狐の章 10 罠
流血表現&暴力表現があります。苦手な方注意。
10 罠
銀妃は、人である弘樹の負担にならないように短い空間を何回も分けて移動していった。
銀妃に手を引かれて、トンネルを何度もくぐる、弘樹は初めての感覚をそう表現した。
長い空間、となると人の三半規管が狂うので、気絶してた方が楽だと樹里から聞いたことがある。
方向からして貴船のほうだろうか。
早く早くとせかす心の反面、少しずつ冷静さを取り戻していけたのは
トンネルを抜けた瞬間の、肌を切る冷気のおかげだ。
出立のとき、高志が「仮説」を耳打ちしてくれた。
仮説が正しければ、銀妃が干渉できることが極端に制限される。
仮説が正しければ、なぶられ続けたゆきは、そのまま殺される。
弘樹は、高志が考えたという点を除けば、その仮説は力を持っていると判断した。
やるべきことは、非常に明確だ。
最後のトンネルを抜けると、目の前に大きな祠があった。
「わらわが干渉できるのは、どうやらここまでとなってしまったらしい。」
この件は、別の皇子が関与している。皇子同士の争いに、手出しはできない。銀妃の言葉は本心から悔しがっていることがわかる。
「あとは、俺がやるべきことをやるだけだ。」
弘樹は銀妃の手を離すと、祠に向かって歩み始めた。
数歩歩んだところで、弘樹は振り返らずに銀妃に叫んだ。
「もし、もし可能だったら。ゆきをこちらに逃がす。保障はできない。けどやってみせる。
そのときは、どうか彼女を護ってやってほしい。」
自分の手で、護れなくなるかもしれない。
それでも、絶対彼女だけは銀妃の下へ送る。
「どうか、加護を。」
精一杯の願いだった。
「諒承した。」
その声は、いつもの厳かな銀妃の声だった。それだけは、弘樹は安心した。
*
祠の奥の扉を押し開けると、そこはどこかの豪邸のエントランスのようだった。
ただ、何年も誰も来なかったのだろう。毛足の長い深紅のカーペットは、色あせ、一歩進めるたびに埃が舞い上がる。
照明も、どことなく暗く、さながらホラーハウスの雰囲気すらあった。
弘樹は、一歩進むたびに慎重に周りを見渡す。
手のひらは、すでに汗ばんでいる。
感覚を、最大限に研ぎ澄ます。
罠だ。銀妃に散々言われたし、高志も樹里も肯定している。
今更否定する気もない。
狙いは、弘樹の術の力と、さしずめ孤血だろう。
だから、呪詛そのもので殺さず、呼び寄せた。
何十にも、「来ざる得ない理由」をつけて。
ちょうど、エントランスの中央まで歩を進めた弘樹は、その奥、2階に上がる階段の前に、何かが「置かれている」ことに気づいた。
黴臭い匂いばかりだったはずが、ここにきて、そこに違う匂いが混ざっていることに気づく。
大量の、生臭い、鉄の、匂い。
嫌なにおいだった。最悪が頭を駆け巡る。
弘樹は、何かにはじかれたように、残り半分のエントランスを駆けた。
おかれたものを目にしたとき、眩暈がした。
遅かった、と思った。
投げ捨てられたかのようにおかれた「それ」は、ぐったりと頭を下げた、ゆきだった。
まるで人形のように、ぴくりとも動かず、
なげだすように置かれた足は裂傷と痣でひどく痛々しい。
柔らかな生地のスカートは、ところところ裂かれ、ひどく血がにじんで黒くなっている。
ブラウスも同じだった。そこから伸びる腕は、足以上に凄惨なものだった。
手首は切り落とさんとするばかりに何十にも切り裂かれ、そこからいまだに赤い血がにじんでいる。
肩まで届く栗色の髪は、血を吸って、ところどころ絡んでいる。
