白の章 2 彼女のココロ
日常が戻ってきた。
「先輩っ」
弘樹がいつものように鴨川を眺める定位置に腰を下ろし、いつものように本に目を落としていると
後ろから、これまたいつものごとく、晴彦が声を掛けてきた。
いつもと違うのは、晴彦が、弘樹の背中をこれでもかという勢いで強く押したことくらいだ。
「…お前、俺を川に突き落とす気か?」
ベンチから転げ落ちた弘樹は、振り返って晴彦に恨み言を吐く。
一方の晴彦は、そんな恨み言はお構いなしに、晴れ晴れしい顔をしていた。
今日の五月晴れより、晴れ晴れしい。
「いやぁ、喜ばしいですね。ほんと、喜ばしい。」
晴彦がここまで満面の幸福感でいる理由を、一応弘樹は知っていた。
一応、だ。
晴彦がやかましいくらいに何度も、携帯にメールをくれたから。
そして、当事者として関わったからこそ、嫌でも耳に入ってきた。(無論後者の理由は、晴彦には口が裂けてもいえない)
連続通り魔の犯人が捕まったこと。
千鶴が、退院したこと。
あの後、井田が自首したという話を、叔父から聞かされた。
表面的な事件は、それで解決した。
その裏に潜むもうひとつの事件は、表沙汰にされることは一切ない。
「ほんと、よかったです。池宮さんも、昨日から学校に復帰しているんですよ。」
晴彦にとって、事件の解決<千鶴の無事と復帰、だ。
「あーよかったよかった。」
とりあえず、表面的に晴彦の幸福に賛同してやる。
「心こもってないですよ。それ。」
まぁ、いいんですけど。と晴彦は受け流す。幸せは、人を盲目…いや重要なこと以外はすべてどうでもいいことにする。
「けど、残念なのは、先輩が活躍してくれなかったことです。あぁ、池宮さんに、先輩の活躍する姿を見せたかった。
んで、感謝されたかったですねぇ…」
なんともちぐはぐな晴彦の台詞に、弘樹は眉を顰めて、頭をかいた。
どこから突っ込むべきか。弘樹は、苦笑いだ。
「まずな、なんで俺が活躍するとお前が感謝されるんだ?」
もっともな矛盾を指摘する。
「先輩を紹介したのが、僕だからですよ。」
その矛盾を、いとも簡単、むしろ当たり前でしょという顔で晴彦は返してきた。
「普通、助けた騎士に感謝…」
そこまで言いかけて、弘樹は言葉をとめた。
自責の念が、ちりりと胸を締め付ける。
感謝、されることなんて何もやっていない。むしろ罵られることを、した。
「騎士を紹介しなかったら、姫は助けられません。だからですね。僕が感謝されるべきなんですよ。」
晴彦は弘樹にお構いなしに、話を続けた。一瞬の弘樹の「異変」には、気づいていないようだった。
「わーった。わーった。」
弘樹は、大げさに右手を上下させた。この話を、終わらせたかった。
この話だけではなかった。
あの出来事は、まだ終わりを見せてくれていなかった。
いや。
始まった、のかもしれない。
晴彦が来るまでの間、本に目を落としながらも、全然違うことばかりが頭から離れなかった。
キョウト六家が、騒がしく動いている。
火の粉は、確実に弘樹に降りかかっていた。
「というわけで、お祝いです。先輩、ご飯食べに行きましょう!」
おいしい焼肉の店を見つけたんですよ、と晴彦が弘樹の服を握って引っ張ってくる。
その顔は、先輩の財布を当てにしている、そんな笑みで満ちている。
笑み、ではなく、悪意だ。弘樹はそう訂正した。
「お前の策略は残念ながら失敗だ。先輩は、ただいま大変な金欠だ。」
それとも、おごってくれるのか?そんな期待を込めた目で、弘樹は晴彦を見上げた。
悪意には、悪意で返す。当たり前だ。
「じゃあ、私がおごろうか?」
2人の背後から声が降ってきた。やわらかい、ソプラノボイスだ。
「い、池宮さん!!」
晴彦が、素っ頓狂な声を上げた。一瞬で、顔が紅潮する。
振り返ると、腕組みをして微笑む池宮千鶴の姿があった。
