表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

恋というもの

作者: 宮城まお

パブロ・ミレーが発表した5作目のシングル「マドンナ」は世に放たれたと思えば、電波という電波を伝い、僕の、僕たちの外耳道を通り、脳に吸収されていつの間にか生活の一部に溶け込んだ。「マドンナ」は各会社のヒットチャートの一位を総ナメにして、まだ衰えぬその勢いのままにitunesを媒介にして、アメリカへと向かった。

ボーカルの痩せた男が紡ぐ音は繊細でなおもキャッチーだ。この男の作る音は外耳道を抜けながら、基本的には天地無用である脳内にうまく入り込み、頭の中の感覚を引っ掻き回してぐちゃぐちゃにした後、全てを奪い去り、夏の残り香を残して消える。人間の耳は一般に、聴覚の他に平衡感覚や回転覚を感知するというが、「マドンナ」はこの全ての感覚をフル活用させ、頭の中を嵐のように通り抜けていく。


僕は、大学を卒業して以来久しぶりに買ったミュージックジャパンの記事に目を通す。そして、僕の感覚が世間と概ねズレがないことを確認して、パブロのボーカルが特集された、見開き3ページに渡る長い長いインタビュー記事をそっと閉じる。

新宿を背に只管に郊外へと時速95kmで進む終電車の窓には、世の中の強者に生気を吸われ、塩漬けにされたキュウリのような萎びたサラリーマンのポカンとした間抜け面が写っている。勿論、僕である。

同い年なのに、えらい違いだ。いや、照明を当てられないこの年の男なんて、この程度のものなんじゃないのか。


パブロのボーカルは僕の高校の同級生だ。いや、友達か。いや、部活の、軽音部の仲間だ。

そして、パブロのボーカルである矢下が作った「マドンナ」の曲のモチーフは神崎栞のことだ。矢下はそう名言したわけでないし、これからもその名前を明かすはずもなかったが、おそらく、彼女のことに違いなかった。神崎栞のことを意識している、していないに関わらず。

矢下の目を、耳を通すと、神崎栞はこのように写っていたのかと驚き、そしてすぐに納得した。


会社に用意された築22年の木造アパートの1LDKの部屋に戻るには、あと30分は電車に揺られる必要があった。少しは考えを整理する時間がありそうだ。





「そういえば、お前から女の話って聞いたことないけど、もしかしてゲイ?」

ゆでだこのように真っ赤な顔をした先輩が、呂律の回らない声でそう聞いてきた時には、時刻はすでに夜11時を回っていた。先輩はぬるそうなビールを煽り、横を通った女性のウエイターにビールを2杯と、怒っているのか注文をしているのか判断のつかないトーンで声をかけた。

可愛げのない20歳そこそこのアルバイト店員は、低い声で返事をすると、面倒そうに厨房へと向かった。


「いや、べつにそういうわけではないですが。」

「じゃあ、彼女いんの彼女。」


どうせいないと思ってるんだろ。僕はニヤニヤと気持ちの悪い半笑いを浮かべる先輩社員の薄くなりかけた頭皮と、左手の薬指にはめられた鈍い銀の輪っかを一瞥する。


「いませんけど」

「好きな女は?」


好きな女、はいるのかいないのかよく分からなかった。いや、30年弱生きてきたというのだから、恋人と呼ぶような女性の1人や、2人はいたに違いなかった。

だけど、それが好きな女かと言われれば、答えは違う気がする。

「マドンナ」は吉祥寺にある、狭くて小汚い店のなんの変哲も無いスピーカーからも流れる。まるで日本社会に蔓延る小さな悪のように、気を抜けば、僕の心の隙間を狙って、心臓をチクチクと死なない程度に刺し続けるのだ。







神崎栞は群馬の中でも特に存在感のない高校の、特に冴えない生徒達にマドンナと呼ばれていた。色で例えるなら灰色で、漢字で例えるなら「凡」、そんな高校のマドンナなんだから、実に名前負けをした大したことのない女なんだろう、僕は今でもそう思っている。