身体を、壁に預け、ピクリとも、動かなかった。
弘樹は、ゆきの前にしゃがみ、震える手でゆきの首元に触れようとしたが、触れる直前で慌てて手を引き下げた。
首に、何かが巻きついている。
それは、きらきらと光を反射する、細いテグス糸のようなもの。
首だけではない。
手に足に、身体を縛るかのように細い糸が巻き付いていた。
巻きつきは強く、部分部分で食い込んで、新しい血が噴出している箇所すらある。
これ以上強く巻きつければ、もしくは糸の先を引けば、それは肉を切り裂き、見るも無残な姿となるだろう。
弘樹は、立ち上がると、階段の上、糸の先を目で追った。
「へぇ。これは平気なんだ。」
階上から声がする。弘樹よりも若い、男の声。
「悪趣味に付き合うつもりはない。」
弘樹は硬い声で言い捨てた。
「あの時の慌てぶりから、これでいいと思ったんだけど。いつ、気づいた?」
ニセモノの人形だ、って。
その声は、弘樹と違い、とてもにこやかだ。
面白くないなぁと声の主は階下の弘樹に姿を見せると
手に持ったテグスの先を強く引いた。
ゆきの姿をした人形は、一瞬ですべてが引き裂かればらばらになる。
乾いた陶器の割れる音が響く。
「これでも、本物の彼女の血、使ったんだよ。」
場にふさわしくない、穏やかな目で橘は弘樹を見下げる。
人形の血は、弘樹のシャツの右腕を赤く染めていた。
「けど、動揺、してるね。」
橘は、一足飛びで階下に下りると、そのまま持ったナイフで弘樹に切りかかる。
反応が半秒遅れて弘樹が後ろへ身体を引いた。
その半秒が弘樹の手の甲を切り裂いた。
橘はそのままナイフを部屋の隅に投げやる。
地面に突き刺さると、白い光が部屋中を走った。この部屋に組まれた陣が完成した。
弘樹はその光が収まるか否かで、階段を駆け上がり、左手で宙に陣を切る。
「遅いよ」
橘は右手を二度三度宙に舞わせた。
その動きは、白い光のリボンとなり、ナイフで切り裂いた弘樹の右手を確実に縛り捕らえた。
そのままリボンを強く引き寄せる。階上の弘樹に無理やりの力をかけ、引きずりおろす。
「地に陣を引く術者は、おのずと頭上がノーマークとなりやすい。だから上を狙う。
発想はいいし、陣も正確だ。けど、2つ、ミスしてる。」
地面に叩きつけられる形となった弘樹は、ふらつく頭を抑え身体を起こした。
「ここは、僕の陣地だ。君が気づかなくても、術はあらかじめ準備している。当然、行使スピードは僕のほうが上だ。」
そういうと、橘はゆっくりと宙に陣を切る。
それが何を意味するのか察知した弘樹は反故の陣を瞬時に切った。
スピードは弘樹が上だ。本来なら、相殺される。
ところが、橘の術は弘樹のものより先に完成した。
かまいたちのような空気の刃は、弘樹の手の甲の傷をより深い傷にした。乾いた傷から、先ほどとは比べ物にならない血があふれ出た。
「そして、僕は君のちからを知っている。だから、殺さないとか生かしたまま捕らえるとか、そんな甘ちょろい考えで挑むと。」
橘は瞬時に手のひらにちからを溜め込んで弘樹の目の前にそれを押し付けた。
白い光と、爆竹のような爆発音。
「呪詛の前に、君が死ぬ。」
そう言い放った橘は、目の前に弘樹がいないことに気づいた。
弘樹は、爆発を瞬時に身体を引いてよけると
そのよけるときの勢いのまま身体をねじり橘の真横に回りこんだ。
そのまま、橘を蹴りつける。
その勢いに、橘は後ろへ強く飛ばされた。
「で、何だって?」
弘樹は手に付いたほこりを打ち払うと、右手の甲から流れる血を舌でなめとった。
