狐の章 11 解放
11 解放
「話が違うではないですか!」
エントランスの扉を大きく開け放った井田は、そういうと橘に詰め寄った。
「なにが?」
ゆきの首もとの手を離し、橘は冷めた口調で井田を軽くあしらうと、井田はさらに激高した。
「この状況はなんだというのですか!娘までいなくなりました!あれ程私は貴方のために…っ」
言葉の途中で橘は、激昂した井田を胸ポケットにしまったナイフで切りつけた。何のためらいもなく。
「うるさいよ。」
その動作は、まるで、たかったハエを叩き落すかのようだった。
井田は数歩後ろに下がった。切りつけたといっても、井田の身につけていた漆黒のジャケットが少しほつれた程度だ。
「娘がいなくなったのは、僕のせいじゃないだろ?お前の管理が悪いだけだ。」
橘は、井田に近づいた。ああ、そうか。と橘はにやりと井田の目をみる。
「娘がいなくなった、もう僕は死者再生って大技を繰り出さなくてよくなった。そしたら、君は用なしだ。」
残念だよ、そう続けた橘の顔は、決して残念そうには見えない。
むしろ、計画通りだ、といわんばかりだ。
橘は持っていたナイフを自らの舌でぺろりとなめあげた。
「ちょうどいい。お前のせいで余興がなくなったことだし、お前が余興をやれ。・・・面白い実験をしよう。」
ナイフは、なめあげた部分だけ、黒く変色している。
わけもなく青ざめ始めた井田に、橘は淡々と説明した。
「この黒いの、あの安倍の皇子の血だよ。さっきおいしくいただいた。」
その言葉に、井田も、数メートル離れたところまで逃げるように転がっていったゆきも驚きを、震えを隠せなかった。
「知ってるかい?この血は、毒だ。」
孤血を持っていない人間がこの血に触れれば、孤血の力に蝕まれて命を落とす。
そういうと、橘は容赦なく井田に切りかかった。
震えて腰が抜けた井田は、その場から動けない。
一度、ナイフがきらめいたときは、ジャケットが大きく刻まれた。
その刃に、押し出されるように、井田は大きく後ろへ身体を引いた。
けど、逃げられない。橘の、見えない結界に阻まれているかのように。
二度、ナイフがきらめいた。
その刃は、確かに井田の皮膚を切り裂いた。
「ひぃぃ」
ただ、「毒」は回らなかった。
救いは、切り裂いたのはナイフの切っ先。孤血に汚染されていない部分だった。
3度目、今度は確実にと言わんばかりにナイフを横にして井田に切りつける。
結界に身を囚われ、観念したかのように井田は目を瞑った。
ところが、数時たっても、井田は痛みも苦しみも感じなかった。
井田は恐る恐る目を開けた。
目の前の橘も、弘樹も目を見開いて、そのままとまっている。
井田の目の前には、滑り込んだゆきが、右手でナイフを受け止めている。
全力で滑り込んできたのだろう、ゆきは大きく息を切らしている。右手から、赤い雫が傷を負った手首に流れてこぼれた。
「…やめて。」
その瞳は、目の前の橘を見据えている。
橘はナイフを一旦引いた。
「むちゃなお姫様だ。そんなに早く殺してほしいのか。」
その目は、唇には笑顔のかけらもない、非情のそれ、だった。
ナイフにべっとり付いたゆきの血をふき取ろうともせず、ゆきに向かって高く振り上げた。
「お望みどおりにしてやるよ。井田、お前もよかったな。目の前でお前の敵殺してくれる。」
振り上げられたナイフ、一瞬ゆきの背後の井田が動いた。
井田の表情をゆきが見ることはできなかった。わかったのは、ゆきの腕に手をかけたその井田の太い腕だけ。
ゆきの頭は、真っ白になった。次の動きが、咄嗟に出てこない。
ゆきはきつく目を閉じた。
ナイフは、容赦なくゆきの頭上に、力いっぱいに振り下ろされた。
「ふざけんな。」
低い、感情を押し殺したような声が、ゆきの耳元に響いた。それと同時にナイフは、ゆきの頭上手前で、木っ端になった。
木っ端になる直前、凶暴な風が辺りに吹き荒れた。
その風をまともに受けた橘は、そのまま壁に全身を打ち付けられる。
井田はゆきの腕を取ることなく、目の前の光景に身体をピクリとも動かせずにいる。
風がやむと、弘樹がゆきの前に立っていた。
「ばかやろう。命を何だと思ってるんだ。」背中を向けたまま、そう弘樹は言った。