入院していたときよりも、血色がよく、つややかな黒髪が日の光に反射して、輝いて見える。
「ど、どう、こ、こ、に?」
晴彦は、軽くパニック症状だ。どうしてここに?と、言いたいようだが、日本語にすらなっていない。
「浅井くんってやっぱりおもしろいね。」
千鶴は、軽快に笑っている。察するに、晴彦は何度も千鶴に絡んでは、おかしな言動を繰り返しているのだろう。
一方の弘樹は、後ろを振り返ることができずにいた。
合わせる顔が、ない。というか、分からない。
晴彦とは、別の意味でパニックだ。
「浅井君に会えば、会えると思って。」
千鶴は、振り返らない弘樹の背に、ゆっくりと話しかけた。
「場所は、浅井君とこのゼミ生に聞いたんだ。たぶんここで油売ってるって。」
「誰ですか!油なんて売ってませんよ!!」
晴彦は猛烈な抗議をした。けど、それは千鶴にも、弘樹にも関係ないことだ。
千鶴は、ほかでもない、弘樹に会いにきたのだ。
理由は、考える必要もないだろう。
あの夜のことしか、思い当たらない。
弘樹は、千鶴に背を向けたまま立ち上がると、
そのままの状態で千鶴の手をとった。
「晴彦、悪い、今度肉を腹いっぱい食わせてやる。」
そのまま、千鶴を引きずるように引っ張り、弘樹は川下へ歩を進めた。
「ちょ、ちょっと先輩!!」
遠くで晴彦の抗議の声が聞こえた気がしたが、弘樹の頭の中は真っ白でそれどころではなかった。
**
最初、引きずられるようにしていた千鶴は、すぐに弘樹の真横に立って歩き始めた。
手は、つないだまま。
「どこ行くの?」
強引なつれられ方をされたのに、千鶴は楽しそうに聞いてくる。
弘樹は、それでも千鶴の顔を見ることはなかった。
「いきなり声掛けたこと、怒ってる?」
弘樹の横顔に、千鶴はさっきの楽しそうな言葉を打ち消した。不安そうに聞いてくる。
弘樹は、立ち止まった。
(なにやってるんだ、俺は)
千鶴が弘樹に声を掛けた本当の理由を、千鶴からは聞いていない。
すべて、弘樹の想像だ。
(大体において、傀儡だったんだぞ、彼女は。)
真っ白の頭に、少しずつ考えを浮かばせる。
(操られていたときの記憶なんて、そうそう残っているはずがないだろ。)
弘樹は、そう考えると、深く深呼吸をした。
息を吸って、吐こうとしたとき、
「…あの夜の、病院での…あのこと。」
千鶴は、そう弘樹に告げたのだ。
ゆっくりと、弘樹に確認するだけではなく、まるで自分でも確認しながら声を出しているかのように。
弘樹は、吐き出した息をそのまま、飲み込んでしまった。
息の仕方を忘れた。心臓がバクバクと大きな音を立てているのが、鼓膜に響き渡る。
息ができない、その苦しい表情のまま、弘樹はゆっくり千鶴の顔を振り返った。
「ごめんなさい。」
千鶴は、弘樹の手を離すと、振り返った弘樹に深々と頭を下げたのだ。
弘樹は、罵られると思っていた。殴られることすら、覚悟していた。
けど実際は、予想が大幅に、裏切られた。
謝られる理由が、弘樹にはどうしても思い当たらない。
むしろ、謝るべきは、弘樹自身だ。
「あんな、その、無茶なお願いをしてしまって、安倍君を、困らせるだけ困らせて、あの。」
千鶴は、本当に小さくなって、肩をこれでもかとすぼめている。
まるで、千鶴のほうが「罵られる・殴られる」と思っているかのようだ。
「え、えっと。あの、そんなに縮こまらなくても、む、むしろ謝らなくても。」
弘樹は、千鶴にどう声を掛けるべきか、正答を見つけられず言葉に詰まった。
「むしろ、謝らなきゃならないのは、俺のほうで…」
千鶴の心を弄んだのは、ほかならぬ弘樹自身だ。それしか、傀儡からの開放手段が思い浮かばなかったとは言えど。
「安倍君は、謝らないで!!」
しかし、千鶴は弘樹の謝罪を途中でさえぎった。
弘樹は、目を点にした。どうして千鶴はそんなことを言うのだ?
