺らいだ。
言えば、楽になる。けど、この傷にまつわることは、いえない。信じてもらえない。
「もしかして、もうひとつのうわさ、ですか?」
遠慮がちに、成宮が口に出した。
ゆきが口をつぐんだ原因が、それだと思ったのだろう。
「知ってます。すみません。不躾で。」
「・・・うわさ、好きなんだ。」
別に軽蔑しようといったわけではない。けど、口に出したその言葉は、軽蔑している言葉そのものだった。
「ごめんなさい。けど、それが原因だというのなら、非道い話だと思います。」
成宮の声は、徐々に小さくなっていく。
「望月さんをここまで傷つけて、非道い話だと重います。」
それは手首の傷を指しているのか、心の傷を指しているのか。成宮はそこまでの言及をせずに、言った。
「すみません。余計気分を悪くしてしまいました。帰ります。ゆっくり休んでください。」
そう言って伝票を手にする成宮は、無理くらの笑顔に、ちょっと寂しそうな顔をしていた。
**
結局バイト先に電話をして、休んでしまった。
外は夕暮れどきで、もうあと数分もすれば日も落ち真っ暗になるだろう。
ゆきは、路地を走っていた。
後ろを振り返りつつ、足をもつれさせながら。
夢と同じ状況だ。黒くて何か大きなものが、背中に迫ってくる。
耳鳴りのような音がさっきから止め処なく耳を襲っている。
路地を曲がる。どこか隠れられないか、目は必死で行き先を探す。
しかし、行く手は絶望だった。
(何で!)
袋小路だ。進むべき道が閉ざされた。
夢とはまったく違う展開を見せた。これは甘い夢ではなく、厳しい現実だと思い知らされる。
戻ろうと足をUターンさせた。しかし、遅かった。
黒い影は、道をふさぐかのように立ちはだかっている。
その奥は、深い深いブラックホールのように見えた。
呑み込まれたら、帰れない。
迫り来る影に、ゆきは一歩ずつ後ろへ足を押し返す。
かかとが、壁にぶつかった。
もう、逃げられない。
影の中心から、強い刃のような風がゆきをめがけて飛んできた。
思わず目をとじた。
腕を顔の前にかざした。
羽織っていたカーディガンの腕の部分が破けた。肌をも切り裂いて、血が舞い飛んだ。
身体の中心が、凍りついた。
ぱたぱたと、血が滴り落ちる音がする。
なのに、頭と両腕は冷静だった。
切り裂かれたほうの腕を、大きく横になぎ払った。
溜まっていた血が、闇に吸い込まれる。
その部分だけ、闇が消えた。
「すすぎ」
ぽつりと、聞こえるか否かという声でつぶやくと、振り払った右手に蒼い刀が出現した。
・・・頭の半分は、凍り付いている。
これは、自己防衛の本能だ。凍りついたほうのゆきが、ぼんやり考えた。
本能だから知っている。凍ったゆきは、知らないこと。
そのまま闇の中心に滑り込むと、すすぎを迷うことなく突き刺した。
***
袋小路で崩れるように倒れこんだゆきの頭上を、黒い鳥が舞い飛んでいる。
「・・・ちょっとやりすぎましたか?」
袋小路の入り口に、成宮が立っていた。
黒い影は、瞬時に人の形となる。髪の長い女性だ。
その足元には、黒い血をすった白い紙が何枚も散らばっていた。
「思わぬ反撃に・・・申し訳ございません。」
深々と頭を下げる女性に、べつにいいよと言わんばかりに、成宮は片手を振った。
「びっくりしたのは、僕も一緒。君を喪わなかっただけでも、よかったよ。」
そういうと、成宮は足元の白い紙を拾い上げる。
暗闇に黒く見えたしみは、近くで見るとまだ乾いていない濃い朱だった。
ひどく濃厚な香りが鼻をくすぐる。
「ここを、片付けておいてくれないか?」
成宮は、そう女性に告げた。先ほど張り巡らした結界はすでに無効となっている。
この匂いに誘われて、余計な魔を呼び込むようなことはしたくない。
成宮は、倒れこんだゆきのそばに座り込んだ。
肘から手首まで、裂かれた傷はすでに乾き始めていた。