左手は、呪詛の鎖を握っている。
「その言葉そのまま返す。俺はやることやって帰る。」
そういうと、弘樹は血で濡れた右手をすっと前に差し出す。
「我が声に、応えよ。」
橘は反応できなかった。
弘樹の狙いが読めなかった。
部屋の隅からガラスが砕けるような音が続けざまに聞こえる。
術のキーとなっていた、ナイフを、そしてナイフが織り成していた陣を木っ端にした。
弘樹が階段を駆け上がったのは、頭上を狙ったわけではない。
地に構成された陣を見渡すには、上のほうがいいから、ただそれだけだ。
また、橘はナイフについた弘樹の血を使って捕縛したのだが
それを弘樹も利用した。自分の血をリンクさせて、ナイフを破壊した。
そんなこと、目の前の男に説明する気は一切ない。
慌てて立ち上がった橘に弘樹は右のこぶしを見舞ってやった。
そのまま胸倉をつかむ。
「で、悪趣味野郎。ゆきはどこだ。」
淡々と言葉をつむぐ弘樹の怒りに、しかし橘は口の端に笑みを浮かべた。
そのまま、自分の手のひらを弘樹の胸に、つながった鎖の真上に勢いよく押し付けた。
嫌なジャラリという音がこだました。
胸倉をつかんだ弘樹はその手を離し、そのまま後ろに飛ばされた。
鎖を、引っ張ると逆に身体に押し込まれた。
身体に異物を押し込まれた違和感と異物を飲み込んだキリキリという痛みに、目の前がゆれた。
身体を丸めて、荒い息をたてる。
「形勢逆転ってことで。自分の置かれた立場すら忘れちゃうなんてお馬鹿さんだね。」
橘の手には、金色の鎖。
「悪趣味結構。楽しければいいじゃん。」
楽しければ、といいながらも先ほどの穏やかな笑みとは打って変わって、口元は笑い、目は弘樹をにらみつけている。
「ゆき、だっけ?あの狐。」
弘樹が顔を上げた。その言葉に先ほどの苦痛のとは違う、冷や汗が背を伝った。
橘の口元が、にやりと嗤った。
「かわいかったよ。苦痛に歪む顔。しかも、とってもかわいい声で、ないてくれた。」
弘樹は橘の言葉の途中で無理くら身体を起こすと、痛みを忘れてこぶしを振り上げた。
しかし、こぶしが橘の身体に入る前に、橘は無情に鎖を強く引いた。
こぶしは空しく宙を切り、弘樹はそのまま体勢を崩して地面にひれ伏した。
即席でふさいだ胸の傷が、一気に開いた。赤い血が散り飛んだ。
「君も、視ただろ?どんなに辛くても、泣き言漏らさず耐え抜いて、けど、ふとした瞬間に見せる苦痛、恐怖。
あれほど、かわいいものだとは思わなかったよ。」
弘樹の胸からあふれる血と全身の痛覚のパニック。
橘のその言葉は、それを助長するものでしかなかった。
橘は地面にひれ伏す弘樹に自分のかかとを乗せた。
軽く押してやるだけで、面白いように弘樹の周りに血の円が広がる。弘樹の呻きも大きくなる。
「このままだと死んじゃうね。」
そういうと、橘は面白いおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべた。
「もったいないなぁ。」
その笑みは、悪魔の笑み。
そういうと、橘は弘樹の後ろ髪を引っ張り上半身を持ち上げた。
弘樹は、痛みで痺れで、感覚の麻痺で抵抗できない。上半身が弓なりに反り返った。傷が余計に開き血が噴出した。
声にならない悲鳴が上がる。
橘は、そのままもう片方の手であふれる血を掬い取ると、自分の口に運んだ。
「吸血趣味はないけど。いけるね。」
口の周りを赤く染め上げて、しかし、次の瞬間橘は弘樹の胸に、傷に手をあて、出血を止めた。