まさに普通の女、もとい女の子であった、もとい女の子であっただろう。なぜこのように回りくどい表現の仕方なのか、それは、彼女に関する記憶が曖昧だからである。顔は勿論思い出せない。同級生のどうでもいい女子の顔はぼんやりと思い出せるのだから、そこまで記憶力が悪くなっているわけではない、と信じたい。


神崎栞について覚えいることと言えば、まず、その白い太ももだ。勘違いしないでほしいが、これは事故だ。別に見ようと思って見たわけではない。


いつかの放課後の、どこかの階段の踊り場を掃除をしていた時のことだ。僕は使い古されて毛先の跳ねた箒を、廊下の隅に器用に当てがい、埃を集めるのに苦心していた。


すると、一定のリズムで階段を跳ねる、足音がした。トン・トン・トンと、三拍子だ。そんなことを考えている間に、階段の上から、ち・よ・こ・れ・い・と と唱えながら、女の子が駆け下りてきた。大股で階段を下る彼女は、スカートの裾がどうなろうと気にもしない様子で、豪快に、しなやかにジャンプを繰り返す。

そのひらひらとはためくスカートの裾から覗く白い太ももは、蝋のように白く、石膏のような滑らかさだった。触ってはいないので、想像だけど。

目の前を神崎栞が駆け抜けると、風と共に金木犀のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。

思わず箒を持ったままに、彼女の姿を目で追うと、そのまま階段を下っていき、いつの間にか視界の端から消えていった。

ああ、埃を集め直さないと。そう思いながら階段の踊り場から見上げる窓の外は、赤く、只管に赤く染まっていた。秋の空の、燃えるような夕焼けだった。

彼女は一体何者だ。僕が初めて神崎栞に会った時のことである。







神崎栞について覚えていること。神崎栞と再会したのは、矢下との会話の中だった。


僕は部室の隅に座って、リノリウムの床についた小さなキズを指でなぞっていた。窓の外からは野球部の揃いに揃った砂を蹴る足音と、いち・に・いち・にという規則的な声が断続的に聞こえている。


「あいつ、知ってる?」

「あいつって?」

「マドンナ。神崎栞。」

「だれそれ。」

「うちの高校のマドンナって呼ばれてる女のこと。」


矢下は、ギブソンのギターの弦を替えながら何の気なしにそう言った。ギブソンのギターは、彼がバイトをいくつか掛け持ちをして買ったと自慢していたもので、僕でも知っているほどにそこそこ値段の張るものだ。ふいに弦が弾かれて、小さく音階を刻む。


僕は床のキズをなぞり続けながら、そんな女いたっけと少し考えてみたが、浮かばなかったのでほぼ即答するような早さで、未来のロックスターになってしまった矢下に言う。


「知らない。」

「そっか。」

「矢下は知ってんの。」

「見たことは、 ある。」


弦を張り終えた矢下は、ピックで弦の一本一本を弾く。僕は調弦をする時のギターの音が一番好きだった。本番にアンプから発される、腹の底に響くようなあの音よりも。


「どうなの。そんなにカワイイの。」

「そうでもない。変なやつ。階段を、ほら、ジャンケンで勝った分だけ進める遊びみたいなのしてる。グ・リ・コって。それも1人で。」


きっとあの女の子のことだ。その時初めて、神崎栞の名前を認識した。

その時、ギター以外に興味を示さない矢下の表情に、一筋の光のような何かが差していることに気づいた。後に、僕はそれを思い浮かべる間に、彼の好意だと気づいたのである。








最後に神崎栞に会ったのは、卒業式の時だ。

実に、僕は神崎栞には2回しか会ったことはない。もとい、2回しか見たことがない。

そして、そのうち1回しか会話をしたことがない。もとい、正確に申告するならば、1回しか声を聞いたことがない、だ。



卒業式が終わり、なんとなしに催される写真撮影会も幕を閉じ、生徒が少しずつ校舎を去り始めた時のこと。僕は軽音部の後輩にピックと弦のプレゼントを貰った後に家へ帰ろうとしたが、忘れ物に気づいて体育館まで戻ることにしたのだった。