「ほんと、安倍君に謝られたら、私は許してもらえないから。」
そういうと、千鶴は余計に身体を硬くした。
*
「あのね、うれしかったの。。あの夜のこと。」
立ち話で、こんな入り込んだ話も何だからと、弘樹は千鶴とともに川辺のベンチに腰を下ろし、
ちょうど川沿いの道向こうにあった自販機で缶コーヒーを買ってくると、千鶴に渡した。
そのころには、千鶴の緊張も解けたのだろう、縮こまらせていた身体を解きほぐし、落ち着いて話をし始めた。
「安倍君は、最低とか思うかもしれないけどね。けど、嘘であっても、片思いの人に抱きしめられるって、うれしいよ。」
あのときは、嘘だと冷静に判断している千鶴よりも、嘘でもいいからこの幸せにおぼれたいと思う千鶴のほうが強かった。
「来てくれたとき、ちょっとだけ、錯覚した。あぁ、私の王子様だって。助けに来てくれたって。」
ありがとう、助けてくれて。
「けど、あとは、嘘だって、分かっちゃったから。」
千鶴は唇を少しだけ尖らせる。
「分かり易すぎ。全然違う人のこと考えてなかった?」
弘樹は、視線を宙に向けた。誰のことを考えていたかなんて、今となっては覚えていない。
いや、誰かのことなんて、考えていたのだろうか?
「まぁ、いいけど。嘘でしょ?好きだなんて。」
あっさりと千鶴は続けた。
弘樹は、肯定も否定もしなかった。千鶴も、答えを望んでいない。
分かりきったこと、だから。
「それでも、うれしかった。キスされて、抱きしめられて、悦びすら感じてた。…ね、なんて最低な女。」
千鶴の顔には、自嘲の笑みがこぼれてた。
その笑みは、今にも壊れてしまいそうなほどの繊細さを秘めている。
「安倍君は、それでも、抱きしめてくれたから。わがままに応えようとしてくれたから。今となっては遅いけど、けど。申し訳なくて。」
そういうと、千鶴は弘樹のほうに身体を向けた。
「助けてくれて、我侭聞いてくれて、ありがとう。…もし、安倍君が嫌じゃなければ、私の中だけで、覚えてていい…?」
弘樹は、千鶴を見つめたまま、答えに詰まってしまった。
「あ、もちろん、安倍君は忘れていいし。安倍君に謝られると、全部本当に嘘だって思わなきゃならなくて…ごめん、すごい我侭だよね。」
それだけ、千鶴は、弘樹に想いを寄せていた。
怨念として利用されるほどの、いや、本当に純粋な想いとして。
弘樹は、今更ながらに思い知った。
自分が犯した、罪を。
「納得できない?」
千鶴は、重ねて聞いた。それはまるで、母親に叱られた子どもが母親のご機嫌を伺うかのように。
「けど、俺は…」
動きかけた唇を、千鶴の人差し指が動きを止めるようにそっと触れた。
一瞬だけ、二人の距離が狭まった。
「…安倍くんは、悪くないよ。」
だから、自分を責めないで。
「私は、貴方を好きになったこと、後悔なんてしてません。」
千鶴は、まっすぐに弘樹を見つめた。
自信に満ちた、柔らかな笑みだ。
「もし、安倍くんがそれでも納得できないのであれば、またこうやって、お茶に誘ってください。喜んで誘われますから。」
最後は、茶目っ気すら覗かせて笑っていた。
謝ることすら許されない、そんな罰もある。
忘れることすら罪だという、そんな罰もある。
甘んじて受けようではないか。それで彼女が救われるのであれば。
弘樹は、そう強く心に刻んだ。
だから、最後の彼女の茶目っ気には、笑顔で応じられた。
そんな2人を、見下ろすように見ていた人がいた、なんて
千鶴は無論、弘樹ですら、気づいていなかったのだけど。




