狐の章 12 願わくば
12 願わくば
ガラスの境界線を張った樹里は、その場にへたり込んだ。
目は、弘樹から離れない。
もう樹里が弘樹にできることはこの境界線の維持だけだった。弘樹の気が散らないように。
弘樹がどんな状況に追い込まれても、助けることは一切できない。
圧倒的に、弘樹の不利だと分かっていても。
ふと、樹里の手に何かが触れた。
震えた手。顔を上げると今にも泣き出しそうなゆきの顔があった。
樹里の隣にしゃがみこみ、けど、弘樹から目を離さず、ゆきは見つめていた。
その顔には、細かい切り傷が無数にあった。
その手は、無数の痣と裂傷と、出血で黒くなっている。
痛い、なんてものじゃないだろう。
「ゆき・・・ねぇ、痛いんでしょ?」
ゆきは首を横に振る。
嘘だ、そう思う。
「治すことはできないけど、痛みはとってあげられる。手を、貸して。」
そういうと、樹里に触れていた片手をそっと手に取った。
高志から、ゆきのことを聞いていた。
その話以上に、目を覆いたくなる、傷だった。
樹里はその手首の傷の上に、自分の手のひらを重ねた。
強張っていたゆきの顔から、すこしだけ安堵が広がった。
その様子を、後ろから見ていたのは井田だ。
「それだけじゃ、危険だ」
そう二人に声をかけてきた。
「雑菌が入り込めば、その傷じゃ、致命的だ。見せろ。」
井田は、ゆきに手を伸ばした。
それを樹里は、ゆきと井田の間に割って入ることで阻止し、井田をにらみつけた。
「何を、しようとしているの!?」
「何って、手当てだ。」
井田は、いたって落ち着いて樹里に言った。
「手当てって、そうやってゆきちゃんに…って、ゆきちゃん?」
樹里は、井田がゆきをまた罠にはめると思った。
しかし、ゆきはそんな樹里の肩に手を置き、首を横に振る。井田に素直に手を差し出した。
井田の脇には、笑顔の咲がいた。
自分の父を誇らしげに見る、満面の笑みの咲がいた。
ゆきにはそれだけで十分だった。
「すこし痛いかもしれないが、我慢だ。」
そういうと井田はポケットから小さなウイスキーボトルを取り出した。
口をあけると、ボトルの半分をゆきの手のひらにこぼす。
傷にしみて、ゆきはしかめ面をした。
そのしかめ面を、咲はずっと笑ってみていた。
井田は、手際よく持っていたハンカチを裂き、手首に巻きつける。
もう片方も同じように。
「簡単だが、ないよりはましだ。ほかにひどいところは。」
ゆきはくびを横にふった。
「ありがとうございます」そう、かすれる声で礼をいう。
ゆきに笑顔で寄り添ってきた咲をそっと抱き寄せる。
「ありがとう。」
礼をいっても、言い尽くせない。
「あとは。」
井田も、ガラスの向こうを見やる。
「安倍くん…大丈夫、だよね?」
ゆきは言葉を漏らす。
「大丈夫…けど…」
分は、弘樹のほうが格段に悪い。
呪詛の発動と、その呪詛の反故の発動。
反故が発動のスピードを上回なければ、弘樹は大丈夫ではなくなる。
しかし、多くにおいて、発動よりも反故のほうが手順を踏む上、難易度も格段に上。
呪詛が複雑さを増せば、その反故も複雑さを倍増せざるえない。
その上、ここは橘の陣が引かれた場所。
弘樹の体力の問題も発生している。
仮に。と樹里は思う。
(孤血を使ったとしても、それで制圧できたとしても、その後の反動に…)
弘樹は耐えられないかもしれない。
そこまで考えて、首を振る。最悪をかき消す。
「始まった」
井田が言った。
最後の、戦いだ。
*
ガラスの向こうで、爆風が吹き荒れた。
ゆきは、弘樹を見つめることしかできない。
気づくと鎖は1本ではなく、何百本と弘樹の全身に絡みついていた。
これが、呪詛の本体。
橘が、手を翻すたびに、1本ずつ橘の手から鎖は離れ
吸い込まれるかのように弘樹の身体に押し込まれていく。
その度に、刻まれる傷、流れ出る血。
けど、弘樹はかすかに頬を引き攣らせただけで、一歩も譲らなかった。
蒼い炎、弘樹の足元にはその炎が描く陣。
その炎は、弘樹の身体の鎖を、一本ずつ、徐々に焼き尽くしていく。
ただ、
樹里の言うとおり、スピードは橘のほうが上。
このままだと。
(いや、だ)
ゆきは強く思う。
「命を何だと思ってる。」
先ほどの弘樹の言葉がよみがえる。
命の重みを知っている人の、言葉だった。
(しんじゃ、いやだ)
呪詛の話をしたときの弘樹を思い出す。
あまりにも淡白に話していたのは、あまりにも他人事で話していたのは
それは彼が、考えたくなかったから
(しにたく、なんてないよ)
誰だって。そうだ。
そして。
ガラス越しに聞こえた、殺してやるの言葉。
ゆきには、弘樹の叫びが痛々しく聞こえた。
言葉は、殺戮者のそれ、なのに
まるで、自分自身にナイフを貫通させるような、悲鳴のような痛み。
(ころしたく、ないよ)
かれは、やさしいひとだから。
しにたくない
(しなないで)
ころしたくない
(ころさないで)
「…これ以上傷つかないで。」
鎖が、目に見えて減っていく。
終止符が、近づく。
その終わりは、果てしない苦しみの始まりのように思えた。
相反する想いが、交錯している。
何もできない自分。苦しくて悔しくて、ただそれだけで心がはちきれそうだ。
そのとき、ガラスの向こうが動いた。
弘樹が、両膝を地につけた。
一瞬、弘樹を包んでいた蒼い光が消えて、また生まれた。
決して、元の蒼では、なかったけれど。
ゆきは、息を呑んだ。
終止符が、近い。
「ヒロっ!」
ガラスに手を打ち付けて、樹里が悲鳴を上げて、泣いている。
なのに、彼は
「なに、笑ってるのよ!ばかじゃないの!ば、ばか、じゃん。」
うつむいた弘樹の唇は上に動く。少し歯が覗く。
笑っているかのように、見えた。
髪に隠れて、彼の目が笑っているかは見えないけれど。
樹里は、大声で彼に怒って、泣き崩れた。
分かってしまった。彼の最期の気遣いを。
ゆきの頬を、涙が伝った。
「…やめて。」
強く願う。
笑わないで。笑顔を見せないで。
死なないで。消えないで。
傷つかないで。
願わくば。
誰も傷を負わない、終止符を。
ふと、ゆきは手元を見ると、いつの間に、そこには咲の鎖を絶った刀が置かれていた。
すすぎ。それは、すべてを無にする。
ゆきは、顔を上げた。
涙は、地に吸い込まれて消えていた。
手には、すすぎ。
願いを手にするために、彼女は地を蹴った。
思い付きだった。けど、可能性があるならやるべきだ。
両手で柄を持ち、そのままの勢いでガラスを斬り割る。
一瞬で境界線が砕け散る。
「願わくば」
そのまま、鎖の中央にすべるように割り入ると
刀を最上段に構える。
「誰も傷を負わない、さいごを。」
ゆきはその一番強い力を放つ鎖の真上に刀を振り下ろした。
金属のぶつかる甲高い音がして、鎖がはじけとんだ。
鎖に込められたちからが、行き場を失うように大きく膨張し、それは地響きと暴風とともにはじけた。