体育館の倉庫の中に、タオルを置いて来てしまったのに気づいたからだ。普段なら、見て見ぬ振りをして家に帰るところだ。そうすれば、きっと誰かが捨てただろう。そうならなかったのはなぜだろうか。僕は思うが、もしかすれば、神の思し召しかもしれない。なぜなら、それが神崎栞の姿を見ることのできる、最後の最後のチャンスだったからだ。


何も知らない僕はアスファルトの道を蹴る。校舎から体育館は200メートルほどの距離があり、道中は緩やかな上り坂になっている。

足を進めると、次第に体育館が姿を表す。そこに、彼女はいた。

体育館に寄り添うように、一本だけ生えている桜の木の下に、神崎栞は1人で立っていた。


僕は息が切れた振りをして、桜の木の前でスピードを落とした。風の強い日だった。前髪を整えると、急いでいる風に足早に体育館へと足を進める。

神崎栞は卒業証書の入った筒を大事そうに抱えながら俯いていた。声をかけるか迷ったが、迷いに迷った結果、考えている間に体育館の入り口に到着してしまったから、結果的に声をかけることはできなかった。



忘れ物を手に体育館を出ると、まだ神崎栞はそこにいた。誰かを待っているのだろうか。まだ俯いているから、表情はわからなかった。顔を上げてくれ。マドンナと呼ばれる女の子の顔を見てみたいのは、男子高校生ならごく自然のことでないか。


声をかけるか、かけないか。そう迷っている間に、彼女の前を通り過ぎてしまう。そして思う。僕の高校生活は終わったのだと。終わったというのは、エンドということだ。シーユーネクストステージってことだ。


「ねえ、ねえ!」


後方から、鈴の音のような可愛らしい声が聞こえる。その声が自分に向けられたものだと気づくまでい、しばし時間を要した。その声が僕宛のものだと気付いたのは、まさかと振り向くと、ねえ、の声が止んだからだ。


「それじゃあね。またね。」


風の強い日だった。またも、神崎栞のスカートは風に舞ってヒラヒラとはためいていた。

春の風のような爽やかさで、君は、そういって夕焼けに消えた。夢から覚めたような気分だった。



頭の中でそれじゃあね、またね、といつまでも彼女の声を反芻していた。









「別に、いませんよ。」


油でくすんだ、鈍色の光を携える鈴木先輩の薬指の輪っかを眺めながらそう言った。なんだよ、つまんねえな、と口の端に泡をつけた鈴木先輩はそういった。

ビール2つと言いながら、先ほどの金髪の頭の店員が乱暴にテーブルの上にジョッキを置く。乾いたねぎま串が、味気のない皿の上に転がっている。


店内に「マドンナ」は流れ続ける。

もちろん、あの日を最後に神崎栞の姿は見ていない。どこで何をしているかも知らないし、彼女がそのプライベートを無造作に、インターネットの中に放り投げるとも思えない。

しかし、彼女は伝染し続ける。矢下の作り続ける曲を通じて、電波に乗って、どこまでも。そして、何の特技も持たない僕の記憶の中で。

彼女は紛れもなく、灰色の絵の具で塗りつぶされたキャンバスの上に、間違って描かれてしまった一筋の光の線だった。

それじゃあ、またね。彼女の声は酒屋の喧騒に紛れて、僕の耳に届く。鈴の音のように、小さく、そしてはっきりと。そしてこれが、きっと、誰のものよりも綺麗な恋の話だ。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 物語の空気感 素敵です。 良いですねえ、この怠惰的と言うか 場末の酒場で嗅ぐあの酢えた独特の臭い そこに割り込んでくる若さと言う これまた怠惰なそれでいて甘酸っぱい 臭い そしてミュー…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