橘は、弘樹から手を離した。崩れ落ちる弘樹を横目に、自らの唇を袖で拭いた。
今の弘樹は、人間が一度で失っていい血液量のぎりぎりまで地面に、橘に奪われた状況だった。
目の前に霧がかかっている。
このまま気を失えば、楽になれる。
けど、それは終わりをも意味する。
「今死なれると面白くないから、助けてやっただけだからね。面白いこと、思いついたんだ。」
いまから、彼女を連れてくるよ。
満面の笑みで、橘は言った。
「彼女の前で君が死んだら、もっといい声でないてくれるよ。君の前で彼女が死んだら、君の怒りで精製されたむき出しの狐血をもらえる。
どっちに転んでも、おもしろいね。」
さて、どっちがいいかな。
その姿は、おもちゃを選ぶ子供のように、無邪気で、残忍だった。
弘樹は、懸命に全身を動かそうとした。立ち上がろうとした。
けど、思うように力が入らない。力という力が、いったいどこに行ってしまったのかと思うほどに。
橘は、階段下の小さな扉に手をかけた。
「あれ?起きてたんだ。」
ぱちんと音がして(結界を破裂させた音だろう、弘樹はぼんやりと思った)
扉を開けた橘は、中の人にそう漏らした。
橘は、その中に入った。話し声が聞こえるが、内容までは分からない。
数分とたたずに、橘と、その後ろから、ゆきがゆっくりと出てきた。
丈の長いトレンチコートの前をしっかり閉めている。若干青ざめてはいたが、ぱっと見は外傷は見えない。
弘樹の目が、かすんでいたから、かもしれないが、それでも
あの人形のような惨状を想像していただけに、僅かに安堵のため息が漏れた。
ゆきは、目の前の血まみれの弘樹を見つけると、青ざめた顔からすべての血の気をなくしたような表情で
足をもたつかせながら、弘樹の下に駆け寄ってきた。
弘樹の脇にぺたりと座り込むと、かすれた声で、ごめんなさいごめんなさいと頭を下げた。
弘樹は身体を横に向けて、無理くら起き上がろうとした。
僅かに残された腕の力を使って、何とか上半身を持ち上げたとき、彼女のトレンチコートから出ている手と足が目に入った。
外傷がない、なんてものじゃない。
ひと目であの人形の怪我より、ひどい状況だと分かるほどだった。
ゆきは、その弘樹の視線に気づき、そっと自分の手を後ろへやった。
「どうした?…なに、された?」
怯えるゆきの目をみながら、弘樹はやさしく声をかけた。
ゆきは首を振るばかりで、答えようとしない。
ただただ、ごめんなさいを繰り返しうわごとのようにつぶやいている。
恐らく、コートの下は、見るも無残な状況なのだろう。痛いなんて、生易しいものではないだろう。
弘樹は、彼女から視線をずらした。見ているのが、とても辛かった。
「はいはい、感動の再会はここまで。」
橘は、いつの間にかゆきの背後に立ち、心から嫌そうな声で二人の間に割ってはいると
ゆきの首後ろのコートを鷲つかみ、無理やりゆきを立たせた。
そのまま、両手をゆきの首にかける。
「きみに、きーめた。」
先に死んじゃう人。
橘は、ケラケラと笑いながら両手に力を込めた。
無抵抗に、ゆきの身体が宙に浮く。
「や、めろ」
弘樹は、力の限り叫んだ。声にすら力が入らず、上ずったような声しか出ない。
「やめ、るんだ。」
弘樹は、ふらふらになりながらも最後の火事場の馬鹿力よろしく、身体を起こした。
止めなくては。
お前の目的は、俺だろ?
相手が、違うだろ。
そのときだった。
「橘殿!」
エントランスを大きく開け放って、煩いほどの激しい足音で入ってくる人がいた。
井田雄大、その人だった。