怒っているけど、すごく優しい。ゆきは、そう思った。
やっぱり、優しい人だと。
弘樹の周りに、青白い炎が見えて消えた。
「でもって、遅い!遅すぎだ!」
弘樹は目の前の何もない空間にそう怒った。
一瞬、弘樹が何に対して怒ったのか、ゆきは判りかねたが
その直後に、自分の脇に見知った空気が降ってきた。
「ごめんなさい。遅くなりました。」
明らかな棒読みでゆきの目の前に姿を見せたのは、樹里だった。
「そんなに怒ることないじゃんか。」
樹里は、唇を尖らせて怒ってみせる。
「ここまで遅かったってことは、成果ありだろうな。」
弘樹は、決して樹里を振り返らない。
橘の動きに、すべてを費やしている。
「まあね。それにしても、ほんと馬鹿な歴史を引きずるのね、人間って。」
昔、出雲のある地域で大津波があった。すべてが海に消えた。
神の怒りだと、住民は震え上がった。
ちょうどその時、ある占者が神の声を聞いた。
神の怒りを納めるには、それ相応の物が必要だと。
それが、人柱の巫女の慣わしとなる。
「運命を切り離すって、仰々しいけど、要は「もういやです」って言うことでしょ?」
巫女としての運命を、なかったことにする。
もともとこの現在の世の中にあってはならない悪しき習慣だ。
それを表ざたにされることを嫌がった出雲は、すぐさま樹里の、いやキョウトの提案を呑んだのだろう。
咲は、出雲から、巫女としての運命から「解放」された。
そして、巫女の運命から逃げることに成功したゆきに関しても、出雲は認め、咲とおなじ措置をした。
樹里は、それを弘樹に伝えると、弘樹との間に堅固なガラスのような境界線を張った。
弘樹と橘。
樹里と、ゆきと、井田。そして。
樹里は気づいていたし、だから何も言わなかった。
「おっさん。」
弘樹は振り返らず、井田に呼びかけた。
「おっさんの言いたいことは、俺は理解できない、けど、頭っから分からないとは言わない。
あとで話を聞かせてくれ。それまで、そこで大人らしく、頭を冷やしてろ。」
弘樹も、気づいている。
だから、ゆきと井田は同じ場所にいる。
「さてと。」
弘樹は、後ろの結界のすべてを捨て去った。
目の前に集中する。鎖を握る。
「そろそろ、終わりにしないか?」
弘樹の顔は、大量の出血で白くなってはいたものの、晴れ晴れとしている。
もう、縛るものはこの鎖しかない。
「お望みのように。」
身体についたほこりを払うと、橘は鎖を握りなおした。
ひとかけらの、笑みはなかった。
弘樹の手には、いつの間に拾ったのか、橘が結界で使っていたナイフが握られている。
そっと、鎖にナイフを当てる。
その弘樹の動作を、橘は凝視する。
「気づいていると思うけど、一応言っておくよ。」
この鎖には、細工がしてある。
呪詛の発動は、命だけではなく、力すら奪いつくす。
「僕がほしいのは、君の命じゃあ、ない。存在そのもの、力そのものだ。」
一歩、足を進める。
「そのために、どれだけの人を、巻き込んだ?」
鎖にナイフを当てて、ナイフを橘に向けて、弘樹は重い口を開いた。
弘樹の力を手にするために
弘樹の力を自分のものにしたことを立証するために
橘は、井田の弱みに付け込んだ。
娘を、よみがえらせてやると。
弘樹の力を奪うためだけに、入り込んだ呪詛の「元」だけを彼に手渡し、
その呪詛を、千鶴に埋め込んだのも。
ゆきに近づき贄に仕立てようとしたのも。
井田の娘を、むりやり連れてきたのも。
すべて、橘のその歪んだ願いからだ。
「力がほしいなら、くれてやる。惜しいとも思わない。ただな。その力が誰かを傷つけるだけの自己満足なら、冗談じゃない。」
弘樹は、橘をまっすぐに見据えた。その目には、最大級の怒りと蔑視。
「力なんて、自己満足のためにあるものだろ?ほかに理由なんてない。」
橘も、視線をはずさない。
「お前に、必要ない力なんだろ。なら、遠慮なくいただくよ。」
橘の手の中で、鎖が鳴った。
「お前なんかには、使いこなない。だから、やらない。」
弘樹はナイフを僅かに鎖の上を滑らせた。
「だから」
「お望みどおりに」
「殺してやるよ」
二人の声が重なり、恐ろしいほど広くに反響した。