乾いていない部分に指をあてがう。指についた血を、指ごとそのまま口に運んだ。
「秀一様・・・?」
女性の細い目が、よりいっそう細められた。首をかしげている。
「あぁ。彼女は僕が片付けるよ。ちょっと厄介だからね。君に任せるには荷がおもいよ。」
そういうと、やさしく微笑みかけた。
****
凍りついた身体が、やっと溶けはじめた。
「・・・ちゃん、ゆきちゃん!」
重いまぶたを押し開けると、そこは白い天井と、
覗き込むように自分を見下ろす、朱音の顔があった。
「わかる?私のこと、分かる?」
瞳を開いても焦点の合わないゆきを、朱音は心配した。
「あ、かね、さん・・・?」
かすれた声で、ゆきは朱音を呼んだ。
「よかったぁ。これ以上待ってもだめなら、救急車だったわよ。」
心底安心したのだろう。朱音の言葉は、安堵のため息が混ざっていた。
「ここ、は・・・」
ふらつく頭を押さえて、ゆきは起き上がった。
淡いイエローの掛け布団に、目の前には大きなぷーさんのぬいぐるみ。
「私の家。私個人のね。だから安心して。」
窓の外には、ライトアップされた京都タワーが映る。マンションの高層階であることがわかる。
「ど、うして・・・?」
ゆきにはどうして朱音と一緒なのか、どうしてここにいるのか、まったく分からない。
「覚えてないの?」
朱音は、きょとんとした。そのあと、ああ、と声を上げる。
「ほんと、偶然よ。てか、ゆきちゃん、お酒弱いの?」
今度は、ゆきがきょとんとする番だった。
話を聞くと、居酒屋の前でうずくまってしまったゆきとその友人の近くを
ちょうどほろ酔いで帰ろうとした朱音が見つけてしまったという。
「その男の子が、どうしようっておろおろしてたからね。ちょっと可笑しかったけど。」
からんからんと軽快な笑いを含みながら、朱音はゆきに水を持ってきた。
カップに入った氷が、からんとゆれる。
冷たさは本物だと、理解できるのだけど。
「だめだぞ。飲めないお酒を男の子の前で飲むなんて。ゆきちゃん、きみが呑まれるよ。」
朱音の指が、ゆきのおでこを弾いた。
「まぁ、今回のあの男の子は、そんなこと微塵と考えなかったみたいだけどね。」
朱音はそういうと、気分がよくなるまで寝ていきなさいと、ゆきの髪をなでて部屋から出て行った。
ゆきの手許のカップの中の氷がからからゆれる。
記憶が混濁している。
指先の震えがとまらない。
あの時、黒いものに襲われて、すすぎで斬りつけたら消えて。
その後の記憶がきれいさっぱり抜け落ちている。
次の記憶が、このベッドの中だ。朱音の心配そうな顔だ。
なのに。
アルコールを大量に摂取したときの割れるような頭痛とけだるい感じだけは
この身体に刻み込まれていた。
飲んだのかもしれない。
けど、飲む一番最初から記憶がないのは、明らかにおかしい。
ふと、壁を見た。壁に掛けられた時計は、23時を回ったところだ。
壁に立てかけられた姿見に自分の顔が映る。
しらふ、と思う自分の顔が映りこんだ。
ゆきは友達にもびっくりされるくらい、飲むと顔を赤くする。
そして。自慢ではないが、結構なザルで、お酒を飲んで倒れこむことを経験したことがない。
本当にうずくまったというのなら、かなりの量を摂取したことになるはずだ。
記憶が、今の現実とつながらない。
否、朱音の言うことが、今の現実と記憶とで大きな隔たりを持っている。
この割れるような頭痛ですら、何かの警告に感じる。
ふと、ゆきは自分の右腕を見た。
羽織っていたカーディガンがなくなっている。
水色の半そでニットから伸びる腕には、傷を負ったはずなのに、傷ひとつついていない。
細かい擦り傷は、あのときのものだが。
左腕の勘違いかと思って、左も見たが、こちらも傷がない。
・・・襲われたことのほうが、夢だというのか?
ゆきは震える手で、カップの水を飲み干した。
何が正しくて何が間違っているのか、今いる空間すら虚構に感じた。




