白の章 5 記憶とキスと
走る。走る。走る。
とにかく足を進めなければ。
息が切れる。喉の奥がからからに乾いている。
足がもつれる。いったいどれくらい走り続けているのだろう。
けど、止まったら、呑み込まれる。ころされる。
後方数メートルには、真っ黒な影が蠢きながら近づいてくる。
たすけてたすけてたすけて。
***
「ゆき?ゆーきー?」
目の前に座った知香がゆきの目の前で手を上下させている。
「え?」
「意識飛んでなかった?」
目が据わってたよ。そう知香は目の前のアイスティのストローをくるくる回した。
「あのさ、最近おかしいよ。寝てないの?」
知香は、ゆきの目の下を指でなぞった。
うっすらとクマが伺えた。
「う・・・ん。ちょっとね。」
ゆきは言葉をにごらせた。
寝てない。眠れていないというべきだろう。
最近、おかしな夢ばかり見る。
「ちょっと。なんで寝てないのよ。あんたねぇ。だから『階段から転げ落ちる』のよ。」
知香はため息をつくと、ガムシロップをあけて、アイスティに入れる。
からからと氷のぶつかる音がした。
階段から転げ落ちる…それは咄嗟の言い訳だった。
派手に足を滑らせて、両手首を強打、挙句気絶してしまった。
われながら、馬鹿っぽいいい訳だとは思ったが
そうでもしないと、入院と手の傷はごまかせない。
今だ、病院に通っていることは事実だし、
両手首には大きな絆創膏を張っている。
「それにしてもさ。最近、あんた変わったよね。」
知香は目を細めてゆきを見た。
「え?…なんも変わってないよ。」
知香とは入学のときからの友人だ。
趣味も考え方もゆきとは似ていなく、だからこそだろう、お互いが面白いと思った。
お互いが、居心地がいいと思っているから、こうやってよく学食でご飯を食べている。
「そお?」
知香は首をかしげる。にやりといたずらな笑みを浮かべた。
「ねぇ、安倍君とはどういう関係で?」
唐突に振られた話題に、ゆきは目を見開いて、口をぽかんと開いた。
「あーゆーのがタイプとは思わなかったなぁ。私。」
知香は両肘をテーブルに載せて、いたずらっ子の笑みでゆきを見つめる。
「結構私の周りで話題になってるのよねぇ。あんたと安倍君。」
ゆきと知香は学部が違う。
知香は弘樹と同じ文学部だ。
そんな話題になっているとは思わず、ゆきは開いた口を閉じられなかった。
「私だってびっくりしたもの。履修登録のとき、あの安倍君があんたとすごく親しげに話してるんだもの。」
知香に聞くと、学内で弘樹と誰かが一緒に歩いていること自体珍しいという。
「まぁ、彼が大学にいること自体珍しいんだけど。出席が必須の授業とテスト期間だけじゃない?」
それでも、きっちり単位は取得しているらしい。
「世に言う一匹狼だね。そこそこ顔いいんだから、愛想よくすれば別に問題ないと思うんだけど。」
そういうと、知香はアイスティを口に含んだ。
「で、どういう?」
知香の追及に、ゆきは目を泳がせた。
どういう、といわれても、正直に話せない。
(まさか、命狙われてました。なーんて言えないし。)
ゆきが答えに窮して、癖のない髪を手で持てあそんでいると後ろ頭をぽんぽんと叩かれた。
「お、うわさの主を捕まえて追及?混ぜてよ。」
学食のグリーンのお盆を抱えた菜月が、するっとゆきの隣に座り込んだ。
「う、うわさって、そんなに?」
若干苦虫を噛み潰したような顔で、ゆきは菜月にたずねた。
「そーねー。そこそこ?ほら、この時期って、「誰々くんかっこいい」的な話題はあっても
そこから発展して「くっついた」的な話題にはちょっと事欠けるじゃない?」
そんなときに降って沸いた格好の話題の種、菜月はそうつなげた。
「それにしても、ゆきの今までの好みからはかなり外れるけど、どしたの?」
あいつ、結構な遊び人だよ?そう菜月がつなげた。
「え?そうなの?」
その話に驚いたのは知香だ。
ゆきも、おもわず菜月のほうをみる。
「学内では、ゆきが初めてかもしれないけど。結構街中では目撃されてるんだよ。女の人と二人で歩いている姿。」
しかも、連れ立って歩く女性は、結構な美人で、かつ、いつもいつも違うらしい。
なのに、いつも親しげに楽しそうに歩いているという。
「・・・どうして、そんなに詳しい?」
知香が菜月にたずねた。若干疑いを持っている、そんな声で。
「あぁ。入学して間もないころかなぁ、彼に惚れた子がいてさ。けど、その事実を知って、百年の恋も冷めたって顔してた。」
ほんと、もったいないよねぇ・・と菜月はサンドイッチ片手に棒読みの嘆きをこぼした。
「惚れる子の気持ちも分かるしなぁ。好きな子は好きそうだよね、ああいう優男。」
わたしはちょっとタイプじゃないけど。菜月はそう付け足した。
「で、ゆきちゃん。そろそろ話していただきますか?」
菜月がゆきに詰め寄った。知香も身を乗り出してくる。
ゆきは、この二人の詰め寄りに、背中を後ろに引いた。
こ、こわい。本能的にそう思った。
けど、なにか言わないと、開放してくれないだろう。
「べ、べつにそんなんじゃないよ。ただ、ちょっと話をする機会があっただけで。」
しどろもどろになりながら、ゆきがやっとのことで口にした。
「それにしては、すごく親しげでしたがねぇ。」
知香の追求は、それでは収まらなかった。
「ほ、ほんとだよ。それから、話、してないし。」
話すどころか、会っていない。連絡も取っていない。
「なーんだ。てっきりあてつけかと思った。」
菜月は、知香とは逆にあっさり引き下がった。
「あのさ、てっきりね。ゆきがあてつけに、あんな遊び人に手を出したのかと思ったの。だったら止めろって注意したくてさ。」
菜月は、心配そうな声で言うと、ゆきの頭をくしゅくしゅとなでた。
このことがうわさになったのは、弘樹が原因ではなく、ゆきのほうに原因がある。
2ヶ月前、ゆきは手痛い失恋を経験した。
ちょうど、バレンタインのころだ。原因は相手の浮気。
それまで、理想のカップルとか知香たちにもてはやされて、ゆき自身も有頂天になっていたからこそ
そのときに食らったダメージは計り知れない。
そのとき支えてくれたのも菜月だった。
菜月はお姉さんだなぁと、ゆきはぼんやり思った。
**
あれから、話をしていない。
入院していたときも、結局なにか話をするという機会はなかった。
佐伯先生は、診察のたびに心を砕いてくれた。
朱音は毎日のように病室に顔を出しては、花だの本だのたくさん持ってきてくれた。
樹里も、一度だけきてくれた。
「あの馬鹿放置してられないから、あまりこれないけど。」と笑ってたし。
けど、弘樹には会えなかった。
やっと退院で動けるようになって、弘樹の病室に行ったら
一歩遅く退院した直後だというし。
挨拶もないのか!と佐伯先生は呆れていたけど。
大学が一緒だし、そのうち学内で会えるかなあと考えていたのだが
実際知香の話を聞いていると、それもかなり難しい確率だということが分かった。
それにしても。
ゆきは思った。
弘樹のことは、知香や菜月や、ほかの友人にきくと人それぞれまったく違うイメージを持っていた。
一匹狼、遊び人。
しかし、ゆきには、ゆきの知っている弘樹は、そのどれにも当てはまらない気がしていた。
弱くて、強い人。
(携帯、聞いておけばよかったかなぁ。)
鴨川のほとりをぽつぽつ歩きながら、ゆきはぼんやりとそう思った。
毎夜のように見る夢。
けど、夢じゃない現実。
目が覚めると、物凄い疲労が残っている。
まるで本当に走りまわされたかのような、足の痛み、喉の渇き。
起きるたび、新しいすり傷ができていて、血が滲む。
一度、弘樹の家…店に行ってみたが留守だった。
安倍の家に押しかけるのも、迷惑だろう。
佐伯先生に相談したときは、難しい顔をして
「心が、まだ悲鳴を上げているのかも。それだけの経験をしてしまったのだから。」と
そっと、睡眠導入剤を処方してくれた。
不安なら、あいつに連絡取るか?とも提案してくれたが
大事になるのは、ゆき自身が嫌でやんわりとお断りをした。
ただ、話を聞いてもらえるだけでいいのだ。
心が、重い。
ゆきは歩きながら、深くため息をついた。
(・・・バイト、休もうか)
まだ本調子とはいえない気がした。
仕事中に倒れたら、それこそ迷惑だ。
ゆきはそう思い、バックの中の携帯を探した。
探そうとバックを見たとき、その視線の奥に、見知った人影を見つけた。
はた、と立ち止まる。
川岸に近いベンチで、弘樹がすわっている。
すごい偶然だと、ゆきは思った。
声を掛けようと、名前を大きな声で呼ぼうとしたが、寸手で止めた。
隣にいる誰かと話している。
その人は、ゆきに背中を向ける形になっているので誰かわからないが
肩まで届く黒髪や、細い身体のラインから、女性であることは間違いなかった。
とくん、と心臓の音が聞こえた気がした。
ゆきはそっと、上から近づいた。
近づくにつれて、弘樹が非常に困惑した顔をしていることに気づいた。
なにか、深刻な話だろうか。
今、弘樹に声をかけるのは憚られると感じたゆきではあったものの
反面、二人が何を話しているのか、何故か気になってしまっていた。
二人から、目をそらせない。
一瞬、弘樹と目が合った気がした。気づかれたと思い、ゆきが身体を引きかけたとき
弘樹の顔に、彼女が覆いかぶさった。
一瞬の出来事だった。
ゆきは、見てはいけないものを見たと瞬時に視線をはずそうとした。
けど、視線も身体も一瞬で凍てついて動かない。
そっと、スローモーションのように自分の右手で口元を押さえた。
どうしてか、身体ががくがくと震え始めていた。
彼女はほんの一瞬で、弘樹から離れた。
数瞬間を置いて、弘樹は、彼女にぎこちない笑みを向けた。
その笑みが、ゆきの瞳に映ったとき、凍てついていた身体が一瞬で溶けた。
ゆきは、その場を逃げるように奥の路地へ駆け込んだ。
心臓が急発進するかのように暴走している。
全て分かってしまった。
あの時、どうしても理解できなかったことが、いまの弘樹を見て分かってしまった。
細い路地を曲がりきり、すぐに見えた自動販売機の前でゆきはしゃがみこんだ。
心臓がバクバク大きな音を立てている。
たった数メートルを全速力で走っただけなのに、息が苦しい。肩が大きく揺れた。
けど、頭は非常に冷静だった。くやしいくらい、冷静だった。
あの時、初めての共有視で、けどどうしても理解できなかった「符号」
(理解できなかった、じゃなくて、理解したくなかったんだ)
弘樹に近づいたとき、弘樹と話す女性が池脇千鶴だということには、気づいていた。
千鶴が、瞬間弘樹の顔に覆いかぶさったとき、
唐突に共有視で視た「キス」が、オーバーラップしてきたのだ。
共有視での弘樹のキスの相手は、千鶴。
そして、困惑顔から一転笑顔になった弘樹、説明する感情は「嬉」しい。
全身から力が抜ける気がした。
いつまでたっても、息苦しさが消えない。
無意識に自分の腕を抱きしめていた。
小さく丸まって、その痛みをやり過ごそうとした。
そのときだった。
「望月・・・さん?」
背中から、声がした。
柔らかな、男性の声。
恐る恐る振り返ると、見下ろすようにして心配している男性が立っていた。
「あぁ、やっぱり望月さんだ。どうしました?具合、悪いのですか?」
白いスニーカーに濃色のデニム。鮮やかな青いチェックのシャツに、
少し長めで癖のない黒い髪。黒い瞳が、妙に印象的だった。
頭の奥が、きりきり痛んだ。
そっと、右手を添えてやり過ごすと、ゆきは身体中の緊張を少し解いた。
相手に心配掛けないように、立ち上がる。
「・・・心配掛けてごめんなさい。ちょっと立ちくらんだだけ。えっと・・・成宮くん、だったよね?」
ゆきにそう呼ばれ、成宮はちょっと驚いた顔をした。
「あれ、覚えててくれたんですね。授業のディスカッションで数回顔を合わせただけなのに…」
また、頭がきりきり痛んだ。
「・・・どうしてだろ。けど、すんなり名前が出てきたよ。」
ゆきは、右手で頭を押さえるようにしながらひざについた砂を払い落とす。
「それは光栄。けど、望月さん、顔青い・・・どっかで休んだほうが・・・あ、もしよかったら、このちかくに行きつけの喫茶店があるんです。
マスターと知り合いだから、何も頼まなくても休ませてくれるはず。」
そういうと、やさしくゆきの手をとった。




